第五章 第十五節「浅はかだよ」
幻森と呼ばれた場所は、いまや開けた平原になっていた。
霧は消え、風だけが通り抜ける。
遠くには、倒れた樹々と焦げた根だけが残されている。
平原が開けたことで、上空に浮かぶ月ははっきりと姿を現していた。
ただ――異様に大きく、重たく、低い。
まるでこの世界の輪郭を食い破るように、夜空に貼りついている。
その白い光だけが、霧を失った平原と、そこに取り残された影を照らしていた。
その中央に、二つの影があった。
ひとりの女と、一体の竜。
ワシリーサとスレイヴァン――永く旅を共にした主従である。
「……お前さんは、知ってたんだな、スレイヴァン」
ワシリーサが笑う。
声は穏やかだったが、どこか遠い。
「まさか、あたしもお前さんも――この地に囚われたまま、魂だけになってたなんてな。今でも信じられないさ」
老竜はゆっくりと首を垂れた。
言葉を持たぬその瞳が、すべてを語っているようだった。
「しかもお前さんにまで気を回してもらってたなんてね……。随分と、主人思いじゃないか」
軽く笑ってみせながらも、その手には何の重みもなかった。
竜の鱗に触れたはずの指先が、ただ風に溶けていく。
少しの沈黙のあと、ワシリーサがぽつりと呟く。
「でも……何であの子らは、あたしたちを見つけられたんだろうな?」
スレイヴァンは答えない。
ただ、鼻先をかすかに動かし、風の匂いを嗅いだ。
それはまるで、遠く離れた仲間たちの気配を確かめるようでもあった。
「……そうか。あたしたちの方が、呼ばれてたのかもしれないな。ならば、お別れのために待たないとな」
ワシリーサは目を閉じた。
風が頬を撫でる。
重さのない身体を寄せ合い、二人は静かに身を預ける。
永い旅路の終わりを、ようやく受け入れるように。
まるで、平原そのものが彼らの眠りを見守っているかのように。
* * *
閉ざされた空間の中で、赤い髪が靡く。
「まず、私が“ここ”にいる理由だけどな」
オリヴィアが、壁のような白を見上げながら続ける。
「一つは星だ。人馬宮ってくらいだから、半人の魔法がモデルになってるんだろうな。傷を癒すにも、魔力を蓄えるにも、この地の元素はよく馴染む。星弓の矢を仕込むにも、具合がいい」
「そして、もう一つは――この地が、アトラスの観測が届かない場所だからだ。隠れてこそこそやるには、ちょうどいいってわけだ」
アトラスの観測――カムラッドの言葉が脳裏をよぎる。
やはり、アトラスが“星に囚われた者”なのか。
それ以上に気になるのは、この場所が観測の死角だということだ。
オリヴィアはアトラスに何かを隠している。
だとしたら、なぜそれを明け透けに自分に話すのか――。
オズの思考は、忙しなく回りはじめていた。
「で、そこに“懐かしい顔”がやって来た……オズ、お前もエルからアイツの出自くらいは聞いているんだろ?」
「え……は、はい」
思考を遮るように、オリヴィアからの問いが飛んでくる。
慌てて答えようとしたその口を、赤髪の女はあっさりと置き去りにした。
「死にかけてたアイツをガレオンで拾ったのは私だ。で、まあ、なんやかんやあって今に至るんだが……」
オリヴィアがふっと笑みを浮かべる。
その笑みの意味を、オズはうまく掴めなかった。
「正直、驚いたよ。普通に生きてりゃ、こんなところに辿り着くはずがない。これも“星の導き”ってやつだろうな」
オリヴィアは肩をすくめた。
「しかも蒼い月まで連れて来てよ。アイツは、私の期待以上に“働いてる”」
「働いてる……?」
「ただ、もう一つ連れて来たオマケ……あれは駄目だ。まさか、あんな厄介な物が憑いているなんてな」
オリヴィアはオズの問いには答えない。
だが、その言葉一つ一つが、必ず心に引っかかりを残す。
(厄介な物……? まさか……『四元の王』の力まで、この人は分かってるのか?)
