■第1章「違和感」:一話(検索できない島)
その島の名前は、インターネットで検索できなかった。
検索窓に打ち込み、確定し、待つ。
待っても結果は出ない。
出ないというより、出すための入口が最初から存在しない。
同じ単語を順序だけ変えても、同じ地点で止まる。
止まる場所が揃っていることが、逆に気持ち悪い。
ゼミ室で、学生がスマートフォンを差し出した。
画面には投稿本文がない。
本文があるはずの位置に、灰色の空白だけが広がっている。
画像だけが残っていて、上部に切り取られた題名の断片が見える。
下部には青いリンクが並ぶが、どれも読み込めない。
「先生、これ……消えたんですよ」
学生は軽い調子で言った。
声にあるのは興味で、恐怖ではない。
よくある話題として持ってきた顔をしている。
高島は頷き、画面の端に残った日時表示を見た。
投稿日は昨日になっている。
昨日のものが、もう“ない”。
リンク先は凍結されていた。
投稿者のアカウントも存在しない。
引用元とされる資料ページは、どれも「見つかりません」と表示する。
表示は無機質で、理由が書かれていない。
理由が書かれていないことが、現代の標準でもある。
学生が指で空白をなぞった。
灰色は動かない。
動かないものは、説明の外に置かれる。
「先生、これ……消えていいんですか」
問いは軽いままだった。
軽い問いほど、答えは重くなる。
高島は画面を覗き込みながら、別の点に引っかかった。
噂話にしては構造が整っている。
語り口が揃いすぎている。
単語の選び方が、誰かの手を経たように均一だ。
スクリーンショットには場所が書かれている。
長崎県北東沖。
大正時代、金鉱の発見で急速に発展した島。
学校と劇場があり、祭りの記録も残っていたとされる。
学生は「都市伝説っぽいですよね」と笑った。
笑いは距離を取るための形をしている。
高島は頷きながら、数字の列を見た。
産出量の推移。
人口増減。
坑道設備の名称。
一つひとつが具体的で、雰囲気づけの誇張に見えない。
「怪談に、こういう数字は出てこない」
高島は言った。
言い切らずに抑えたのは、癖でもあった。
断言は議論を呼び、議論は時間を使う。
時間は今、高島にとって余裕ではなかった。
研究費削減の通知が来ている。
家庭の事情も、先延ばしにできない。
余裕がないときほど、人は“確かなもの”に寄る。
数字は確かに見える。
学生は「ですよね」と軽く返した。
返したあと、スクリーンショットを拡大し、指でなぞった。
指先が止まる位置が決まっている。
決まっているのは、そこが要点だと分かるからだ。
「これ、島の名前、読めなくないですか」
学生が言った。
解像度がわずかに荒い。
漢字の一画だけが潰れている。
読めないほどではない。
ただ、読み切れない。
高島はその“読み切れなさ”に、紙の端の毛羽立ちのような違和感を覚えた。
その夜、高島は研究室に残った。
蛍光灯の白い光が机に落ち、紙の繊維がはっきり見える。
統計年報と海域調査報告書を机に並べる。
並べてから、紙の角が揃っていないことに気づく。
無言で角を揃え直す。
揃え直す行為は、研究の前に必ず入る癖だった。
揃えれば、考えが整う気がする。
整う気がすることが、生活の支えになる。
ページをめくる音だけが部屋に残る。
大正十一年。
金鉱の産出量が急に伸びている。
前年のほぼ二倍。
労働者数も比例して増えていた。
数字は説得力を持って並んでいる。
次の年から、記述の種類が変わる。
設備投資の報告が鈍り、坑道拡張の文字が消える。
消えると言っても、空白になるわけではない。
別の項目が増え、全体の見た目は整っている。
整っているからこそ、欠けが目立たない。
高島は別の資料を引き寄せ、照合した。
同じ島のはずの鉱山名が、微妙に違う。
漢字が一字だけ異なる。
送り仮名が変わる。
旧字体に戻る。
表記の揺れとして片づけられる程度の差で、しかし毎回違う。
揺れは偶然でも起きる。
だが揺れが続くと、検索が難しくなる。
難しくなると、まとめて辿れなくなる。
辿れないものは、存在しないのと同じ扱いを受ける。
高島は鉛筆で印を付けた。
線の太さが不揃いなのが気になり、もう一度薄くなぞって揃えた。
揃えることで、判断が正しくなる気がした。
蛍光灯が一度だけ、微かに瞬いた。
瞬いた理由は説明できる。
古い建物。
電圧の揺れ。
よくある。
よくある、と言える現象が、今夜は気になった。
「捏造ではない」
高島は独り言のように言った。
無から有を作る嘘ではない。
有るものを、まとまらない形にしている。
削除ではなく、分散。
否定ではなく、参照不能。
参照不能は、責める言葉ではない。
