第55話(後編): 「言葉にならない夜」 (金曜日・夜)
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夜7時。 店内は落ち着いた照明で、静かなジャズが流れていた。 ふたりは向かい合って座り、メニューを見ながら、少しだけ沈黙していた。
「…この店、いい雰囲気ですね。先輩、 静かで、話しやすい」
リンコが言う。
章太は、少しだけうなずいて答える。
「“話しやすい”って、空気のせいかもな。氷川がいると、空気がやわらかくなるから」
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料理が運ばれてきて、ふたりは少しずつ箸を進める。 会話は途切れがちだったが、沈黙は心地よかった。
「…最近、言葉を選ぶのが楽になったんです。受け取る人のことを意識するのも大切だけど、自分の伝えたいことを遠慮することもないって思ったらサクサクいけるようになって」
リンコがぽつりと言う。
「誰かに“伝えよう”って思うと、 言葉って、自然に出てくるっていうか」
章太は、グラスを持ちながら答える。
「俺も、氷川と話すと、 “言葉の余白”がある気がする。 急がなくていいっていうか…すごく楽ちんなんだよ」
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食後。 ふたりは店を出て、駅までの道を並んで歩く。
「…今日は、ごちそうさまでした。またおごってくださいよ、先輩」
リンコが言う。
章太は、少しだけ間を置いてから答える。
「こちらこそ。 …また、次はどこがいいかなあ?考えとくよ」
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金曜の夜は、“言葉にならない夜”だった。 ふたりの間に流れる静かな空気が、 何よりも確かな“気持ち”を伝えていた。
この一話で、ふたりの関係が“言葉ではなく空気”で進展する様子を、静かに描けたと思います。




