第五章 第八節「邪魔するってのなら、話は別よ」
エルたち一行が黒角山地を通過しようとする少し前――
中央平原の遥か上空に、燃えるような熱源が“いた”。
「おっかしいな……さっきまで感じたんだけど」
――『太陽王』ソウラ・レイ。
直近の円卓裁定で封印指定第三位に名を連ねた、太陽を宿す戦闘狂。
吹雪に覆われた空域にもかかわらず、彼の周囲だけは季節を裏切るかのような蒸気が立ち昇る。
雲は焼けて裂け、空は真昼のように青く抜け落ちていた。
雪片は彼に触れる前に溶け、光の霧となって散る。
戦闘の余韻は濃く、衣服は裂け、破れ、焦げていたが――
露わになった肌は陽光そのものの輝きを宿し、傷ひとつ残っていない。
ただ、一か所を除いて。
右腕。
その腕だけが、焼け爛れ、赤黒く焦げつき、肉がひび割れている。
“太陽”による再生の炎が拒絶されていた。
太陽を拒むのは、彼が右腕で握る槍――天蠍宮の魔導具。
星槍アンタレス。
太陽と星が互いに反発した結果、彼の右腕だけが永遠の灼熱に晒され続けている。
しかし、それでもソウラは、その槍を手放さない。
自ら、わざと“太陽”に影を落としているのだ。
「まあ、いっか。女と子ども、巨人の後のデザートにしては味気ないしな」
ソウラは、まるで痛みを確かめるように、焼け爛れた腕をぐるりと回す。
「……やーめた。めんどくせ。冷めた」
気まぐれに探すのをやめた“太陽王”は、中央平原の南へと沈み込むように消えた。
だが――
彼が残した熱と魔力は、空気の形を変えていた。
谷間の雪は黒く焦げ、岩肌は赤い脈動を帯びる。
大地そのものが“太陽の影”を刻みつけられたように、重く、熱く、歪んでいた。
* * *
黒角山地の谷間の道は、一見すると白霧に包まれた静穏の平原に見えた。
だがその静けさこそが、旅人が決して足を踏み入れぬ理由だった。
理由は二つ。
一つは、魔素の影響で地形が絶えず姿を変える――迷宮のような性質を持つこと。
もう一つは、この山地と同じ名を冠する『黒角』という魔獣の噂だ。
旅人たちは皆、「足もとから山が動いた」と言い残して消えた。
だが今回は、そのどちらも一行の前には姿を見せない。
理由はただ一つ。
先頭を歩くのが、この地を踏破した“竜使いのワシリーサ”だからだ。
「ほら、道はこっちさ!」
腰に手を当て、外套の群青をひるがえしながら、ワシリーサは自信満々に谷間を進む。
雪はほとんど消え、岩肌からはうっすらと蒸気が立ち上っていた。
「……この蒸し暑さ、何だ?」
オズが地図を見ながら眉をひそめる。
「知らんな! あたしが来た何百年前かは、こんなんじゃなかったな!」
ワシリーサも笑いながら額の汗をぬぐう。
「でもでもでも! “迷宮”ってのは、こういう変化もあるから迷宮なのさ!」
その声は明るかったが、足音のたびに地面がかすかに軋んでいた。
エルは目を丸くしながらも少し距離を取り、ワシリーサの背を追う。
オズは慎重に周囲を見回し、鼻先に漂う焦げた匂いに気付く。
「……本当に、その魔獣は封印したの?」
ジゼルが低くつぶやく。
「もちろんさ! スレイヴァンが踏みつけて一発さ!」
誇らしげに胸を張るワシリーサ。
後ろを歩く老竜スレイヴァンも、誇らしげに鼻を鳴らした。
だが――
谷壁の奥では、“赤い脈動”がゆっくりとうねっていた。
どこか遠くで、心臓の鼓動のような音がした。
空気が揺れ、岩が呼吸するように熱を帯びる。
「ほら、この左角の峰の影を抜けたら、右角の間に出るわけさ!」
エルが小声で呟く。
「すごい……本当に道がまっすぐに見える」
オズは頷きながらも、少し冗談めかして付け加えた。
「でも油断は禁物さ」
「ちょっとちょっとちょっと! 金髪、あたしみたいな喋り方だな!」
憤慨するワシリーサの笑い声を背に、三人は歩みを進めた。
だが――その笑い声が、熱気の中に吸い込まれるようにかき消えていく。
谷間の出口、左角と右角の狭間で、空気が低く唸り始めた。
そこが、かつて“黒角の魔獣”が封印された地――
そして今、長い眠りの果てにその息を吐こうとしていた。
地の底が――鳴った。
轟音ではない。
山そのものが低く呻くような音が、雪と蒸気の間から響き渡る。
次の瞬間、足もとがわずかに沈み、熱を含んだ空気が吹き上がった。
「なっ……!」
エルが思わず膝をつく。
雪が舞い上がり、岩肌の奥から赤黒い光が走った。
それはまるで、山脈そのものに血管が通ったようだった。
「おいおいおい! 本当に目覚めたのか!」
ワシリーサが叫ぶ。
谷間全体が震動し、背後のスレイヴァンが翼を広げて唸った。
「ワシリーサ! あれって……まさかガヴナンか?」
オズが叫ぶ。
「――ああそうさ! この迷宮の魔素に育まれた、ドでかい奴……あたしがドン・ガヴナンと名付けたさ!」
「ダ、ダサい……」
オズは呆れて頭を抱えながらも、前方を見上げた。
左角と右角の狭間の底。
崩れた岩壁の向こうで、巨大な影がゆっくりと起き上がる。
地表の岩を押し割りながら、二本の黒い角が現れた。
熱と共に吹き出す蒸気。
鼻息ひとつで風がうなり、雪が溶けて奔流になる。
「名前はともかく……確かに図鑑で見たよりも、随分と巨大だな」
「オズ、知ってるの?」
「……ああ」
オズの顔は強張っていた。
「牛魔――頭部に生える二本のその角は、一角獣や双角獣のものよりも遥かに稀少で、“歩く万能薬”とも呼ばれた存在だ」
「呼ばれた、ってなに?」
ジゼルの問いに、オズは短く息を吐く。
「数十年前に絶滅したんだよ。一角獣みたいに角が生え変わるわけでもなく、性格も獰猛だった。だから魔道士や密猟者は殺して、その角を奪っていった――生き残れるはずがなかった」
「そんな……」
エルが息を呑む。
「そう、随分と可哀そうな境遇だけど――」
ジゼルは前へ出て、眼前の巨体を睨みつけた。
その瞳はすでに、戦う者の色に変わっている。
「邪魔するってのなら、話は別よ」
彼女の言葉を合図に、谷間の熱が一気に吹き上がった。
赤い光が爆ぜ、封印の地が“再び息を吐く”。
黒角の首領――ドン・ガヴナン。
かつてこの山に名を残した災厄が、ゆっくりと首をもたげた。
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