■第3章「選ばれなかった声」:三話(言わなかった理由)
夕方の潮は引いていた。
港の石段がいつもより長く見え、濡れた部分が黒く光っていた。
その黒さは、昼の終わりを知らせる合図だった。
役場の奥の小部屋で、割当表を作る男は紙束を揃えていた。
角を揃える。
揃えてから、綴じる。
綴じてから、記録簿の頁をめくる。
順番は毎日同じだった。
番号併用、開始。
混乱防止。
安全確保。
書き足した文字が、乾いて薄くなっている。
薄くなるほど、定着する。
定着するほど、思い出さなくて済む。
扉の向こうで声がした。
作業帰りの男たちが寄っていく気配がする。
港の小さな詰所。
酒場ほど騒がしくない場所。
話す内容も、仕事の延長に留まる。
男は帳面を閉じ、外へ出た。
夕方の風は湿っていて、肌に張り付く。
潮と油の匂いが混じる。
匂いが混じるのは、物が増えた証拠だった。
詰所には数人が集まっていた。
湯気の立つ茶碗が並び、湯飲みの縁が少し欠けている。
欠けは誰も気にしない。
気にしない欠けは生活になる。
壁際の棚に、回収箱が置かれていた。
金栄座の札を入れる木箱だ。
もう「臨時」とは書かれていない。
箱の縁は指の脂で少し黒い。
黒いのに、誰も拭かない。
拭かない黒さは、最初からそこにあった顔をする。
誰かが言った。
「今日の割当、分かりやすかったな」
数字の話だった。
数字は便利だ、と言う調子だった。
別の男が頷いた。
「間違いが減る」
間違いが減る、は正しい。
正しい言葉ほど場に馴染む。
馴染むほど、他の言葉が出にくくなる。
割当係の男は、黙って茶を飲んだ。
熱い。
熱いのに味が薄い。
薄い味は喉を通りやすい。
通りやすいものは、残らない。
そこへ、若い鉱夫が遅れて入ってきた。
顔が少し赤い。
酒の赤さではない。
潮風で擦れた赤さだ。
若い鉱夫は空いている席に腰を下ろし、周囲を見回した。
何か言いたそうに口を開き、閉じた。
開いて閉じる動作は、言葉が喉で引っかかった証拠だった。
誰も急かさない。
急かさない空気がある。
空気があるからこそ、言えるはずだった。
若い鉱夫はようやく言った。
「この前の金栄座さ」
数人が顔を上げる。
話題として成立する程度の関心はある。
年配の男が笑って言った。
「静かだったな」
笑いは肯定を運ぶ。
肯定を運ぶ笑いは、否定の入口を塞ぐ。
若い鉱夫は頷きかけて、止まった。
止まった瞬間に、話の形が変わる。
形が変わると、場が少しだけ静かになる。
若い鉱夫は、先に言った。
「静かで、良かったんだけど」
良かった、という言葉を先に置く。
先に置けば、責めていないことが伝わる。
責めていないことを伝えないと、言葉が通らないと彼は知っていた。
「……あれ、ずっと続くのかな」
続くのかな、は問いの形をしている。
問いの形は柔らかい。
柔らかいはずだった。
詰所の空気が、ほんの少しだけ固まった。
固まったのは反対があるからではない。
問いに対して、答えが必要になるからだ。
答えは面倒だ。
面倒という感覚は、疲れの形をしている。
疲れは誰も責めない。
責めないから、面倒は強い。
年配の鉱夫が咳払いをして言った。
「安全のためって書いてあったろ」
安全のため。
言葉は短い。
短いほど議論が終わる。
別の男が続けた。
「導線もな、あれが一番だ」
導線確保。
口から出た瞬間、それは説明ではなく合言葉になる。
合言葉は便利だ。
便利なものは、考えなくて済む。
若い鉱夫はすぐに頷いた。
頷く速さが、否定する気がないことを示した。
否定する気がないのに、問いは残る。
「うん、そうなんだけど」
そうなんだけど、は続けるための言葉だ。
続けるための言葉は、続けたい気持ちがないと出ない。
彼は続けたいと思ってしまった。
割当係の男は、若い鉱夫の指先を見た。
指先が机の縁を軽く叩いている。
叩くリズムが揃っていない。
揃っていないものは不安の形をしている。
その不安を、誰も拾わない。
拾わないことが優しさになる。
優しさは拒否しにくい。
拒否しにくいものほど、効く。
若い鉱夫は懐から紙切れを出した。
昨日の札だ。
汗で柔らかくなり、番号の墨が指にうつる。
彼はそれを握ったまま、机の下へ隠そうとした。
