■第4章「戦争の影」:三話(記録される島)
島に、測量が入った。
そう呼ばれたが、実際は「島を帳面に移す」作業だった。
港へ、見慣れない箱が積まれた。
三脚。
黒い筒。
巻尺。
硬い革表紙の帳面。
運び込む手つきは静かで、慣れていた。
名乗りはない。
名札もない。
代わりに、手順だけがある。
「こちらを通ってください」
「この線の内側で止まってください」
言い方は丁寧だった。
丁寧なほど、拒否しにくい。
港の板張りに白い線が引かれた。
線は曲がらない。
曲がらないものは、正しい。
島の者は、その線の外へ出ないように歩いた。
出ないように、と考える前に、足が覚えた。
足が覚えれば、反抗は不要になる。
最初に測られたのは、物だった。
桟橋の長さ。
倉庫の幅。
荷の高さ。
「安全のためです」
そう言われると、誰も言い返せなかった。
港の安全は、島の外から来た荷の都合を守る言葉でもあった。
次に測られたのは、道だった。
家々の間の抜け道。
金栄座へ向かう坂。
坑道へ降りる階段。
「混雑を避けるためです」
混雑は、歩く順番を決める理由になる。
順番を決めれば、はみ出す人間が見える。
見えるものは、止められる。
最後に測られたのは、人だった。
人数。
並ぶ順番。
通る時間。
立つ位置。
「確認のためです」
確認という言葉は、島にもう馴染んでいた。
馴染んだ言葉ほど、疑問より先に口に出る。
役場には新しい帳面が増えた。
名簿。
一覧。
割当表。
区画図。
どれも紙が白く、文字が均一だった。
均一は見やすい。
見やすさは、安心に似ている。
割当係の男は、角を揃えた。
揃えてから、数字を書いた。
一。
二。
三。
四。
数字は形が固定されている。
固定されているものは、揺れない。
揺れないものは、間違いが少ない。
間違いが少ないものは、正しい。
その連鎖が、誰の頭にも自然に入った。
坑道にも測量員は降りた。
暗い場所では、声が短くなる。
「事故防止のためです」
事故防止は、坑道の者にとって否定しにくい。
否定しにくい言葉は、いちばん深く入る。
金栄座にも測量員が入った。
客席の列数。
通路の幅。
舞台の奥行き。
裏口の出口。
提灯の位置。
提灯は、灯りではなく「設備」として記録された。
役者の一人が笑って言った。
「俺たちも測るのか」
測量員は少し考えた。
考えるふりではなく、本当に一拍置いた。
それから答えた。
「念のため」
念のため、は便利だった。
便利な言葉は、責任を持たない。
責任を持たない言葉は、残る。
残った言葉が、次の手順を呼ぶ。
翌日から、測られるものが増えた。
体重。
身長。
作業時間。
休憩回数。
説明は整っていた。
適正配置のため。
事故防止のため。
安全確認のため。
整った説明ほど、島は静かになる。
静かになると、仕事が回る。
回ることは、良いことに見える。
良いことに見える限り、人は疑わない。
島の者は、選ぶしかなかった。
線の内側で働くか。
外へ出て困るか。
帳面に記されるか。
記されずに、仕事を失うか。
選ぶしかない二択は、選択と呼ばれる。
選択と呼べば、納得できる。
納得できれば、痛みは遅れて来る。
港で小さな出来事があった。
漁に出た船が、指定外の海域に入った。
魚が、そこにいた。
それだけだった。
戻ってきた船は、長く待たされた。
怒鳴られもしない。
殴られもしない。
罰札も切られない。
ただ、机の上で紙が一枚めくられた。
測量員が帳面に一行書いた。
字は小さく、揃っていた。
それで終わりだった。
終わりであることが、逆に残った。
島の者は、理由のない不安を覚えた。
不安の理由は説明できない。
説明できないものは、口にしにくい。
口にしにくいものは、無かったことになる。
無かったことになった不安が、次の従順を支える。
夜、金栄座の灯りが予定より早く消えた。
掲示には短く書かれていた。
節電協力のため。
誰も文句を言わなかった。
文句を言うより、暗さに慣れる方が早い。
暗さに慣れた目は、別の輪郭を拾う。
増えた係の者の数。
増えた札の束。
増えた帳面の厚み。
灯りが減るほど、記録は増えた。
記録が増えるほど、島は「動かせる形」になる。
翌朝、学校でも同じ線が引かれた。
校庭に白墨の四角。
児童はその中に並ばされた。
名前ではなく、列の端の札で呼ばれる。
「一列目、前へ」
