第五章 第十二節「その時がやって来た、ということか」
一行は半人たちの案内の下、幻森を離れ、半人たちの集落へと向かっていた。
だが、そこにワシリーサの姿はない。
『……あたしは、行かないさ』
足を進めながら、エルはその言葉を思い出す。
胸の奥で、ワシリーサとのやりとりが何度も反響していた。
『お前さんたちしか、あたしたちの姿は見えてないんだろ? だったら、一緒に居ても邪魔なだけさ。それに……』
『奴らには魔力の塊にしか見えなかったと言っても、あたしにとって奴らは青トカゲ隊の“仇”なのさ』
老竜スレイヴァンの傍らで冷たく横たわる、小さなインディゴの竜たち。
その姿を包むように、ワシリーサはただ静かに身を寄せていた。
『後でまた来る? ああ、楽しみにしてるさ。――黒髪、お前さんは優しい子だな』
豪快で、笑って、騒いで――
そんな彼女が別れ際に見せたのは、痛みを押し込めた、かすかな微笑みだった。
ふと風が吹き、エルは後ろを振り返る。
幻森はもう薄れていた。
魔力の糸が途切れたのか、ただの平原が広がっているだけだった。
そこには、彼女たちの姿も――もう見えない。
「エル、着いたぞ」
肩を軽く叩くオズの声。
その表情は、普段よりずっと硬い。
ジゼルは前だけを見て歩いている。
横顔に影が差し、普段の気迫とは違う重さが漂っていた。
三人は、静かに半人たちの集落へと辿り着いた。
* * *
半人の集落は、思っていたよりもずっと小さかった。
森の奥――倒木を避けるように築かれた十数軒の家屋が、苔むした根と絡み合うように並んでいる。
どの屋根も低く、煙の匂いがほのかに漂っていた。
「少ないわね」
ジゼルがぽつりと呟く。
小人の共同体よりも、さらに数が少ない。
「我々は『忘れ去られた仔』だ。他種族と交わることもなく、やがて滅びゆく――それが“半人”という存在だ」
先頭を歩くアレッジドの言葉は、静かでありながらどこか達観していた。
「是とも非とも思わぬ。……ただ、受け入れているだけだ」
そう言って、彼は四足の歩みを止める。
「ここだ」
指し示した先には、集落の中でもひときわ大きな家屋があった。
アレッジドの後について中に入る三人。
エルがふと後ろを振り返る。
(ワシリーサさん……じゃない。でも、どこかで感じたことのある気配……)
集落からは当然、幻森のあった平原は見えない。
もちろん、あのワシリーサが後をついて来ていたわけでもない。
立ち止まって周囲を見渡すが、そこに広がるのは半人の集落だけ。
「何してるの、先行くわよ」
「……あ。ごめん」
前にいたジゼルから声がかかり、エルも『森の賢人』の待つ方へと再び進みだした。
洞穴を利用して造られたその住居の壁には、人の顔が四つ、浮かび上がるように彫られている。
「細かい仕事だな……これは?」
オズがまじまじと眺め、そばの半人に尋ねた。
「歴代の酋長だ。死後、その魂を弔い、功績を刻む。……いずれ私も、ここに並ぶことになるだろう」
アレッジドの静かな答えに、オズは軽く頷く。
その奥から、杖をついた老齢の半人が現れた。
その佇まいは、長い年月を経た木のように静かで、根を張るような重みを感じさせた。
「酋長、客人をお連れしました」
アレッジドの声に、老半人はうなずき、静かに名乗った。
「私の名はカムラッド。半人たちの長を務めさせて頂いている」
その声は枯れていたが、不思議と柔らかかった。
言葉の一つ一つが、時を刻む年輪のように響く。
オズは一歩進み、深く礼をした。
「酋長カムラッド。私はオズワルド・ミラー。ツヴァーグラントの王、ボルグ・プレトリウスの命を受け、こちらへ参りました」
「小人の国の王……そして、なるほど。――その時がやって来た、ということか」
「こちらは遣いである証、ツヴァーグラントの王の印章です」
オズは精霊工芸の袋から、小さな銀の円盤を取り出す。
血筋の紋が浮かび上がる精細な鋳造品は、焚き火に照らされて淡く青白い光を返した。