隠したのは悪意ではない。
返しそびれただけだ。
返しそびれたことを、責められたくないだけだ。
棚の向こうで、係の者が気づいて笑った。
「箱に入れとけばいいよ」
笑顔だった。
笑顔だから、断れない。
若い鉱夫は立ち上がり、木箱に札を落とした。
落ちる音は小さかった。
小さい音ほど、あとから思い出しやすい。
誰もその音を話題にしなかった。
話題にしないことが、また優しさになる。
誰かが助け舟のように言った。
「混んでたからだろ」
混雑。
混雑防止。
掲示板の言葉が別の口から出てくる。
別の者が続ける。
「事故が出たら困るしな」
困る、は生活の言葉だ。
生活の言葉は強い。
強い言葉ほど相手を黙らせる。
若い鉱夫は笑った。
笑いは降伏ではない。
笑いは、場に留まるための形だ。
場に留まるには、言葉を引っ込める必要がある。
「そうだよね」
そうだよね、は合意の言葉だ。
合意は安心を作る。
安心があると、問いは浮き上がる。
浮き上がった問いは、恥ずかしく見える。
恥ずかしいものは、次から出せなくなる。
出せなくなるのは、抑えつけられたからではない。
自分で出さない方が楽だと覚えるからだ。
若い鉱夫は茶を飲み干した。
湯飲みの底が軽く机に当たって音を立てた。
音は乾いていた。
乾いた音は、決着の音に似ている。
話題はすぐに変わった。
坑道の具合。船の入る時間。明日の天気。
変わる話題は、すべて生活の範囲に収まる。
生活の範囲に収まる話題は、結論を必要としない。
結論がいらない話だけが残る。
残ったものが日常になる。
詰所を出ると、外は暗くなり始めていた。
提灯は少ない。
少ないが十分だ。
十分だと思うと、人は残りを数えない。
割当係の男は掲示板の前を通り、貼り紙を見た。
紙は新しいのに、文面は同じだった。
導線確保のため。
混雑防止のため。
安全のため。
同じであることが安心になる。
安心は疑問を薄くする。
薄くなった疑問は、言葉にしにくい。
男は家へ戻った。
机に帳面を置き、紙の角を揃えた。
揃える動作は落ち着く。
落ち着く動作は、今日の出来事を終わらせる。
終われば、続きを考えなくて済む。
考えなければ、眠れる。
眠れれば、明日働ける。
働ければ、生活は守れる。
守れる。
守れるという言葉が、いつの間にか理由になっている。
理由がある限り、人は言わなくてもいい。
言わなくても、責められない。
男は帳面を開き、今日のメモを足した。
金栄座、導線整理。
札配布、回収。
問題なし。
問題なし。
その四文字が、やけに便利だった。
便利な言葉ほど早く定着する。
定着した言葉は、現実を先に決める。
後年、高島はその帳面の写しを見た。
紙は黄ばみ、罫線は薄いのに、字だけが妙に残っている。
問題なし、の二行が同じ筆圧で並んでいた。
高島はその行に指を置き、無意識に揃えた。
揃える癖は、理解のためだと信じていた。
だが揃えた瞬間、島は「処理された出来事」になる。
処理された出来事は、次の処理を呼ぶ。
翌朝、港の詰所で若い鉱夫は昨日の話をしなかった。
誰も聞かなかった。
聞かれなければ、話題は存在しない。
存在しないものは、最初から無かったことになる。
その日の割当表には、番号の枠が一つ増えていた。
増えたのに、誰も困らない。
困らないから、誰も言わない。
言わないまま、紙の上の枠だけが増えていく。
増える枠は、守るための枠だ。
守るための枠は、正しい。
正しいから、言わなかった。
怖いからではない。
止められたからでもない。
ただ、正しかった。
その日の夕方、役場に新しい紙が届いた。
白が少し強い。
紙質が違う。
角が揃いにくい。
見出しには、こうあった。
出入り時間帯の指定について。立入許可証の携行について。待機場所の設定について。例外申請の窓口について。
男は紙を読み終え、折り目を指でなぞった。
面倒だと思ったのに、面倒だと言わなかった。
言わないほうが、明日の段取りは守れるからだ。
明日の割当は、いつも通り作れる気がした。
いつも通り、という言葉が、もう自分の味方ではないことに気づかないふりをした。
そして時間は、出入りではなく――「先に決まっている順番」で、人を分け始める。
順番は、もう誰の名前も呼ばない。




