タイトル未定2025/11/19 09:01
若菜が亮とちはるの三人でアジア料理の店で過ごしていた頃、流花は繁華街の、イタリアンレストランの入り口付近に置いてあった黒板を眺めていた。
黒板には、店の看板メニューが書いてあった。
メニューの文字から、美味しそうな料理を連想してしまう。
ちらりと店の中をのぞくと、店内は暖かそうで、客たちは料理を食べ楽しそうだ。
流花は、もう一度看板メニューを眺めた。
料理をオーダーするだけのお金は持っている。
ただ、此処でお金を使ってしまうと、今月は厳しい。
独りで店内に入るのも、ためらってしまう。
それなら、コンビニでお弁当を買った方が無難だ。
そうわかっていても、つい看板メニューを眺めてしまう。
その時小さな笑い声が聞こえ、流花は我に返った。
顔を上げると、握り拳で口元をおさえているマスターが、立っていた。
見られていたことに気が付いた流花は、恥ずかしくなり視線をそらした。そんな流花に、マスターは声をかけた。
「声をかけようとしたけど、真剣にメニューを見ていたので」
「ずっと、見ていたんですか?やだ」
「店に、入らないんですか?」
「入ろうか、迷っていました」
「良かったら、一緒に入りませんか?」
「えっ?」
「ボクも夕飯、まだなんですよ」
マスターは流花の意見を聞かず、店のドアを開けた。
店内は混みあっていたが、なんとか座ることができた。
流花がメニュー表を眺めていた時、不意にマスターが言った。
「ビールを飲んでも良いですか?」
「えっ?はい」
料理をオーダーすると、ビールはすぐやってきた。
マスターは、一気にグラスの半分ほどを飲み干した。
「ずっと、飲みたかったんですよ!……あの……タバコを吸っても良いですか?」
息をついた後、マスターは遠慮がちに言った。
突然のマスターの言葉に、流花は慌てた。
「えっ?ああ、はい。マスター、タバコを吸うんですか?」
マスターは何も答えず、黙ったままタバコを吸った。
流花は、目の前でタバコを吸っているマスターを眺めた。
茶色のダウンを椅子の背にかけ、薄い水色のワイシャツに紺色のネクタイ、黒のスラックス、黒のローファーと、サラリーマンのような姿をしていて、見慣れたバーテン姿とはまた違っていた。
タバコを吸い終えたマスターは、流花に聞いてきた。
「今日は、独りなんですね」
「バイトの帰りです」
「バイト?」
「小学生と中学生の家庭教師のバイトをしています。母親の知人から、紹介してもらって。今日は、中学生の家に行って来ました」
「それで、食い入るように、メニューを見ていたんですね」
「もぉ、やだなぁ」
流花は、照れながら両手で頬を挟んだ。
声を出さず笑ったマスターは、通りかかったウエイトレスを呼び止めビールを追加注文し、またタバコを吸いだした。
「マスター今日、お店は?」
「今日は、時間がなくて休みにしました」
「忙しかったんですね」
「朝から、バタバタしていて。やっと、落ち着いたんですよ」
そう言ったマスターは、疲れ切った顔をしてタバコを吸った。
追加注文したビールが来て、タバコを吸いながらビールを飲むマスターを、流花は黙ったまま見つめていた。
タバコを吸い終えたマスターは、流花に聞いてきた。
「高校三年生?」
「はい」
「進路は、決まっているの?」
「大学です。推薦で、決まりました」
「推薦!凄いなぁ!将来の夢は?」
「建築デザイナーです」
マスターは目を見開いて、小さくため息をついた。
「……なんで、建築デザイナーに?」
「……私、母子家庭で育って。いつか、大きな家に住んでみたいなぁって、子供の頃からの夢で」
「それで、建築家。母子家庭って、きょうだいは?」
「いません。一人っ子です」
「ボクと、同じだ」
「マスターも、一人っ子?」
「うん。ボクは、父子家庭で育ったよ」
「父子家庭!私と似ていますね」
やがて、ウエイトレスがオーダーした料理をテーブルに並べた。
マスターと流花は、黙ったまま食事をした。
流花が食後のコーヒーを飲んでいる間、マスターはタバコを吸い続けていた。
両手でカップを包み込むように持ってコーヒーを飲んでいた流花は、マスターの薬指につけているふたつの指輪が、気になって仕方がなかった。
「マスター」
ぼんやりタバコを吸っていたマスターは、流花の方を向いた。
「結婚しているんですか?」
「結婚?どうして?ボクは、独身です」
「でも……」
指輪をみつめる視線に、マスターは気が付いた。
「これは、大事な指輪で。ボクにとって、お守りのようなものです」
そう言ったマスターは、それ以上指輪について語ることはなかった。
「遅くなってしまいましたね。そろそろ、出ましょう」
言いながらマスターは、伝票を掴んだ。
「あっ、私の分!」
「良いですよ、ボクが誘ったんだから」
テーブルの背にかけていた、茶色のダウンを着ながら、マスターは言った。
暖かい店内にいたせいか、外に出ると射すような冷たさに、マスターと流花は思わず首をすぼめた。
「マスターごちそうさまでした」
マスターは、黙ったまま頷いた。
「白田さん、どの辺ですか?送ります」
「大丈夫です」
「もう、十時過ぎているんですよ!家は、どの辺ですか?」
流花は、マスターの問いに答え、二人は歩き出した。
地下鉄を降り地上に出ると、最終の路線バスの時間に間に合った。後十分ほどで、バスは来る。
「マスターバスがあるから、大丈夫です」
「本当ですか?バスに乗るのを、見届けてから帰ります」
マスターと流花は、バス停のベンチに腰をおろした。
「マスターこそ、大丈夫ですか?」
「何が?」
「此処まで、つきあってくれて。何処に、住んでいるんですか?」
「ボクは……」
マスターは、自分が住んでいる場所を流花に教えた。今いる場所から、遠回りになる。
「マスターすみません」
「良いですよ」
「その場所だと、マンションがたくさんあるところですよね」
「マンションに住んでいます」
そう言ったマスターは、マンションの名前を言った。
「ごちそうになったり、送ってもらったりしたから、何かお返しをしないとね」
「そんなこと、いいですよ」
「……そうだ!来月バレンタインだから、チョコを贈ろうかな」
マスターは、何も言わず笑うだけだった。
「あっ、バスが来ましたよ」
流花が乗るバスが来て、バスは目の前で止まった。
「マスターごちそうさまでした。おやすみなさい」
流花は軽く頭を下げ、バスに乗り込んだ。マスターは、流花を乗せたバスを見送っていた。