教師の声は優しかった。
優しい声は、命令を命令に見せない。
子どもたちは笑いながら動いた。
笑いながら動けるなら、問題ではない。
大人はそう信じた。
信じたほうが、楽だった。
楽であることが、怖い。
役場の窓口には新しい用紙が置かれた。
申請。
申告。
確認。
同意。
どれも欄が細かく、余白が少ない。
余白が少ない紙は、迷いを許さない。
氏名の欄の上に、番号、の欄が増えていた。
番号は「補助」だと説明された。
補助は便利だ。
便利なものは残る。
残った補助が、いつか本体になる。
港の掲示は、毎日貼り替えられた。
貼り替えられているのに、言葉は似ていた。
安全確保のため。
混雑防止のため。
念のため。
同じであることが、安心になる。
安心は更新を見えなくする。
見えなくなった更新は、戻る道を薄くする。
島の外から来た者は、帳面の端に朱い印を押した。
達。
という字だけが読める。
差出名はない。
差出名がないのに、手順は通る。
通る手順は、背景の形をしている。
背景になれば、数えない。
数えないものほど、増えても気づかない。
ある夕方、割当係の男は古い名簿を開いた。
墨の濃さが違う。
字が揺れる。
揺れの中に、呼び声が残っている気がした。
佐吉。
源蔵。
久一。
芳江。
呼べば振り向く音が、紙の裏から立ち上がるようだった。
男はその名簿をすぐ閉じた。
閉じれば、仕事は続く。
続ければ、生活は守れる。
守れるという理由は、強い。
強い理由は、人を黙らせる。
黙った人間の数だけ、手順は滑らかになる。
金栄座の楽屋でも、帳面が置かれるようになった。
出演者一覧。
出入り時刻。
控室の人数。
舞台袖の立ち位置。
役者はそれに署名した。
署名は「協力」だと言われた。
協力は良いことだ。
良いことは断りにくい。
断らないことが、正しさになる。
観客席では、札の回収が丁寧になった。
丁寧であるほど、拒否は不作法に見える。
不作法は嫌われる。
嫌われたくない気持ちは、強い。
強い気持ちは、行動を選ばせる。
それでも人は選んだつもりになる。
選んだつもりになれれば、耐えられる。
耐えられる夜が続く。
続くうちに、島は帳面の中へ沈む。
ある日、測量員が家々の戸口で立ち止まった。
家族の人数。
寝る場所。
井戸の位置。
炊事場の火の扱い。
「衛生のためです」
衛生は、家の中まで入る言葉になる。
母親は頷いた。
頷くしかない。
頷かなければ、子どもが困る。
困らせたくないから、頷く。
頷いた瞬間、選択は終わる。
終わった選択は、選んだことにされる。
その夜、島の沖に灯りのない船影が増えた。
動かない影は背景になる。
背景になれば、数えない。
数えないものほど、後で増やせる。
増えたものは、最初からあったように見える。
最初からあったものは、疑われない。
疑われないまま、手順だけが増える。
高島は、その写しを机に並べた。
港の線。
坑道の区画。
学校の四角。
居住者台帳の欄。
順番を揃えると、島は一枚の図になる。
図は揺れない。
揺れないものは、反論しない。
反論しないものは、正しい。
高島はその正しさに、胸の奥で静かな快感を覚えた。
そして同時に、薄く嫌悪した。
嫌悪は声にならなかった。
声にすると、図が崩れる気がしたからだ。
崩れれば、また迷う。
迷うのは面倒だ。
面倒だと言うと、協力しない人間に見える。
協力しない人間に見えるのは、危険だ。
彼は資料を閉じ、指先で机の角を揃えた。
揃えると、島の出来事が自分の生活の出来事に重なる。
講義欄の空白。
名簿から消える候補。
理由のない「確認」。
合理的であるほど、説明できないものは置き去りにされる。
置き去りにされたものは、声を持てない。
声を持てないものから先に、記録の外へ落ちる。
高島はページの端に、短く書いた。
成熟。
合理。
安全。
言葉はどれも正しい。
正しい言葉が揃うほど、異議の余地は減る。
余地が減れば、人は考えなくて済む。
考えなくて済むことが、救いになる。
救いは、後から毒に変わる。
島はまだ壊れていない。
だが、壊す側が必要とするのは暴力ではない。
正しい帳面だけだ。
その帳面が、次に欲しがるものが何かを、高島はもう知っている。
――次に記録されるのは物でも道でもなく、帳面に書けない「例外」だった。
道でもなく、帳面に書けない「例外」だった。




