第五章 第四節「そんなに熱くならないで」
中央平原――かつてガレオン皇国が西方世界の盟主として治めていた地。
だが〈滅国の七日間〉の後、そこは誰の領土でもなくなった。
元素の流れが断たれ、大地は“沈黙原”と呼ばれるようになった。
かつて満ちていた見えない風は止み、今この地を渡るのは、痩せた寒風だけだ。
かのクライセン王国ですら開拓を試みず、今では「緩衝地帯」と名ばかりの“禁足の地”となっている。
それゆえ、この地を通ろうとする者はおらず――そして、それを遮る者もいない。
数日後。
ユージオ大山脈の南部――白と岩の境を、三人の影が縫うように進んでいた。
吹き抜ける山風は冷たく、砂混じりの雪を頬に叩きつける。
空は低く曇り、稜線は灰の帳に溶けている。
先頭を行くオズが地図を片手に歩調を整え、その後ろをエル、さらに少し離れてジゼルが続いた。
しかし、三人の間には言葉が少なかった。
ジゼルは終始、前を向いたまま無言。
オズもまた、視線を合わせようとしない。
吹雪の音だけが、沈黙の隙間を埋めていた。
* * *
「……ねえ、オズ」
エルが声をかける。
雪を踏みしめながら、横目で地図を覗いた。
「ボルグさんが言ってた場所って、このまま黒角山地を越えたあたりだよね?」
「ああ。中央平原のちょうどど真ん中――黒角山地の北端を抜けた先、その南側の森林帯だ。ボルグ曰く、そこに“森の賢人”がいるらしい」
「森の賢人、か。どんな人なんだろうね?」
エルは手袋に積もった雪を払う。
「そうだな……いつ現れるか分からない“蒼銀”を待つっていうんだから、不死の存在なのか? 不死といえば妖精が有名ではあるけど……」
「ちょっと、エル。こっち来て」
ジゼルの声が後方から飛んだ。
その瞬間、オズはわずかに言葉を飲み込み、振り向こうとはしなかった。
エルは一瞬だけオズの横顔を見て、ためらい――
それから、ジゼルの方へと駆け寄った。
「どうしたの、ジゼル」
駆け寄ったエルが声をかける。
「別に。……ただモジャと二人で話してるのが、ちょっと癪に障っただけ」
思わぬ回答にエルは目を丸くして、そしてため息をつく。
「はぁ……ねえ、ジゼル」
「……何?」
短い返事が返ってくる。
「オズのこと、まだ怒ってるの?」
「怒ってるっていうか……ムカつくのよ」
ジゼルは足を止めず、吐く息を白く散らせた。
「ボルグに気安く話しかけて、“前金だ”なんて受け取ってきてさ。アイツ、いっつも軽いんだから」
「でも、ちゃんと仕事として受けたんでしょ? 依頼なんだよね、今回の」
「分かってる。でも――」
ジゼルは拳を握りしめた。
「……納得いかないの! 何よ、私を森の賢人に会わせるって! 意味が分からない!」
その叫びを、あえて雪原に響かせる。
先頭を歩くオズが、わずかに立ち止まった。
エルは何も言えず、ただ苦笑して肩をすくめた。
「二人とも、話せばいいのに……」
やがて風が弱まり、空がわずかに明るくなった。
遠く、黒角山地の稜線が見え始める。
山肌は鋭く裂け、露出した岩が黒鉄のように鈍く光っている。
オズが指を伸ばした。
「見えてきたな。あれが黒角山地。地図によれば、あの向こうに例の森林帯へ下る道があるはずだ」
「下る……って、まさか徒歩で?」
ジゼルが眉をひそめる。
「……なんだ、そんなに狼走が恋しいのか」
オズの声には、棘が混じっていた。
「……何ですって?」
ジゼルは一瞬、口を開きかけたが、すぐに黙り込む。
空気が再び凍りつく。
エルが慌てて間に入る。
「ま、まあまあ二人とも――いくら寒いからってそんなに熱くならないで」
柄にもない無理に洒落を口にするエル。
その明るい声が、かろうじて空気を繋ぎ止めた。
風がまた吹く。
雪が舞い、足跡を覆っていく。
三人はただ、無言で歩き続けた。
やがて彼方に、黒角山地を背にした広大な森の影が見え始める。
そこが――ボルグが言った“森の賢人”の棲む地。
* * *
目の前にそびえ立つ黒角山地が、徐々にその存在の大きさを示し始めたころだった。
