第五章 第一節「面白い冗談だ」
西方世界歴五九八年二月初頭。
ローレシア帝国を横断する魔導列車、最西の終着駅――ザスターヴァ。
長い結界トンネルを抜け、車体は低い振動を残して静かに停まった。
一行が改札を抜けて地上へ出ると、そこには夜の街が広がっていた。
積もった雪と街灯の光が溶け合い、白と橙が交じる幻想的な景色。
静かな風が吹き抜け、家々の軒先に吊るされた狼鈴が、ちりんと冴えた音を響かせた。
「……くぅー、身体がバキバキだ。今夜はもう遅いし、宿を探そうぜ?」
オズワルド・ミラーが肩を竦める。
エル・オルレアンも同意し、頷いた。
ただ一人、ジゼル・ブラウロットだけが唇を尖らせていた。
「……半日も経たずに、ここまで戻るなんて。身体より、心がまだ追いつかないわ」
彼女の胸中には、行きの道での光景がよぎっていた。
――あの日、狼走が何を賭けていたのか。
それを知らぬまま平然と乗り込んでいた自分の無知。
思い出すたび、怒りと悔しさがじわりと滲む。
そんな一行に、不意に声がかけられた。
「おう、探したぞ!」
振り向けば、強い酒の瓶を片手にした男が立っていた。
見覚えのある粗野な顔――狼走の御手、イワン・ミローノフ。
「イワンさん!」
驚くエルの声に、短い沈黙が落ちる。
沈黙を破るように、オズがぼそりと呟いた。
「……なんだ、払ってない分でも取り立てに来たのか?」
ジゼルはなおも不機嫌なまま、じろりと睨みつける。
「違う違う。ビクトルの旦那に言われてな!」
「……ビクトルさんが?」
エルの声がわずかに上ずる。
イワンは返事の代わりに酒瓶をくいとあおり、上機嫌に笑った。
「ああ、そうだ。ついて来な!」
そう言うなり、ぐいと前に出て、夜の通りへ歩き出す。
狼鈴の音が風に揺れ、白い街の中で、彼の足音だけが響いていた。
* * *
イワンに案内された一行は、ザスターヴァでも評判の宿に辿り着いた。
暖炉の火が心地よく揺れ、磨かれた床と清潔な寝具が、長旅の疲れをゆっくりと解かしていく。
荷を下ろしたところで、エルがぽつりと呟いた。
「……まさか宿代まで払ってくれてたなんて、イワンさんには感謝しなきゃ」
オズがベッドに背を預け、気だるげに手を振った。
「まあな。でも、狼走で死にかけたのは事実だし……あのおっさん、『赤頭巾』の一員になったらしいし、むしろ得してるんじゃねえか?」
軽口に聞こえたが、その言葉はジゼルの胸に小さな棘のように刺さる。
彼女は唇を結び、やがて小さく首を振った。
「……何も言うことはないわ。もう、思い出したくもない」
炉の火がぱちりと爆ぜ、影が壁に揺れた。
やがてオズが姿勢を正し、二人を見回す。
「さて……一度整理しておこう。俺たちの目的地はヴィクトリアだ」
炉の炎に照らされる瞳は落ち着いていながらも、鋭く燃えていた。
「魔術師団を結成するために、魔法協会本部へ向かわなきゃならない」
「予定では――ザスターヴァから徒歩でノイエ・クライセンへ。そこで魔導列車に乗ってクライセンに入り、さらに別の列車で港湾都市まで出る。最後に船で海を渡って、ヴィクトリアに入る……これが最短のルートだ」
「……船に乗るのね」
ジゼルがぼそりと呟く。
「ああ、ヴィクトリアは島国だからな。全部順調にいけば四日ほどで着く。けど問題はその後だ」
「その後?」
エルが問い返す。
「ギルドの結成手続きは面倒らしい。資料も人脈も揃えて、一度で通したい。そこで――俺の地元に寄ろうと思ってる」
エルが目を丸くし、ジゼルは顎に手をやる。
「もちろん本部のあるガンドールに滞在するのが一番なんだろうが……なんせ俺たちは金欠だ。何泊も宿代を払う余裕はない。ジゼル、懐事情は?」
「私の貯金は、鍵を手に入れたときに殆どなくなったわ。寝る場所なら、簡易工房でいいんじゃない?」
ぶっきらぼうな返答に、オズは苦笑した。
「精霊魔法とはいえ、ガンドールで結界が使えるとは限らない。行ってみて使えず、結果野宿……なんてことになったら目も当てられん」
「……なるほど、任せるわ」
ジゼルは小さく頷いた。
「うん。オズの育った町も見てみたいし、その案でいいと思うよ」
エルが微笑む。
三人の声が交わったところで、炉の火が再びぱちりと音を立て、静かに落ち着いていった。
* * *
――真っ暗な空間。
光もなく、音もなく、ただ際限のない黒が広がっている。
エルはその中で、ひとり立ち尽くしていた。
オズにもジゼルにもまだ言えていない――この黒い夢。
誰の声も届かない。
何も映らない。
ただ、孤独な時を過ごすしかない。
ふと、右手に目を落とす。
「……デネボラが、ついている」
ジゼルが、自分のために鍛えてくれた指輪。
黄金の輪がかすかに脈打ち、緋色の石が心臓の鼓動に呼応していた。
闇の中でも、かすかな熱と光だけが確かに生きている。
(……ジゼルの思いが、自分を繋ぎとめてくれているのかもしれない)
そう思うと、不思議と胸が落ち着いていく。
――だが、その刹那。
全身に、重たいものがのしかかる。
これまでの夢では一度もなかった、異質な“圧”。
「……今までとは、違う。誰かが――入ってきている?」
闇に問いかけた瞬間、低い声が響いた。
「獅子の尾で己を縛るとは……面白い冗談だ」
「縛られた者同士となった結果、干渉が果たされるとは……皮肉なものだな、“四元の受け皿”よ」
初めてこの夢を見た日を思い出す。
耳の奥を震わせるような、冷たい嘲り。
「……誰だ!」
「そう気を張るな。ここでは、私ですら“まだ”何もできない」
闇の中から姿を現したのは、黒の長髪を持つ壮年の男だった。
両の手首には無骨な手錠。
そこから伸びる鎖の先には、鉄球の重し。
確かに彼は“縛られている”。
だが少しでも下手に動けば命を落とす――そんな危うさを、全身に纏っていた。
「たまたま近くに貴様が来た。だから、顔を見に来ただけだ……アトラスの――」
その瞬間、胸を押し潰すような圧が響きをかき消した。
「アトラス……? アトラスさんを知っているのか?」
上手く聞き取れなかった言葉の大半。
それでも、その名だけは確かに耳に残った。
名が闇を震わせ、胸腔を締め上げる。
「ああ、私の――」
男はゆっくりと近づきながら言葉を紡ぐ。
しかし、その続きを聞く前に――闇が裂けた。
音が弾け、世界が反転する。
「――アトラスの、何……?」
その問いだけが空に溶けた瞬間、意識が途切れた。
エルは跳ね起きた。
荒い呼吸と共に、冷や汗が頬を伝い、寝具をじっとりと濡らしている。
胸に手を当て、落ち着きを取り戻そうとする。
外はまだ闇に沈んでいた。
冬の朝は長く、太陽はまだ昇らない。
時刻を見ても、夜明けには程遠い。
息を吐き、額の汗を拭う。
夢の残滓だけが、まだ胸の奥で、鈍く疼いていた。
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次回更新は11/17(月)20時頃の予定です!
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