■第4章「戦争の影」:二話(理由のある制限)
制限は、ある日突然の刃ではなかった。
掲示板に貼られた紙が、一枚ずつ増えるだけだった。
紙の端は揃い、釘は真っ直ぐで、風にもめくれにくい。
めくれにくいものほど、そこにあることを許される。
それが配慮の顔をしていた。
港の掲示が出たのは、朝の荷が一段落した頃だった。
濡れた木材の匂いに、油の匂いが混じる。
匂いが混じるのは、物が増えた証拠だった。
板に貼られた白い紙は、潮で黄ばむ前の強さを持っている。
「出入り時間帯の指定について」
文は短く、句点が少ない。
読ませる文章ではなく、通す文章だった。
停泊位置は固定。
荷下ろしは番号順。
指定外の立ち入りは不可。
最後に一行だけ、理由が置かれる。
安全確保のため。
安全は、この島では「あなたを止める」ための言葉になる。
役場の者は困った顔をしなかった。
困った顔は説明を増やす。
説明が増えると、質問が増える。
質問が増えると、作業が遅れる。
遅れは混乱につながる。
混乱は事故につながる。
紙に書かれた論理が、口からも再生された。
「危ないからです」
大型船が増え、導線が重なり、事故の芽がある。
芽のうちに摘めば、誰も傷つかない。
傷つかないなら、正しい。
正しいなら、早い。
早い判断は、賢いと呼ばれる。
賢いと言われると、人は黙る。
桟橋の端で、漁師の老人が潮を見ていた。
老人は紙を見上げ、唇を動かした。
「時間まで決めるのか」
声は小さく、怒りではない。
ただ、驚きだった。
驚きは続けると不安になる。
不安は生活を揺らす。
揺れるのは嫌だ。
嫌だと思う前に、老人は自分で言い換えた。
「事故があるよりゃいい」
言い換えられる程度の違和感は、違和感として残りにくい。
紙が潮で角を丸めるころには、言い換えだけが残る。
翌日、坑道にも紙が回った。
「区画整理について」
入坑は時間で分ける。
人数は上限を定める。
区画番号を付す。
理由が添えられる。
坑内事故防止のため。
鉱夫の何人かは眉を上げた。
だが言葉は続かなかった。
事故は誰でも怖い。
怖いものを避ける判断は、否定しにくい。
否定しにくい判断は、反論を面倒にする。
面倒は疲れの形をしている。
疲れを理由に黙ることは、責められない。
区画番号は新しく、太い文字で書かれていた。
太い文字は見やすい。
見やすいものは間違えにくい。
間違えにくいものは安全だ。
安全という言葉は、坑道の暗さより先に胸に入る。
漁にも同じ紙が来た。
沖合の一部が線で囲われた。
線の外は「調査中」。
線の内は「念のため」。
念のため、は便利だった。
便利な言葉ほど、島の口に馴染む。
馴染むと、判断の前に出てくる。
前に出てくる言葉は、現実を先に決める。
「今だけだろう」
誰かが言い、誰かが頷いた。
頷きは合意ではなく、生活の継続だった。
継続は安心を生む。
安心は比較を要らなくする。
比較がないと、戻る道は見えにくい。
戻る道が見えなければ、進んでいると錯覚できる。
金栄座も整えられた。
入口に縄が張られ、入る道と出る道が分けられる。
縄は新品で、繊維がまだ硬い。
硬い縄は痛い。
痛いほど新しいものは、安心の形をしている。
立ち見は禁止。
札が配られ、終演後に回収される。
札はただの紙で、遊びの顔をしている。
遊びの顔をしていれば、管理は滑らかに入る。
子どもが札を握りしめて走り、途中で速度を落とした。
縄があるからではない。
縄があることに気づくより早く、足が覚えてしまうからだ。
覚えた動きは、正しい動きになる。
正しい動きになると、誰も注意しなくて済む。
「見やすくなったな」
観客の声は不満ではなく感想だった。
感想には反論しにくい。
反論するほどの理由がない。
理由がないから、頷きが返る。
頷きが返ると、次も同じになる。
同じになると、以前が思い出せなくなる。
