■第4章「戦争の影」:一話(変わらない日常)
面倒だと思ったのに、面倒だと言わなかった。
明日の割当は、いつも通り作れる気がした。
金鉱は、変わらず動いていた。
坑道からは毎日、決められた量の鉱石が運び出された。
港では船がそれを待っていた。
島の朝は、これまでと同じ音で始まった。
汽笛が短く鳴った。
足音が濡れた板を叩いた。
金属が触れ合う乾いた響きが混じった。
音の順番に、乱れはなかった。
乱れがないことが、安心になっていた。
島の人々は、戦争が始まったことを知っていた。
新聞が届いた。
ラジオが遠い地名を告げた。
本土から来た者が、ぽつりと口にした。
「向こうは大変らしいぞ」と。
島は頷いた。
頷ける距離にある話として受け取った。
距離がある話は、暮らしを止めない。
暮らしが止まらない限り、人は疑わない。
仕事はあった。
金は出た。
灯りは消えなかった。
祭りの準備も進んでいた。
酒場には提灯が下がった。
子どもたちは太鼓の練習に励んだ。
音が揃うほど、祭りは近づく。
揃う音は、よい年の証になる。
「今年は人も多いな」と誰かが言った。
「景気がいいからだろう」と誰かが返した。
会話は短かった。
短いほど、日常は回る。
確かに、人は増えていた。
島の外から来る人間が、目に見えて多くなっていた。
作業服の色は揃っていた。
港に降り立つときの動きに無駄がなかった。
彼らは長く滞在した。
名乗らない者も多かった。
名乗らないことは、冷たさではなかった。
名乗る必要がないという設計だった。
設計は責められない。
責められないものほど、長く残る。
島民はそれを不審には思わなかった。
金鉱がある以上、人が来るのは当然だった。
当然は、いちばん強い理由になる。
鉱山では、新しい手順がいくつか増えていた。
集合時間が厳密になった。
入坑の順番が決まった。
出坑後の点呼が増えた。
帳面の欄も増えた。
増えた欄は、守るための欄だと言われた。
守るためと言われると、人は守られる側になれる。
守られる側は、楽だ。
楽であることは、良いことだ。
良いことは、続けたい。
続けたいから、慣れる。
慣れると、以前のやり方を思い出すのが面倒になる。
面倒になると、以前は余計に見える。
余計は減らされる。
減らされると、さらに回りが良くなる。
回りの良さは、正しさと似ている。
正しさは、誰かを黙らせずに黙らせる。
理由はいつも同じ形をしていた。
効率のため。
事故防止のため。
安全確保のため。
言葉が揃うと、反論はほどける。
ほどけた反論は、結び直す前に乾く。
乾いたものは、手に取られない。
島の海にも変化があった。
沖合の一部に立ち入り制限がかかった。
理由は同じだった。
危険だから。
調査中だから。
不満がなかったわけではなかった。
だが多くの者は口にしなかった。
今だけだろうと思うほうが楽だった。
楽だと思えるうちは、失っていない気がする。
失っていない気がすると、戻る道を数えない。
数えない道は、いつの間にか塞がる。
塞がっても、塞がったと言う者はいない。
言わないから、塞がりは存在しない。
夜になっても島は明るかった。
金栄座の灯りが点いた。
人々は芝居を観に集まった。
舞台の上では、いつもと同じ筋書きが演じられた。
笑いが起きた。
涙が落ちた。
結末は予定されていた。
予定されていることは、安心につながる。
安心は、明日の不安を先送りにする。
先送りは、今日を守る。
守られた今日が続くほど、人は守られていると思う。
酒場の女将が言った。
「向こうが騒がしくても、こっちは元気だねえ」と。
笑いは軽かった。
軽い笑いほど、重いものを包む。
港に停泊している船は増えていた。
灯りを落とした船だった。
音を立てない船だった。
