■第5章「説明のある不安」:一話(正しい文章)
高島の受信箱に、件名だけが増えていった。
増えるのは情報ではなく、説明だった。
大学から。
学部から。
委員会から。
画面の上で、同じ語尾が静かに並ぶ。
「安全配慮の観点から」。
「情報管理の観点から」。
「運用効率の観点から」。
観点という言葉は便利だった。
誰の視点でもない顔をしている。
顔がないものほど、責任を持たない。
責任を持たないものほど、長く残る。
高島は研究室の椅子に座り、画面を開いた。
背筋を伸ばす。
机の上の紙を揃える。
揃えてから、読む。
順番は毎回同じだった。
通知は丁寧だった。
敬語が揃っている。
行間が均一で、角が立っていない。
角が立っていない文章は、刺さらない。
刺さらないから、拒否もしにくい。
件名はこうだった。
「研究者ページの公開範囲変更について」。
本文は短い。
変更理由は長い。
第三者からの情報照会が増加している。
個人情報の保護が必要である。
安全配慮の観点から、公開範囲を見直す。
一定期間、公開を停止する。
停止は削除ではない。
そう書いてあった。
停止という言葉は、責任を薄める。
薄められた責任は、誰にも載らない。
載らないものは、争えない。
停止なら、戻せる気がする。
戻せる気がすれば、人は黙れる。
黙れるのは、まだ選べている気がするからだ。
選べている気がする限り、人は溺れていないと思い込める。
高島は文末の句読点の位置を目で追った。
適切だ。
読みやすい。
読みやすい文章は、正しい。
正しい文章は、反論しづらい。
反論するには、自分が間違っている側に立つ必要がある。
間違っている側に立つ勇気は、生活に含まれていない。
高島は画面の端で、自分の研究者ページを更新した。
ページは表示された。
業績も載っている。
写真も残っている。
残っていることが、いまは救いに見えた。
救いに見えた瞬間、彼は気づく。
「残っている」ことを、評価している。
評価する側に回った時点で、すでに運用の中だ。
通知の末尾に、問い合わせ窓口が書かれていた。
担当部署名。
担当者名。
内線番号。
どれも整っている。
整っているものは信頼できる。
信頼できるものは、電話してもいい気がする。
だが、高島は電話をしなかった。
電話は会話になる。
会話は相手を発生させる。
相手が発生すれば、こちらも発生する。
発生することが怖いわけではない。
発生することが、重い。
重いものほど、生活を止める。
生活は止められない。
父の介護。
妻の仕事。
研究費。
期限。
紙の上に並ぶ理由が、彼の口を塞ぐ。
午後、学部運営会議の議事要旨が回ってきた。
要旨もまた丁寧だった。
議論の熱は削られ、結論だけが残っている。
「当面の対応」。
「関係者の安全配慮」。
「混乱防止」。
反対意見の欄はない。
欄がないものは、最初から反対が存在しない。
存在しない反対は、消されても痛まない。
高島は要旨を印刷した。
乾いた排紙音。
紙の余白が白い。
白は汚れない顔をする。
末尾に追記があった。
「学内外の照会対応は窓口を一本化する」。
一本化は合理的だ。
合理的であれば、正しい。
正しいなら、安心できる。
安心できるなら、従える。
従えるのは、守られているからだ。
守られていると感じる限り、人は疑わない。
その理屈が、島と同じ形で頭の中を流れた。
そのとき、研究室のドアがノックされた。
学生だった。
「先生、これ、学内の掲示なんですけど」。
学生はプリントを差し出した。
紙の角が少し曲がっている。
高島は受け取り、角を揃えた。
掲示には、倫理審査の手続き変更が書かれていた。
「特定の地域・集団に関する研究は、事前に申請を」。
「誤解を招く可能性があるため」。
「安全配慮の観点から」。
学生は軽い調子で言った。
「面倒ですね」。
面倒という言葉には怒りがない。
怒りがないから、強い。
強い言葉は、空気に残る。
高島は頷いた。
頷きは反論ではない。
反論しないことが、同意に変わる。
同意は次の手続きを呼ぶ。
高島は学生に言った。
「手順が増えただけだ」。
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
手順が増えるのは、守るためだ。
