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■第3章「選ばれなかった声」:四話(共犯の瞬間)

港は、いつも通りであることを、誰も疑わなかった。

朝の風は湿り気を含み、潮の匂いが低く漂っている。

船着き場では荷を運ぶ男たちの声が重なり、その中に名前を呼ぶ声が混じっていた。

高島は、その呼び方を聞いた。

苗字ではない。役職でもない。

昔からの癖のように、名前が使われている。

それが、この島の日常だった。

倉庫の前では木箱が積み直されている。

木箱には数字が書かれているが、その数字は命令になっていない。

足りなければ融通するし、余れば分ける。

正確さよりも、流れが優先される。

流れが優先されることを、誰も恥じていない。

恥じていないから、幸福に見える。

高島は、ノートを開かなかった。

書き留めるほどの異常は、何もない。

異常がないという判断が、彼を安心させた。

安心は、研究者の目を鈍らせるものではない。

鈍らせるのは、安心が“正しい形”をしているときだ。

昼前、集会所の前を通ると、壁に新しい掲示が貼られていた。

紙は白が強く、端が揃い、文末が揃っている。

揃っているものは、それだけで理由のように見える。

「調査に関する事前連絡」

内容は簡潔だった。

近日中に外部から人が入る。

衛生と安全の確認。

生活に支障はない。

誰も足を止めない。

読む者も、読まない者も、同じ反応だった。

同じ反応は、安心を作る。

安心は、掲示を風景にする。

高島は紙の下端を見た。

日付は、来月になっている。

――まだ、何も起きていない。

そう思ったのは彼だけではない。

島全体が、同じ認識だった。

同じ認識がある限り、問いは浮かびにくい。

浮かびにくい問いは、最初から存在しないのと同じになる。

午後、役場の奥で、古い書類をまとめて見せてもらうことになった。

箱は整っている。

背表紙の色も揃っている。

分類は古いが、雑ではない。

“雑ではない”は、この島の誇りに近い。

誇りは、後ろめたさの反対側にある。

高島は箱の間を進み、紙の匂いを嗅いだ。

古い紙は、湿気を吸い込んで柔らかくなる。

柔らかくなると、人の手に馴染む。

馴染むものは、生活に近い。

生活に近い記録なら、まだ救いがある気がした。

一冊だけ、違う色のファイルがあった。

表題はない。番号も振られていない。

ただ、日付だけが記されている。

それも、来月のものだった。

ファイルの角は、揃いすぎていた。

新しい紙の角の揃い方だった。

高島は指先で端を撫でた。

紙が少し滑る。

滑る紙は、手が慣れていないことを思い出させる。

ページをめくる。

そこに書かれているのは、島の歴史でも出来事でもない。

「整理方針」

「統合基準」

「参照対象外への移行」

どれも、研究で何度も目にした言葉だった。

特別な語彙ではない。むしろ、よく使われる。

よく使われる言葉ほど、痛みを運ばない。

痛みを運ばない言葉ほど、痛みの原因になりやすい。

文章は整っている。

接続詞に無理がない。

箇条書きの間隔まで均一だ。

判断理由も列挙されている。

・制度区分に該当しない

・継続的管理が困難

・将来的な再発防止の観点

どれも、正しい。

高島は指で行をなぞった。

否定できる箇所を探した。

ない。

論理は閉じている。

閉じているものは、開ける労力を要求する。

労力を払ってまで開ける必要があるのか、という問いが先に立つ。

問いが先に立つ時点で、もう負けている。

高島は日付をもう一度見た。

来月。

島では、今日も子どもが走り回っている。

夕方には祭りの相談がある。

名前で呼ばれ、笑い声が上がる。

――それなのに。

高島の胸の奥で、何かが揃った。

揃ったのは理解ではない。

理解に至る手前の、諦めに似た整い方だった。

ファイルには「無かったことにする」という言葉はない。

ないから、反論の形も取れない。

反論とは、相手の言葉に触れて初めて成立する。

触れるべき言葉が最初から避けられている。

代わりにあるのは、

「扱わない」

「参照しない」

「統合する」

それだけだ。

高島は、書類を閉じた。

閉じたとき、外の港の音が少しだけ遠くなった気がした。

遠くなったのは音量ではない。

自分の位置が、微かにずれたのだと分かった。

椅子から立ち上がる。

質問は浮かぶ。

だが、言葉にならない。

問いは合理的ではなかった。

合理的でない問いは、声にすると軽く見える。

軽く見える問いは、記録に値しない。

そういう判断が、すでに自分の中にあることに気づく。

高島は、何も書かなかった。

メモも、意見も、残さなかった。

ペンは持った。

だが、紙に触れさせなかった。

触れさせれば、接続が起きる。

接続が起きれば、責任の線が引かれる。

線が引かれれば、誰かの名前が必要になる。

その沈黙が、島を未来から切り離した。

外に出ると、潮の匂いが同じように漂っていた。

港は、まだ生きている。

生きているのに、文書の中ではもう終わっている。

終わっているのに、誰も終わった顔をしていない。

高島はそれを確認し、同時に確認してしまった。

――これは、正しい。

そう理解してしまったことが、彼自身を島の外側へ移した。

そして、ファイルの最後のページにだけ、薄い朱が残っていた。

「添付:退避誘導図」

日付は、来月。

矢印の先は――坑道の奥だった。


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