数えれば数えられた。
だが、誰も数えなかった。
数える必要がないと思えることが、豊かさの証だった。
翌朝も汽笛は鳴った。
鉱石は運ばれた。
子どもたちは学校へ行った。
変わらない日常が続いた。
変わらない日常は、最も管理しやすい状態だ。
島の者たちは、それを知らなかった。
知る必要がないほど、暮らしが回っていた。
高島は後年、その日々の記録を読んだ。
紙は黄ばみ、角は擦れているのに、罫線だけが妙に整っていた。
彼はその整いに線を引いた。
合理的だ、と彼は思った。
無駄がない、と彼は評価した。
非常時に備え、資源と人員を整理する。
教科書的な判断だった。
彼はその言葉を嫌いながら、その言葉で理解してしまう。
理解できるものは扱える。
扱えるものは分類できる。
分類は管理につながる。
管理は運用につながる。
運用は顔を持たない。
顔がないものは、責任を持たない。
責任を持たないものが、最も強い。
高島はその強さに気づき、気づいたことを黙って置いた。
黙って置ける程度には、まだ遠かったからだ。
遠いものは、研究の中では安全に見える。
安全に見えるものほど、切り分けやすい。
切り分けやすいものほど、切り捨てやすい。
その午後、役場に新しい紙が届いた。
白が少し強かった。
紙質が違った。
指先が滑り、角が揃いにくかった。
揃いにくさは苛立ちではなく、違和感だった。
違和感は、仕事の前では後回しになる。
見出しには、こうあった。
「一時的な外出許可手続きについて」
文は短かった。
句点が少なかった。
読ませる文章ではなく、通す文章だった。
内容は、島の暮らしに似せていた。
資材の搬入が増え、港が混む。
混むと事故が出る。
事故が出れば止まる。
止まれば損が出る。
損が出れば島が守れない。
守るために、出入りを整える。
整えるために、申請を簡略化する。
簡略化という言葉は、配慮の顔をしていた。
配慮は拒否しにくい。
拒否しにくいものほど、続く。
紙の下部に、項目が並んでいた。
外出理由。
行先。
時間帯。
同行者。
欄は整っていた。
整っているものは間違えにくい。
間違えにくいものは安全だ。
安全は、この島では「島を守る」という意味で使われる。
守るという言い方は、いつも正しい。
正しい言い方は、口を閉じさせる。
役場の男は帳面を開き、ページをめくった。
めくる音は乾いていた。
乾いた音は、決着の音に似ている。
島の男たちは紙を見上げ、頷いた。
頷く速さが、反対する気がないことを示した。
反対しないのは、賛成だからではなかった。
面倒が増える話は、面倒だと言いにくいからだ。
面倒だと言うと、協力しない人間に見える。
協力しない人間に見えるのは、今は危険だ。
危険と言われると、人は黙る。
黙れば安全になる気がする。
安全になる気がすると、黙ることは正しい。
正しい黙りは、次の紙を呼ぶ。
金栄座の灯りはその夜も点いた。
舞台の声はよく通った。
客席は静かだった。
静かなのは、整っているからだ。
整っているのは、正しい理由があるからだ。
誰かが言った。
「向こうが荒れても、ここは守られてるな」と。
守られている、という言葉が軽く飛んだ。
軽く飛ぶ言葉ほど、あとで戻らない。
高島はその行を読み、指先で紙の角を揃えた。
揃えた瞬間、島のざわめきが少し遠のいた気がした。
遠のいたのは島ではない。
彼の側だった。
役場の掲示板に紙が貼られた。
四隅は釘で留められた。
釘はいつもより一本多かった。
紙が軽いからだと言われた。
軽い紙ほど、簡単に増える。
増えた紙ほど、目に馴染む。
目に馴染むものほど、疑われない。
そして島は、同じ顔のまま、少しだけ狭くなる。
――次に守られるのは人ではなく、“外へ出ない習慣”だった。