ただの状態だ。
状態であるほど、誰も責任を持たない。
高島はブラウザを開き、検索結果を更新した。
結果は変わらない。
もう一度更新した。
変わらない。
更新は確認のための行為のはずだった。
だが繰り返すほど、行為そのものが目的に近づく。
確認しているうちは、まだこちらが主体だと思える。
主体だと思いたい理由があった。
主体でいられない時間が、現実に用意されているからだ。
研究費は減る。
介護費は増える。
講義数は増え、雑務も増える。
増えるほど、思考は浅くなる。
浅くなるほど、人は“選ぶ”ではなく“選ぶしかない”に寄る。
深夜、学内システムにアクセスした。
翌年度の講義計画を確認するためだった。
一覧をスクロールし、自分の担当科目名で目を止める。
講義自体は載っている。
だが担当者欄が空白になっている。
空白は書き忘れに見える。
書き忘れは起きる。
事務処理では、よくある。
高島は一度そう整理した。
整理できる範囲に置けば、今夜は眠れる。
ただ、空白の形が整っていた。
整いすぎている空白は、空白ではなく欄に見える。
欄である以上、埋めるべきものがある。
埋めるべきものがあるのに、埋まっていない。
高島は机の上の表記揺れを思い出した。
完全には消えない。
ただ、接続だけが切れる。
接続が切れても、部品は残る。
残った部品が、説明を可能にする。
説明できることが、いちばん安心を連れてくる。
安心が先に来ると、怖さは遅れてくる。
そして怖さは、遅れてきた方が深い。
翌朝、もう一度システムを開いた。
講義の科目名が一覧から消えていた。
消えたのは科目ではない。
科目は別の場所に移っている。
リンクだけが切れていた。
担当者欄の空白は、空白のまま残っていた。
高島は学内ポータルの職員名簿を開いた。
自分の内線番号を見ようとしただけだった。
検索欄に「高島」と打つ。
候補が出ない。
学部名で絞り込み、一覧を表示する。
一覧は出る。
ただ、スクロールの途中で自分の行だけが飛ぶ。
飛んだことは分かる。
空白は一瞬、現れる。
現れてすぐ、行間が詰まる。
詰まると、空白は無かったことになる。
高島はもう一度、スクロールを戻した。
戻しても、そこに自分はいない。
いないことを“消えた”とは言いたくなかった。
消えたと言えば、こちらが騒いだことになる。
騒げば、説明を求めることになる。
説明を求めると、相手が存在する前提になる。
前提を与えたくない。
その論理が自分の中で成立してしまうことが、いちばん嫌だった。
時計を見る。
終電までの時間が頭に浮かぶ。
頭に浮かぶのは、研究ではなく生活の段取りだ。
段取りを守れば、家は回る。
家が回れば、研究費削減も“なんとかなる”気がする。
なんとかなる、という言葉は便利だ。
便利な言葉ほど、判断を遅らせる。
判断を遅らせるほど、人は選ぶ。
選ぶというより、選ぶしかなくなる。
高島は鞄を閉め、鍵をかけた。
鍵をかける前に、机の上の紙の角をもう一度揃えた。
揃え終えた瞬間、胸の奥が軽くなる。
軽くなるのは、問題が減ったからではない。
問題を棚に上げたからだ。
廊下に出ると、清掃のワゴンが止まっていた。
ワゴンの上に、回収された紙が束ねられている。
束の背に、学部名の朱い印がある。
印は赤く、角が揃っている。
揃っているものは、処理されたものだ。
処理されたものは、戻らない。
高島は視線を逸らし、階段を下りた。
足音が二度だけ反響した。
二度で止まる反響は、建物が空いている証拠だった。
空いていることが、大学の季節の風景だと知っている。
知っていることが、今日の違和感を薄める。
薄められる程度の違和感だけが、残る。
その日の夕方、妻の職場に大学から電話が入った。
内容は丁寧で、短く、曖昧だった。
「ご主人に確認したいことがあるのですが、連絡が取れなくて」
怒鳴り声ではない。
叱責でもない。
ただの敬語だ。
ただの敬語が、接続の切断を前提にしていた。
確認は配慮の顔をして、先に世界を決めてしまう。
妻は仕事終わりに、高島の携帯へそれを伝えた。
「大学から。安全確認、って」
安全。
確認。
どちらも責める言葉ではない。
責めない言葉ほど、逃げ道を塞ぐ。
逃げ道が塞がると、人は自由に見える。
自由に見えるのは、選ぶしかないからだ。
高島は受話器の向こうの敬語を思い出しながら、検索窓にもう一度だけ島の名を打つ。
候補は出ない。
出ないまま、入力欄の下に小さく表示された履歴が一行だけ増えていた。
増えたのは検索ではなく――“検索したという事実”だった。
合理的に整理できる形でしか、世界に残れない。
それでも彼は、残るために、もう一度だけ指を動かした。




