第五章 第十七節「きっと春のせいだわ」
白み始めた空が夜の終わりを告げていた。
平原には、二つの影が伸びていた。
竜使いの魔女ワシリーサは、倒れ込んだ黒髪の身体を必死に揺らしていた。
「うぅ………」
「おい! 黒髪! 生きているな!」
甲高い叫びが、エルの耳に響き渡る。
「ワシリーサ、さん……?」
瞼が張り付いたように異様に重い。
朝日が差し込んでいた。
「よかったな! 安心したさ!」
「僕は……どうして、ここに……?」
まるで帳が下りたようだった。
確かにワシリーサを置いて、半人の集落へ向かったはずだった。
集落では、星についての秘密を聞かされたはずだった。
小屋の中で、眠れぬ夜を過ごしていたはずだった。
思い出そうとすればするほど、記憶の扉が固く閉ざされている。
何が起きて、なぜ今、集落の外にいるのか――理解できない。
「そうかそうかそうか……お前さん、もしや何も憶えてないんだな?」
「……ごめんなさい。何も」
ワシリーサは、エルの身体をつぶさに観察する。
禁呪の印は表面には表れていない。
何も起きなかったのか、それとも――まだ見えぬだけなのか。
そして、今ここで確信した。
自分がこの地に囚われていた理由は、定かではない。
だが、今こうしてこの少年の前に姿を現せたこと――
それこそが、自分がここに在る“理由”なのだと悟る。
自分は今、この瞬間に。
長い旅路の果てに託された“役割”を果たそうとしているのだ。
「……ワシリーサさん」
「え? ああ、どうした、黒髪?」
「その身体……? それに……スレイヴァンは……?」
エルはゆっくりと身体を起こし、周囲を見渡す。
しかし、あの老竜の姿はどこにもなかった。
「ああ……相棒なら、青トカゲ隊を連れて天へ還ったのさ」
「え……」
「まったく、あの老いぼれ。あたしがオバケだって気づくまで黙ってたくせにな……気づいたらサッといなくなろうとするなんて、本当に酷い奴だわな。だから、最期に喧嘩をしてやったのさ」
ワシリーサは苦笑しながら、遠くの空を見上げた。
朝日が差し込み、淡く霞む雲の切れ間に光が滲む。
ついさっきまで共にいた相棒の影は、どこにもいない。
「……そうさ、良い喧嘩だったのさ」
ワシリーサはそう呟くと――
ぽっかりと穴があいたような平原を、静かに見つめ続けた。
「そんな……」
エルは何も言えなかった。
朝の光は彼女の輪郭を淡くぼやけさせる。
それなのに、ところどころの血の痕が、まだ彼女をこの地に滲ませようとしていた。
「エル! ワシリーサ!」
半人の集落――森林帯の方角から、二つの影が駆け寄ってくる。
オズとジゼルだ。
その表情には、安堵と焦りが入り混じっていた。
「よかった……! 集落に入ってから、ずっと様子がおかしかったもん、アンタ。もしやワシリーサのとこに行ったんじゃないかって、オズが――あれ、中型竜は?」
ジゼルの問いに、エルは何も答えられなかった。
代わりに、ワシリーサが答える。
その声は、不思議と晴れやかだった。
「ああ、天に還ったさ!」
「え……嘘、でしょ」
ジゼルが小さく息を呑む。
その後ろで、オズは一歩、二歩と下がった位置から、何も言わずに立ち尽くしていた。
顔色は、まだ青ざめたままだった。
(間に……合わなかった……)
淡い光に飲み込まれるように、ワシリーサの輪郭が徐々に薄れていく。
血に塗れた姿はきっと、激しい抵抗を繰り返した痕跡だ。
(エルは分かってるのか? ……自分の身体が……彼女を……)
紅蓮に刻まれた印のあたり――左胸が熱い。
今、知っていることをありのまま話せば、紅蓮の矢が自分を貫くだろう。
だが、それで彼女が、ワシリーサが助かるわけでもない。
どうしたって、保身を選んでしまう。
そんな弱い自分に、怒りが込み上げ、身体が震える。
「待って、ワシリーサ……アンタ、身体が……?」