「お前も、そこで寝てる蒼い月も気づいてないだろうが……アイツの中には、『闇の帝王』――ゲオルグ・グヴァルグラードがいる」
「え……や、闇の、帝王!? な、なんで……! ……じゃあ、さっきの“エル”はもしや――」
予想だにしていない言葉に、オズは驚きを隠せなかった。
「……ああ。闇の帝王が乗っ取った後だな」
エルが闇の帝王に身体を奪われた。
そのような状況だと言うのに――何故、目の前の紅蓮はこんなにも落ち着いていられるのか。
「何でそんなに冷静で! た、助けないと、エルを!」
慌てふためくオズを見て、オリヴィアはため息を一つつく。
そして、彼の脳天に手刀を一撃見舞った。
「痛っ!」
「騒ぐな、落ち着けって……まだ私の話は終わってない。エルなら大丈夫だ、心配ない」
「どうして……どうして、大丈夫だって言い切れるんですか!」
声が震える。
落ち着いていられるはずもない。
思考が何一つ追い付かない。
「そりゃ、話したからな。全くあの馬鹿、どうやってあんなのを寄せ付けたんだか……普通なら、永久に乗っ取られて終わりだってのに」
オズは、そこで言葉を失う。
話した――?
「まあ『用が済んだら還る』って言ってたし、大丈夫だろうよ、エルは。確かに私が見ても分かるくらい、エルの身体も馴染んでなかったみたいだしな」
目の前の紅蓮は、『闇の帝王』を前に何もしなかった――?
外見がエルだからなのか。
それとも――。
胸の奥が、理解できない恐怖でぎしりと鳴った。
オズが言葉に出来ないままでいると、視界が赤髪に染まる。
オリヴィアが歩み寄り、オズの目をのぞきこんでいる。
「私の目的は、さっきも言った通りだ」
“星の儀を成就させること”――オリヴィアは確かにそう言っていた。
「あんなのが中にいたまま、儀を開いてみろ。何が起きてもおかしくはない」
そう吐き捨てると、オリヴィアの口元に冷たい笑みが浮かんだ。
「だから――闇の帝王の好きにさせることにした」
「……は?」
目の前の赤髪が何を言っているのか、分からない。
「ゲオルグはエルの身体を使って、“竜使いの魔女”から禁呪を奪い返しに行くらしい」
空気が凍りついた。
オズの瞳が大きく見開かれる。
「あの様子じゃ……明け方までには終わるだろうな、きっと」
オリヴィアは軽く息を吐く。
「……ったく、いざとなったら祓うしかねえし、こんな大層な結界まで用意してやったのにさ。拍子抜けしたのはこっちの方だよ」
「祓う……その力、オリヴィアさんにはあるんですよね……? 何で……それを選ばなかったんですか?」
視線を落としていたオズから力のない声が聞こえる。
「まあな。やろうとすれば出来るけどよ……この結界をもってしても、どれくらい被害が出るかは分からない。最悪――アイツの星が失われる」
オリヴィアはふと顎を上げた。
結界の白い天蓋の向こう――見えない夜空をなぞるように、視線を彷徨わせる。
「獅子宮は特殊だ。次、どういう形で顕現するか分からない。なら、そんなリスクはできるだけ背負いたくない」
「でも、竜使いの禁呪さえ手に入れば、闇の帝王も一旦は大監獄に戻る。この中央平原に縛られてた竜使いの魂は天に還るだろうし、エルも厄介払いができる――めでたしめでたし、ってわけだ」
オリヴィアはゆっくりと、わざとらしく拍手の真似をした。
そこまで聞いて、ようやくオズが口を開く。
「そ、そんな……! ワシリーサが禁呪を持ってる……? いや、それより――闇の帝王が、エルの身体を使って……ワシリーサを……?」
「ああ、そうだよ」
オリヴィアは肩を竦める。
「だから“待ってろ”って言ってるんだ。この結界も借り物だし、朝までしか保てない。解けたら、外で寝てるだろうエルを起こしてやってくれ」
オズは首を横に振った。
「止めないと……エルを助けないと! 禁呪を……闇の帝王に渡すなんて――絶対ダメだ!」
オリヴィアの眉がぴくりと動く。
「……おい。お前、話聞いてたのか?」
「エルの身体が無事ならいいなんて、そんな話じゃない! あいつが――エルがそんなこと望むわけない!」
「……はあ?」
静かにため息が落ちる。
その一瞬で、空気が変わった。
オリヴィアの声は冷たく落ちる。
「馬鹿か? 本気で言ってんのか?」
オズが息を呑む。
オリヴィアは一歩踏み出し、オズの胸ぐらへ指先を突きつけた。
圧が強まる。
「言っとくが、これは“情緒”の話じゃない。星の儀を成就させるための、ただの合理的な判断だ」
だがオズは引かない。