カムラッドは両手でそれを受け取り、じっと見つめた。
古い記憶に触れるように、指先が震えている。
洞穴に静寂が満ちる。
焚き火の音だけが、ぽつりぽつりと奥で弾けた。
長い沈黙ののち、老半人は顔を上げた。
「……小人の王が、中人を遣いに選ぶとは。時代は確かに、巡り変わっているのだな」
柔らかな微笑を浮かべたその目が、ふと横へ向けられる。
「さて――そこにいる、ドワーフの娘さん」
突然呼ばれ、ジゼルは目だけをカムラッドに向ける。
「なるほど……暗闇に佇む蒼銀の月。それを思わせる、美しい髪だ。――其方が“蒼い月”で間違いあるまい」
「蒼い月って……何のことよ?」
ジゼルが戸惑うように尋ねる。
カムラッドはゆるやかに瞼を閉じ、遠い記憶を呼び起こすように語り出した。
「瞬く星たちと共に現れる、“二つの月”の一つ。それが“其方”なのだ」
ジゼルは戸惑いのまま、オズを見る。
オズは一瞬ジゼルと目を合わせてから、老半人の言葉の意味を探るように、その眼差しをカムラッドに向ける。
「……古より伝わる言葉がある」
老半人は焚き火の揺らめきに目を落とし、静かに語り始めた。
“十二の星が連なる時、星の儀は開かれる”
“星の儀は、二つの月が証人となり、最後の星の輝きの後に、光を失う”
二つの月――蒼い月と黑い月。
蒼は始まりを告げ、黑は終わりを見届ける。
星が動き、運命が書き換えられるとき……必ず二つの月が、揃わねばならぬ。
焚き火がぱちりと弾け、洞穴に淡い影が揺れる。
かつて、この世界には“魔王”なる者が存在した。
その魔王を討ち滅ぼしたのが――“勇者”。
そして勇者こそが、最初に星の儀を行った者だ。
語りは淡々としていた。
まるで、遥か昔の記憶をそのまま紡ぐように。
勇者が星に願ったのは、魔王が率いた種族――魔族の滅亡。
星は願いを受け入れ、魔族という存在をこの世界から消した。
残ったのは“魔王”という記号と、勇者の逸話のみ。
言葉は重く落ちる。
この世界再編とも云える大いなる力には、避けられぬ揺らぎが生じた。
例えば、魔獣。
主を失った獣たちは、異なる強大な力――幻獣の庇護を求め、眷属となった。
しかし、眷属となり得なかった魔獣は知を失い、理を失い――やがて滅びる。
黒角獣は正にその類だ。
そして、小鬼や大鬼等も同じ運命を辿るだろう。
老半人の声が、わずかに低くなる。
そして――我ら半人だ。
神の子と魔族の間に生まれた古き系譜。
魔族そのものではないが、“獣の血”を宿す者。
星は我らを滅ぼしはしなかった。
しかし、其方ら“神の子”、つまり世界の記憶から我らの名を奪った。
焚き火の火が静かに揺れた。
そこいらの魔獣と同じく、姿形こそ残された。
だが見られず、呼ばれず、語られなくなった。
故に我らは――“忘れ去られた仔”である。
老いた声は、嘆きではなく、真実をただ告げる響きを持っていた。
カムラッドはゆっくりと息を吐いた。
そして、星は巡り、新たな儀が執り行われた。
しかし、この二度目の星の儀は成立しなかった。
月が欠けていたのだ。
蒼い月を欠いた儀は、始まることもなく、天に還された。
星の儀を執り行った者は、この不完全な儀を起こした罰を――
星に囚われた者となった。
焚き火の赤が、再び揺れる。
大いなる意志――其方らの云う“神”は星の儀を望む。
囚われた者は観測者となり、星が揃うのを待つ。
そして、この世に再び十二の星が集わんとしている。
老半人は静かに目を閉じた。
月もまた、始まりと終わりの相を示しつつある。
我らもまた呼び起こされたのだ。
蒼い月は、小さき者の洞穴から目を覚ました。
黑い月は、今もなお東の空に沈まず。
ならば、我らの役目は唯一つ。
蒼い月を、この世に“在るもの”として認めること。
其方らがここに導かれたのは必然でしかない。
我らの智慧を、星と月へ返すため。
それが――忘れ去られた仔に残された、最期の役目なのだ。
カムラッドが大きな息を吐く。
