第五章 第九節「間違いなく箔は付く」
轟音が走り、谷の奥から灼けた空気が吹き上がった。
雪は一瞬で蒸気に変わり、岩の割れ目から紅い光が脈打つ。
「待て待て待て! ここはワシリーサが返り討ちにしてあげるさ!」
ワシリーサが胸を張って一歩前に出る。
外套の群青が熱を帯び、裾がひらりと舞った。
「……ちょっとちょっとちょっと! 前よりデカくなってんな!」
谷の中央で立ち上がったドン・ガヴナンは、まさに山の化身だった。
焦げた鉄のような体躯、溶岩のように脈打つ双角。
かつて中型竜スレイヴァンが踏みつけて封じたというが――
今はその倍の大きさ。
もはや竜でさえ見上げる存在に変わっていた。
「スレイヴァン! こいつを踏みつけてしまいな!」
老竜は、唸るでもなく、静かに首を振った。
その瞳には、どこか遠い記憶を映すような、悲しげな光が宿る。
「おいおいおい、スレイヴァン! 何を怯んでるのさ、この老いぼれだな!」
ワシリーサは地団駄を踏み、老竜の背をにらむ。
「青トカゲ隊もこの暑さでぐったりしてるしな……ぐぬぬ!」
口の端をひきつらせながら、ゆっくりと後退する。
スレイヴァンも、主人の動きに合わせて巨体をわずかに震わせながら後ずさった。
「はいはい、茶番はおしまい」
ジゼルが一歩、前へ出た。
熱の中でも冷ややかな声。
「私がやるわ。――引っ込んでなさい」
「う、うぅ……」
肩を落とすワシリーサを、スレイヴァンの乾いた瞳が憐れむように見つめた。
熱風が再び吹き抜け、雪が蒸発する。
ドン・ガヴナンが唸り、双角の根元から紅い光が脈打つ。
その全てが、この巨体の眼前に立つ蒼と銀――ジゼルただ一人を狙っていた。
「ジゼル! 僕も――」
エルが後方から駆け寄ろうとしたところを、ジゼルは右手を伸ばして静止した。
「大丈夫。ちょっと試したかった“物”があるの」
ジゼルが静かに手をかざし、簡易工房を展開する。
空間の裂け目から現れたのは、見慣れた戦斧――ではなかった。
これまでのものも小人の身長を超えていたが――さらに巨大だ。
長柄、蒼と銀の刀身、そして継ぎ目を飾る真紅の装飾。
光が走り、金属が鳴る。
巨大な戦斧――だがその重量は、まるで存在しないかのように、ジゼルの掌の上で軽やかに回転した。
「……手に馴染む。さすが、ブラウロットの頭領の作品ってところね」
蒼銀の髪が熱風に揺れた瞬間、刃はまるで“重力を失ったように”走る。
一振り。
風が鳴った。
ドン・ガヴナンの双角が、斜めに断たれる。
その一瞬、黒角山地の時間が止まった。
「嘘だろ……?」
オズが声を失い、エルが目を見開く。
「すごい……一撃で……」
「ほうほうほう! やるじゃないか、蒼銀頭!」
ワシリーサが口笛を吹く。
黒角の巨体は、自らの頭が急に軽くなったことに気づき、驚いたように低く唸った。
その目の前に、斬り落とされた角の欠片が転がる。
轟く咆哮。
谷全体が揺れ、蒸気が一気に吹き上がる。
「……どうする? まだやんの?」
ジゼルは涼しげに問いかけた。
その瞳は氷よりも冷たく、紅蓮の熱を跳ね返すようだった。
斬られた角から立ち上る蒸気に、ドン・ガヴナンは本能的に頭を垂れた。
それは“角を折られた者”だけが示す服従の仕草だった。
「ふん。分かってるじゃない。――命は大事にしなさい」
ジゼルは戦斧を肩に担ぎ、そのまま背を向けた。
熱風の中、蒼銀の刃が一閃の光を残して消えた。
* * *
「アンタ、それじゃちょっと不格好ね」
ジゼルは頭を垂れるドン・ガヴナンを見上げ、片眉を上げた。
先ほど斬り裂いた方向とは逆に、軽く戦斧を振るう。
金属音が響き、双角の先端が削がれた。
角は短くなったが、見事に左右が揃っている。
「うん、初めてにしては上出来ね。……これで、バランスも取れるんじゃない?」
均衡を取り戻した巨体が、ゆっくりと姿勢を正す。
そのまま軽やかに踵を返し、谷の奥――封印の地へと消えていった。
蒸気が静まり、雪が再び舞い始める。
「ジゼル! その斧……?」
エルが駆け寄る。
ジゼルは戦斧を肩に担ぎ、淡々と答えた。
「ああ、これ? ……旅立つ前にヘルガから渡されたの」
「戦斧ブラウロット。――共同体の名をそのまま冠するなんて、姉さんらしい単純さだけど……嫌いじゃないわ」
微かに笑う口元に、照れと誇りが同居していた。
「斬れ味といい、腕馴染みといい……やっぱ職人としては負けてるわね。悔しいけど」
「ジゼルが作ってくれたこの指輪も、オズの盾もいい品物だよ」
エルの言葉に、ジゼルは目を丸くした。
「馬鹿、それも姉さんとの共作よ。でも――」
「いつか私一人で、アンタたちに“とっておき”を作ってあげるわ」
そう言って、くるりと背を向ける。
「あ、そうだ。おーい、モジャ!」
ワシリーサと話していたオズが顔を上げる。
呼ばれるまま、エルとジゼルの方へ歩いて来た。
「ん、どうした?」
ジゼルは顎で谷の中央をしゃくる。
そこには、切り落とされた巨大な角が転がっていた。
「この角、持って帰るわよ。売っ払おう!」
「……あのな。俺の話、聞いてたか? 牛魔は密猟で絶滅したんだぞ。角なんて市場に回したら、それだけでお尋ね者の仲間入りだ」
「アンタ、その鳥の巣みたいな頭は見掛け倒し? もっと柔軟にしなさい」
「なっ……!」
オズが絶句するのを気にも留めず、ジゼルは口元を軽く上げて続けた。
「アンタたち協会員なんだから、“調査で持ち帰った”で十分でしょ? モジャの軽口なら、たまたま拾ったようにも繕えるわよ」
「軽口って、お前なあ……。まあ、確かに言い訳なんていくらでも思いつくけどよ」
オズは頭を掻きながらため息をつく。
その横で、エルも口を挟んだ。
「でも、これだけ巨大な牛魔の角なら、良いアピールにもなるんじゃないかな?」
「そうだな、間違いなく箔は付く……よし、持って帰るか!」
三人は顔を見合わせ、同時に笑い出した。
その様子を少し離れた岩陰から眺め、ワシリーサが腕を組む。
「なんだなんだなんだ……いい組み合わせじゃないか、なあスレイヴァン」
老竜は穏やかな瞳で三人を見つめ、低く鼻を鳴らす。
「なあに、あたしたちも負けてないさ! なんせ年季が違うからな!」
豪快に笑い、スレイヴァンの巨体をバシンと叩く。
その笑い声が、再び雪の谷間に響いた。
――ただ、その笑みの奥で、老竜の瞳はどこか寂しげに揺れていた。
煙る谷を抜けた風が、ようやく本来の冷たさを取り戻していた。
一行はその風に背を押されるように、『森の賢人』の待つ森林帯へと向かう。
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