思い出せなくなることは、失ったことに気づけないということだ。
札の束が薄く黒ずむころ、笑いは同じ形で揃い始める。
資料の束の中に、薄い報告書が一枚混じっていた。
紙が白く、活字が細い。
末尾に朱い印があり、達、の字だけが読める。
差出名はない。
ないのに、手順は通る。
通る手順は、背景になる。
背景になれば、数えない。
数えないものは、増える。
数日後、港の掲示が更新された。
紙が一枚増えただけだ。
「臨時区画指定について」
区画には番号が振られ、立ち入り可能者が限定される。
許可証の携行、と書かれていた。
許可証は名前欄が細く、番号欄が太い。
太いほうが見やすい。
見やすいほうが間違えにくい。
間違えにくいものは安全だ。
安全は正しい。
誰も異を唱えなかった。
番号が増えただけだ。
名前が消えたわけではない。
そう言える間は、まだ失っていない気がした。
失っていない気がすると、人は確認をやめる。
確認をやめれば、失われた順番が分からなくなる。
その夜、提灯の数が少し減った。
導線確保のため、と紙にあった。
灯りが減っても、係の者は増えた。
増えた目は、見守りの顔をしていた。
見守りは、監視と同じ姿勢をしている。
姿勢が同じなら、区別は遅れる。
翌朝。
役場の小部屋で、新しい帳面が配られた。
白が少し強い。
紙質が違う。
角が揃いにくい。
表紙にはこうあった。
「入出記録簿」
開くと、最初に目に入る欄は“氏名”ではなかった。
番号。
区画。
時刻。
確認印。
名前は、欄の隅に追いやられていた。
追いやられているのに、まだ残っている。
残っている限り、誰も困らない。
困らない限り、誰も言わない。
言わないまま、視線の順番だけが変わる。
昼過ぎ、役場の前で小さな揉め事が起きた。
時間帯の札を持っていない若い母親が、港へ入ろうとして止められた。
止めたのは役場の者ではない。
島の男だった。
島の男が島の女を止める。
その形が、いちばん痛みを見えにくくする。
「荷を受け取るだけだよ」
母親は言った。
受け取るだけ、は軽い言葉だ。
軽い言葉ほど、制限の重さを照らしてしまう。
男は視線を逸らし、紙の文をそのまま言った。
「指定外は危ないから」
危ないから、の後ろに誰の危なさかは書かれていない。
書かれていないから、誰のでもある。
誰のでもある危険は、誰も責めない。
母親は黙り、札のない手を握った。
握った手は小さく震え、震えは怒りに見えない。
怒りに見えない感情は、手続きの前で弱い。
男は母親を通さなかった。
通さなかったことで、男は正しくなった。
正しくなったことが、男を救う。
救われた男は、次も同じことをする。
高島はその証言の断片を読み、鉛筆を止めた。
止めたのに、次の行を書き足した。
「島は自発的に運用を内面化していく」
自発的、と書けば、誰も悪くならない。
誰も悪くならない説明は、美しい。
美しい説明は、読み手を安心させる。
安心した読み手は、痛みの震えを数字に変える。
夕方、許可証の配布所が設けられた。
配布は丁寧で、手続きは簡単だった。
簡単な手続きは歓迎される。
歓迎された手続きは、次に複雑になっても拒まれにくい。
配布所の机には新しい印鑑が置かれていた。
朱肉の匂いが強い。
匂いが強いほど、事務は現実になる。
現実になった事務は、生活より長く残る。
帳面には、もう一つだけ新しい欄があった。
「記録者」
記録する者の番号を書く欄だった。
番号を書く手つきは滑らかだった。
滑らかであるほど、迷いがない。
迷いがないほど、正しい。
翌朝、役場に届いた次の帳面の表紙には、こう印字されていた。
「居住者台帳」
台帳の最初の頁には、細い欄が一つだけ増えていた。
番号。
その欄が先に目に入るように、罫線の濃さが揃えられていた。
揃えられた順番は、戻り方を忘れさせる。
――次に消えるのは名前ではなく、“名前を探す視線”だった。




