第五章 第十節「彼らは声に反応しない」
ワシリーサと出会ってから、幾夜が過ぎただろうか。
旅の果て、ようやく『森の賢人』が棲むとされる森林帯を目前にしていた。
風さえ息を潜めて通り抜ける静寂の森。
けれど、そこに広がっていたのは安堵ではなく――惨状だった。
樹々、樹々、樹々。
幾重にも重なる影の層のあいだに、五つの影があった。
手前、樹々の陰。
エルとジゼルが身を潜め、息を殺して周囲を伺う。
まだ戦端は開かれていない――だが、空気は血のように重かった。
その少し奥、木の根が露出した開けたあたり。
オズが盾を構え、森の外へと視線を向けている。
彼の足もとには、焼け焦げた枝と黒い灰。
さらに奥。
そこに膝をつき、嗚咽を漏らすワシリーサの姿があった。
腕の中には、冷たくなったインディゴの小型竜たち。
その身体を包むように、老竜スレイヴァンが翼を垂らしていた。
――風が吹いた。
焦げた匂いを運び、枯葉を舞い上げる。
静寂は、祈りのようであり――同時に、葬送のようでもあった。
* * *
ほんの数刻前。
森の入口を抜けたとき、ワシリーサは笑っていた。
「あたしが聞いた半人ってのは、どいつもこいつも無口で堅物だけど、義理は固い奴らさ! 筋さえ通しゃ、ちゃんと迎えてくれるさ!」
インディゴの小型竜たちは、主の声に応えるように翼を広げ、森の上空を舞った。
皆、合図に従って列を組み、そのまま森の奥へと先行していく。
いつもの“偵察”だった。
その光景に、エルは思わず呟く。
「ワシリーサさんの魔獣って、みんなワシリーサさんに従順だよね」
「あたりまえさ! まあ、ちょっとした“秘密”もあるんだがな!」
「秘密?」
エルが興味深そうに顔を上げる。
「何よ、それ」
ジゼルも身を乗り出す。
周囲の樹々を観察していたオズも、面白そうな話に乗り遅れまいと顔を上げ、ワシリーサの方を向いた。
その瞬間、オズははっきりと「それ」を見た。
ワシリーサは一瞬だけ言葉に詰まり、「しまった」と言いたげに眉をひそめる。
その間、彼女の周りで、微かに魔力の気配が波打った気がした。
だが、すぐに胸を張り、得意げな笑みに切り替える。
「それは――“愛”、だわな!」
「……愛じゃ、どうにもならないんじゃないかな?」
「真剣に聞いて損したわ」
さっきまで身を乗り出していたエルとジゼルが、同時に興味を失った顔になる。
「ちょっとちょっとちょっと! 思った反応と違うわな!」
ワシリーサが即座にツッコミを入れ、エルとジゼルは顔を見合わせて笑った。
そのやりとりを聞きながら、オズは先ほどの一瞬の表情と、かすかな魔力の揺らぎが妙に引っかかっていた。
そして――
オズの眉が、ぴくりと動いた。
「……音が、ない」
森は異様なほど静かだった。
鳥も、虫も、風のざわめきさえも消えている。
老竜スレイヴァンが鼻を鳴らし、湿った土の匂いを確かめるように地を嗅ぐ。
次の瞬間、焦げた匂い。
先行していた竜たちの気配が、ぷつりと途切れた。
エルたちが駆けつけたとき、そこはすでに戦場のあとのようだった。
小型竜たちは、どれも何かに貫かれたような穴を開けて地に伏していた。
十頭すべて。
どの個体も、それ以外の傷はない。
――まるで、一撃で息を奪われたかのように。
「……嘘だろ」
オズがかすれた声を漏らす。
ジゼルは言葉もなく、指先でその穴をなぞる。
焼け焦げた縁。
熱を帯びた空気――つい先ほどの攻撃。
「ワシリーサ、待て!」
オズの声が届くよりも早く、ワシリーサは駆け出していた。
崩れた枝を踏み越え、倒れた竜たちへ一直線に。
そして、最も近くにいた一頭の首を抱きしめ――
「ぐぅ……うぅ……! 何が起きたのさ、青トカゲ隊!」
嗚咽が漏れた。
その声は森に吸い込まれ、木々の間で静かに消えた。
スレイヴァンが背を丸め、翼で主を包み込む。
その巨体の影が、まるで墓標のように見えた。