冷たい風の中、雪の色がわずかに淡く変わる。
曇天の切れ間から、かすかな光が差し込み――その時、エルが空を見上げた。
「……あれは?」
薄灰の雲を背景に、黒い影がいくつも浮かんでいた。
円を描くように旋回し、ひとつ、またひとつと位置をずらしていく。
エルの声に、オズが反射的に顔を上げる。
「小型竜だな。この辺りに出るってことは――おそらくローレシアン・インディゴの群れだろう。ユージオより南にも現れるんだな」
「ローレシアン・インディゴ……」
エルが小さく繰り返す。
「小型竜も種類が多いよね。あの円になって回ってるの、何してるんだろう?」
いつもなら興味を示さないジゼルが、ぴくりと反応した。
顔を上げ、強く空を睨む。
「円陣……? ――バカ、それを早く言いなさいよ!」
ジゼルの言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。
上空で光が閃き、空の模様と風の音が変わる。
「……来るわよ!」
円陣を描いていた小型竜たちが、ゆっくりと軌道を変えた。
旋回の輪が二重に重なり、やがて空にひとつの「双翼」が開く。
翼の列が交差し、上下にすれ違いながら新たな軌道を描く。
空そのものが織り上げられていくようだった。
「数は……十頭ってところか!」
オズが低く呟き、背から盾を外して構える。
前列の五頭が一斉に口を開いた。
青白い光が瞬き、次の瞬間――氷の弾丸が空を裂いた。
「下がって!」
ジゼルは既に簡易工房を展開していた。
炉の光の中から引き抜かれたのは、鈍色の戦斧。
振り上げると同時に、迫る氷弾を次々と叩き斬る。
破片が雪上に散り、蒸気とともに消える。
一方、エルは雪原に片手をついた。
凍った地層に魔力を通し、土を隆起させて防壁を作ろうとする。
だが、雪の下の地が硬すぎた。
魔力は吸われ、地面はわずかに震えただけで沈黙する。
「……魔力が通らない!」
「エル! 前!」
ジゼルの叫び。
捌ききれなかった氷弾が幾つか、真っ直ぐにエルを狙う。
オズが一歩踏み込み、盾を前に出した。
氷弾が直撃した瞬間、盾の縁が淡く黄光を放つ。
弾丸に含まれていた魔力を吸い取り、氷は砕け散った。
「……大丈夫か、エル!」
「うん、ありがとう!」
オズは息を吐き、盾の表面を見やる。
「せっかくのレメンティアの初陣だが……この距離じゃ跳ね返すのは難しそうだな」
エルは立ち上がり、息を整える。
次の瞬間、腕を振り抜く。
空気が震え、細い刃のような風が生まれた。
風は一直線に小型竜の群れへ。
だが、竜たちはまるでそれを読んでいたかのように、軽やかに上昇した。
交差するように軌道を変え、後方の五頭が前へ躍り出る。
「小型竜は風を乗りこなす! 風の魔法は通らない!」
オズの声に、エルは息を呑む。
「そんな……!」
「ほら、ぼさっとしない!」
ジゼルが斧を構え直した。
第二陣の五頭が口を開き、氷弾の光を集める。
エルは反射的に魔力を凝縮し、掌から鉄を生成する。
一瞬で形を成した鉄の剣が、氷弾を斬り落とした。
「くっ……重いっ!」
氷の破片が頬をかすめ、雪煙が上がる。
オズは盾で防ぎ、ジゼルは斧を振り抜き、エルは剣を構え直す。
だが、竜たちは高度を変え、巧みに距離を取り続けた。
「この時期、餌がなくて獰猛なのは分かるけど……」
ジゼルが低く唸る。
「こいつら、こんなずる賢い群れじゃなかったはずよ!」
空が轟き、氷の雨が降る。
三人は背を合わせるように立った。
雪原が白い閃光に染まり、
その中で――群れの動きに、確かな“秩序”が見えた。
それはまるで、見えない“誰か”の命令に従っているかのようだった。
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次回更新は11/23(日)20時頃の予定です!
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