焚き火が静かに弾けた。
老半人が語り終えた洞穴には、重い沈黙だけが落ちている。
ジゼルは、蒼銀の髪先をわずかに揺らしながら、息を呑んだまま動けずにいた。
胸の奥に、言いようのない冷たさと重みが沈んでいく。
自分が――“星の儀に必要な、蒼い月”。
そんなものを背負うつもりなどなかった。
けれど、その光は確かに自分の中にある。
ジゼルの指先が、わずかに震えた。
オズは顔を伏せたまま、手を胸元に当てていた。
そこに宿る“星”の存在を、改めて重く感じている。
星が願いを叶える――
その意味を、いま初めて真正面から突きつけられた。
願いひとつで、世界の形すら変わる。
そんな力を、自分も宿している。
オズはゆっくりと息を吐いた。
その音には、恐れと決意が入り混じっていた。
エルだけが、焚き火ではない“どこか遠く”を見ていた。
顔色は変わらないのに、胸の奥で何かが軋むように痛む。
勇者――自分の血脈の始まり。
その男が星に願い、ひとつの種族を丸ごと消した。
誇りでも、憧れでもない。
ただ、“受け継いでしまった”という途方もない事実。
その事実が静かに、深く、エルを締めつけていた。
握りしめた拳の震えだけが、彼の揺らぎを物語っていた。
沈黙を裂いたのは――ジゼルだった。
「……それで、私は何をすればいいの?」
その声は、強くあろうとしているのに、どこか掠れていた。
カムラッドは眉を伏せ、静かに答えた。
「今はまだ、時が来るのを待つだけだ。十二の星が揃う、その時を」
淡々とした響き。
だが、そこに宿る“覚悟”だけは確かだった。
ジゼルはゆっくりと瞳を閉じ、短く息を吸い込む。
そして――
「私が死んだら、その星の儀っての、開かれないの?」
あまりに唐突で、あまりに重い言葉だった。
「おい、ジゼル!」
オズの声が裏返った。
彼の手が反射的に伸びるが、何を掴めばいいのか分からないまま、途中で止まる。
その手は宙に迷い、ただ震えるだけだった。
エルは声も出せず、ただジゼルを見つめていた。
火の光が揺れ、その横顔の影が揺れる。
言葉にならない声が、エルの喉の奥で渦巻いていた。
ジゼルの蒼銀の髪が、焚き火の赤を受けて淡く光った。
カムラッドはその光を静かに見つめ、答えを紡いだ。
「……大いなる意志は、今度こそ星の儀を正しく執り行われるのを望むだろう」
老いた声なのに、どこか諦観と祈りが入り混じっている。
「仮に其方が天に召されたとしても――蒼い月は新たな宿主を探す、そういう運命だ」
洞穴に落ちたその一言は、重石のように響いた。
ジゼルは短く息を吐いた。
それは笑いに似ていたが、笑ってはいなかった。
「そう……なら、意味はないのね」
かすかに震える声。
その震えは、恐れか、怒りか、受け入れ難さか――
彼女自身にも分からないものだった。
焚き火がぱちり、と弾け、三人の顔に新たな影を落とした。
「少し三人で話をさせてください」
オズが、喉の奥で震えを押し殺すように言った。
声が不自然に硬い。
それだけ、心が揺れている。
カムラッドは静かに頷いた。
「もちろんだ。今日はもう遅い。……集落の外れに、使われていない小屋がある。そこで休むといい」
それだけを告げ、老半人は焚き火に視線を戻す。
まるで、“今語られたすべて”がまだ炎の奥で揺れているかのようだった。
「アレッジド、案内を」
「……ああ」
アレッジドは三人に背を向け、無言で歩き出す。
洞穴の外から、夜風がひゅうと入り込んだ。
三人は誰も口を開かないまま、その後に続いた。
洞穴の出口へ向かう足音がゆっくりと遠ざかる。
焚き火の赤だけが、彼らの背に揺れながら影を伸ばしていく。
やがて三人は、半人の集落の静かな夜の中へと消えていった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
次回更新は12/9(火)20時頃の予定です!
引き続き宜しくお願いします!




