第60話:「湯気の向こうにあるもの」 (水曜日)
章太・陸・部長の夕食と、リンコさんの静かな夜が、言葉にならない繋がりで響き合うように仕立てました。
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水曜日の夜。 少し長引いた会議のあと、陸が「部長、今日は行きましょうよ。あの店、鍋始まってるはずです」と声をかけた。 部長は「章太も来るか?」と聞き、章太は「…はい。行きます」と答えた。
店の暖簾をくぐると、出汁の香りがふわりと迎えてくれる。 三人で囲む鍋の湯気が、仕事の疲れを少しずつほどいていく。
「章太は、最近リンコさんとよく話してるよな」陸がふと言う。
部長は箸を止めて、
「彼女は、言葉の選び方がいい。ああいう人は、チームに一人いると空気が変わる」と言った。
章太は少し照れながら、「…そうですね。なんか、気づかされることが多くて」と答える。 その言葉に、部長は「気づける人間がいるってことだよ」とだけ言って、また鍋に目を戻した。
帰り道、陸が「こういう時間、たまにはいいよな」と言うと、部長が「たまに、じゃなくて、必要なんだよ」と返す。 章太はスマホを取り出す。そこにはリンコからの短いメッセージが届いていた。 「先輩お疲れさま。今日はよく頑張ってましたね」 その言葉に、章太は少しだけ歩く速度を緩めた。
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リンコは、自宅の机に向かっていた。 メールマガジンの冒頭文を、まだ打てずにいる。 画面には「秋の気配と、静かな変化」というタイトル案。 でも、“静かな変化”を言葉にするには、もう少し時間が必要だった。
ふと、先輩の声が浮かぶ。 「…この言葉、ちょっとだけ揺れてる。でも、それが先輩らしい」
その言葉を思い出すと、少しだけ肩の力が抜けた。
スマホを手に取り、短くメッセージを打つ。 「先輩お疲れさま。今日はよく頑張ってましたね」 送信ボタンを押したあと、湯を沸かす。 湯気が立ち上る音の中で、先輩の笑い声が、遠くで響いた気がした。
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章太は帰宅後、部屋の灯りをつけずに、しばらく窓辺に立っていた。 リンコからのメッセージをもう一度読み返す。 「…よく頑張ってましたね」 その言葉の“間”に、何かがある気がした。
リンコは、湯を注ぎながら、画面のタイトルを見つめる。 「秋の気配と、静かな変化」 その“変化”は、誰かと過ごした時間の中に、そっと息づいていた。
夜は静かに深まり、ふたりの距離は、言葉の余白で少しだけ近づいていた。
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次回は、木曜日。 この“静かな変化”が、どんなふうに日常に染み込んでいくか。お楽しみに。