――そして、時間は今へと戻る。
ワシリーサが叫びを上げた。
その声よりも早く、動いたのはエルだった。
「オズ! ワシリーサさんを守って! ジゼルは一緒に!」
指示と同時に、鉄剣が彼の掌に形を成す。
続けて、ジゼルが簡易工房を展開――だが、その瞬間だった。
空気が裂けた。
エルの剣が、何かに貫かれた。
まるで光そのものが直線を描いたような一閃。
衝撃で剣が手から弾き飛び、エルは咄嗟に後退する。
「っ……!」
ジゼルの簡易工房にも、同じものが突き刺さっていた。
これまで何者の干渉も受けつけなかったはずの異空間が――
内部で、確かに“何かが壊れる”音を立てた。
「くっ! 何よ、いきなり!」
「ジゼル!」
エルは動揺を押し殺し、口元に指を当てて合図を送る。
――声を出すな。敵はまだ見えない。
一方その後方。
ワシリーサをかばうように構えていたオズのもとにも、それは届いていた。
レメンティアの盾が低く唸る。
表面を走る術式が一瞬だけ光り、飛来した何かを“吸収”した。
「……これは――」
オズが息を呑み、低く呟く。
「魔力で出来た……矢、か!」
* * *
エルとジゼルは、太い木の幹の裏に身を寄せた。
熱と焦げた匂いの残る空気の中、息を止め、森の呼吸に耳を澄ませる。
「……あれだけの声、位置が割れてると思ったけど」
エルが囁く。
「おかしいわね。二発目が来ない」
ジゼルの声は低く、冷静だった。
ほんの数拍の沈黙。
二人の間を、焦げた風が横切る。
「もしかして――」
エルとジゼルが、同時に目を合わせた。
次の瞬間、エルが地に手をつく。
手の甲に刻まれた獅子の星痕が、金色に輝いた。
光が走る――
それと同時に、空気を裂く音。
見えない“矢”が放たれた。
エルの足もとから土壁が隆起し、二人を庇うように立ち上がる。
だが、その壁は瞬きする間に貫かれ、粉塵とともに崩れ落ちた。
「――っ!」
土煙の中、二人は左右へと飛び退く。
矢が通り抜けた軌跡を、焦げた風が走った。
ジゼルが短く息を吐き、顔をしかめる。
「……やっぱり」
「彼らは声に反応しない」
エルが頷いた。
「反応があるのは――」
「魔力だけ、みたいだ」
二人の視線が交わる。
静寂の中で、次の一撃に備えて魔力の流れが収束していく。
* * *
「……忘れ去られた仔。半人たちが、唯一使える魔法さ」
泣き崩れていたワシリーサが、ぽつりと呟いた。
その声は震えていたが、どこか諦めにも似た静けさを帯びていた。
「ワシリーサ! ……大丈夫か?」
駆け寄るオズの問いに、彼女はゆっくりと顔を上げる。
紅くなった目を拭い、かすかに笑った。
「すまないな、取り乱したな。……突然の別れだったが、青トカゲ隊たちも――ようやくこの地から解き放たれたのさ」
「そうか――弔う時間くらい与えてあげたいが……今何が起きてるか分かるか?」
オズの言葉に、ワシリーサは空を見上げ、低く言った。
「奴ら半人は、敵と判断したものに“矢”を放つ。弓も矢もない。ただ、その所作が魔法の発動になるのさ」
「なんだそれ……無制限ってことか?」
「そうさ。けれど奴らは狩りをするとき、魔力の揺らぎを頼りにしている。こうして話してても、魔力を漏らさなければ――視られることはないさ」
オズが息を呑む。
盾の表面を指で撫で、魔力の流れを止める。
周囲の空気がひんやりと沈黙した――その瞬間。
森の奥から「音」が戻ってきた。
土を蹴る律動。
枝の擦れる低音。
「……クソ、いつ近づかれた?」
オズが呟いた直後、木々の間を抜けて、森の影が一斉に動いた。
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次回更新は12/5(金)20時頃の予定です!
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