守るのは、正しい。
正しいことを言っている。
そう思えた。
思えたことが、嫌だった。
学生が去ったあと、高島は返信のメールを一通書いた。
担当部署へ。
件名は相手の形式に合わせる。
本文も合わせる。
簡潔に。
丁寧に。
感情を入れない。
感情を入れない文章は、通る。
通る文章は、相手を増やさない。
確認事項は一つだけにした。
「研究者ページの停止期間の目安をご教示ください」。
期間。
期間は期限と似ている。
期限は人を動かす。
動かすための期限は、暴力ではない。
配慮の顔をしている。
高島は送信した。
送信履歴を確認する。
残っている。
残っていることに安心する自分がいる。
安心は便利だった。
便利なものほど、早く使う癖がつく。
スマートフォンが震えた。
妻からだった。
「さっき、大学からまた電話があったよ。
“念のための確認”って。
あなた、何かに巻き込まれてるの?」。
高島は返信欄に指を置いた。
言葉が浮かばない。
「大丈夫」と書けば、嘘になる。
「問題がある」と書けば、接続が確定する。
確定した接続は、切るときに音が出る。
音が出れば、家が揺れる。
彼は一度、画面を閉じた。
閉じてから、机の上の紙の角を揃えた。
揃えると、世界が落ち着く。
落ち着いた世界は、説明を受け入れやすい。
受け入れやすい状態は、管理しやすい。
管理しやすいものは、静かに変えられる。
高島は引き出しから島の資料を出した。
スクリーンショット。
表記の揺れ。
割当表の写し。
保存された空白。
角を揃える。
揃えた瞬間、思考が整う。
整うほど、島の運用が見える。
運用が見えるほど、いま自分に降りてきているものの形も見える。
削除ではない。
停止。
否定ではない。
配慮。
暴力ではなく、丁寧さ。
丁寧さは、反論の足場を奪う。
足場がなければ、怒りは跳べない。
跳べない怒りは、やがて疲れになる。
高島は妻へ短く返した。
「念のため、ってやつだよ」。
送信ボタンの上で指が止まる。
届く先が分からないからではない。
届いたあと、自分がどちら側に残るのか分からなくなったからだ。
深夜、返信が来た。
返信もまた丁寧だった。
「現時点では個別の停止期間はお答えできかねます。
状況を踏まえ、適切に判断いたします」。
適切。
判断。
主語がない。
主語がない文章は、責任を産まない。
責任がないなら、誰も悪くない。
誰も悪くないなら、怒りは宙に浮く。
宙に浮いた怒りは、疲れに変わる。
疲れは、従順に似ている。
高島はその文面を、読んで理解した。
理解できてしまうことが怖かった。
理解できるというのは、相手の理屈の中で呼吸できるということだ。
呼吸できる限り、人は溺れていないと思い込める。
翌日、廊下で同僚に会った。
同僚は笑って言った。
「最近うるさいからさ。
配慮しないと燃えるんだよ」。
燃える。
その比喩は軽い。
軽い比喩ほど、現実の重さを隠す。
高島は曖昧に笑った。
笑いは賛成ではない。
だが賛成ではないことを証明もしない。
証明しない態度は、運用にとって都合がいい。
研究室に戻り、彼は自分の送ったメールを見返した。
敬語の癖。
句点の位置。
行間。
自分の文章が、相手の文章と同じ温度になっている。
同じ温度になった瞬間、敵意は消える。
敵意が消えると、戦えない。
戦えないのは、負けたからではない。
勝負にならない形に整えられたからだ。
高島はペンを取り、紙の余白に小さく書こうとした。
配慮=
線が止まった。
止まったのは怖いからではない。
その先の字が、綺麗に揃ってしまう気がしたからだ。
揃った言葉は、正しい顔をする。
正しい顔をした言葉は、次の説明に回収される。
回収されるなら、書かないほうがまだ自由だ。
自由は非合理だった。
非合理は、いまの場所では幸福に見えない。
幸福に見えない自由は、手放しやすい。
そして彼は、次の通知の件名を見た。
「研究対象資料の取り扱いに関するお願い」。
お願い。
その言葉が、最初から断りづらい形をしていた。
高島は件名を開けずに、まず紙の角を揃えた。
揃えたあとで気づく。
もう、開封する順番まで――こちらで選べなくなっている。
――次に奪われるのは、返事ではなく「返事を迷う時間」だった。