「でも! それでも! エルは人だ! あいつは……そんな……誰かを犠牲にして進むような――!」
「“お前の知ってるエル”は、な」
静かな声。
そこには、怒りと哀れみがまじっていた。
「現実を言ってやる。闇の帝王の思念。あれは、本来お前らの意志だけでどうにかできる代物じゃない」
「っ……!」
「それが“用事さえ済めば離れる”って言ってるんだ。これより安全で確実な手段を、お前は用意できるのか?」
それでもオズは食い下がる。
「それでも……! エルは俺の友達だ! 友達が……悪行のために身体を利用されてるなんて――!」
オリヴィアの足が止まった。
ゆっくりと振り返る。
彼女の瞳は、ただ静かに、燃えていた。
「――だったら、なおさらだ」
「オズワルド・ミラー。戦闘で、お前に何ができる? あの“蒼い月”をねじ伏せるより、よっぽど簡単だぞ?」
喉がひゅっと鳴る。
それでもオズは――言い返した。
「……そんなの、分かってる! でも……あなたの望む“星の儀”には、俺も必要なんだよな?」
「もちろんだ」
即答だった。
余裕すら感じさせる声。
オズはわずかに口元を引き結び、言葉を絞り出す。
「なら……俺に死なれちゃ困るはずだ。違うか?」
先ほど、自分がジゼルに伝えた言葉を思い出す。
『二度と“自分が死ぬ”なんて言うなよ』
今、目の前の赤髪に吐いた言葉と、一体何が違うというのか。
そんな矛盾を抱えても、どうにかこの状況を打破したい――
そう思って、なお叫んだ言葉だった。
オリヴィアは一瞬だけ目を瞬く。
そして次の瞬間――
「ぷっ……ははっ!」
爆笑とも嘲笑ともつかない笑い声が、結界の内側に響く。
「お前、何を言い出すかと思えば……知恵が回るって思ってたけどな。浅はかだよ」
「なっ……!」
オリヴィアは片手で額を抑え、笑いながらも呆れたように言う。
「いいか? 星の魔導具と違って――星の“魔法”は定着が早い」
紅い瞳がオズを射抜く。
「お前が今ここで死んでも、二年だ。二年もすりゃ、次の星の覚醒者は必ず現れる」
重い沈黙。
オリヴィアは笑うのを止め、にじり寄る。
「星はな、“必要な駒”が欠けても、必ず補充されるんだよ。たとえ何を犠牲にしても、な」
オズの手が震えた。
「だから、勘違いするなよ。私が“困る”のは――」
オリヴィアは、オズの胸に刻まれた赤い光を指先でなぞった。
「お前の死じゃない。“星の儀が遅れること”だけだ」
ああ、そうか。
だから、この紅い髪は自分にこれだけ明け透けに話しているのか。
彼女にとっての俺は、“儀の駒”でしかない。
「まあ、でも」
オリヴィアは肩を竦め、にやりともせずに言った。
「私にケンカ売った度胸だけは認めてやるよ? そんな馬鹿、マリア以来だ」
その名を出され、オズの胸がわずかにきしむ。
オリヴィアは続ける。
「だから結界は解いてやる。予定よりちょっと早いが――多分、もう頃合いだ。……もしかしたら、間に合うかもな。ご褒美だと思っとけ」
「な、何なんだ……! あなたは結局……何が目的なんだ!」
叫ぶオズに、オリヴィアはあくまで冷静に返す。
「だから、星の儀を成就させることだって。何遍も言わせんな」
そして――
瞬間、オリヴィアの姿がかき消えた。
「っ――!?」
オズの身体が反射で強張る。
彼は死を覚悟し、思わず目を閉じ――
ぽすっ。
額に軽い衝撃。
「……へ?」
開いた目の前で、オリヴィアは弾いた指の形のまま片手を戻していた。
「私が本気なら、お前の頭なんざもう無い。星を使うまでもないってこと」
オズは呆然と立ち尽くす。
オリヴィアはその肩をぽん、と一つ叩き、言った。
「やれやれ。知恵が回ると思ったら感情を優先するし、冷静かと思ったら意外と脆いし……けど、まあ悪い奴じゃないんだろうな。これからもアイツと、そこのお転婆のこと、頼むぜ?」
「獅子と蒼い月は貴重なんだ。それこそ、本当にそいつらが危なくなったら――山羊らしく、代わりに“贄”になってやれ」
紅い瞳が、鋭く細められる。
「その時までその命は大事にしておけ」
オリヴィアは背を向け、既に頭に外套の布をかけなおしていた。
彼女の表情は、もう見えない。
「最後にもう一度――今夜のことは、くれぐれも口を滑らすなよ? 私に“弓”を引かせるな」
それは“脅し”でも、“願い”でもなく。
ただ、世界の道理を告げるような声音だった。
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