前にいたジゼルが、ようやく異変に気づいたようだ。
彼女の輪郭は、もう陽光の中で淡く透けている。
さっきまで確かにあった影が、地面から消えていた。
「ははっ、気づいたな!」
ワシリーサはいつもの豪快な笑みを見せる。
「どうやら、あたしもついにこの地から解放されるようだな!」
陽光が強くなる。
風が彼女の髪を揺らし、淡く散らしていく。
「最期の“冒険”が、お前さんたちとで良かった……楽しかったな!」
ワシリーサの声が、朝の光に溶けていく。
彼女の身体はすでに薄く透け始めていた。
「蒼銀頭!」
ワシリーサはジゼルに向かって笑う。
「お前さんが一番、あたしに詳しかったな! この冒険の顛末を、祖国に伝えておくれ!」
「ちょっと待ちなさいよ……そんな――」
「お前さんはそのままで良い、あいつらを散々振り回してやるんだな!」
ジゼルの声が震えるところを、ワシリーサは勢いよく頭を撫で回す。
彼女にとってはまだまだ子どもだった。
「金髪!」
次にオズを見て、楽しげに指をさす。
「お前さんは面白くて、賢い奴だったな! お前さんがあたしの冒険を書物にしてくれれば、あたしは嬉しい! ちゃんと蒼銀頭から全部聞くのさ!」
「……何年かかると思ってるんだよ」
オズは俯きながら、口元を真一文字に閉じる。
ワシリーサが一歩踏み出して、オズに近づく。
エルとジゼル、二人に聞かれないよう、耳元で小さく。
「お前さん、何か“背負わされた”んだな? ……心配すんな、あたしがいくらか持って帰ってやるさ。一人で背負い過ぎるな?」
その言葉を聞いて、オズの目がはっきりと開かれる。
自分の魂が天に還る、その瀬戸際だというのに。
彼女はまだ他人を慮れる。
自身の矮小さと比べて、彼女はなんと偉大なのだろうと悟り――
そしてまた、自分を恥じる。
そして、彼女はゆっくりとエルの方へ向き直って、近づく。
「それから黒髪――右手を、貸しな」
エルが差し出した手を、ワシリーサは両の掌で包み込む。
朝日が透けるその手は、確かに温かかった。
陽の光ではない、人の温もり。
「ワシリーサさん……?」
「お前さんは曇りやすい所があるわな、けれど一等明るい輝きも持ってるさ!」
その言葉に思わず顔を上げる。
出会ってからは、本当に僅かな間だった。
それでも、こうやって一人一人に思いを伝えられる彼女が眩しかった。
「曇りそうになったら、ちゃんとあの二人を頼るんだ。いいな?」
「……うん」
いたずらっぽく笑う彼女に、しっかりと首を縦に振る。
「もしそれでも曇るなら――あたしの名を叫べばいいさ! そしたら、あたしはこう言ってやるのさ!」
大きく胸を張り、陽光を背にして叫ぶ。
「竜使いのワシリーサ、参上っ! ってな!」
その笑い声が、朝もやに包まれて消えていく。
風が通り抜け、残されたのは三人と、一筋の光の尾だけだった。
誰も、しばらく口を開かなかった。
風が沈黙を運び――
そして、かすかな気配だけを残して通り過ぎていく。
「……一緒にいたときは、うるさくてしょうがなかったけどね。寂しいものね、やっぱり」
ジゼルがぽつりと呟く。
その横顔は泣き腫らしたように赤く、それでも無理やり笑おうとしていた。
「まるで、春を告げる風みたいだったね」
先ほどまでワシリーサが立っていた場所を見つめながら、エルはぽつりとこぼした。
ジゼルは目を瞬かせ、それから小さく笑う。
「……そうね。あのうるささは、きっと春のせいだわ」
オズだけが何も言えずにいた。
喉の奥まで出かかった言葉は、全部、胸に刻まれた言葉と一緒に飲み込んだ。
風が三人の間を抜けていく。
中央平原で出会った魔女も、その相棒の老竜も、もうどこにもいない。
けれど、そこを吹き抜ける風だけが、確かにワシリーサたちの“匂い”を残していた。
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