第四章 第二十四節「この黄昏の旅路に祝福を」
朝。
エル・オルレアンとオズワルド・ミラーは一度『赤頭巾』の兵舎へ戻り、旅支度を整えていた。
だが、そこにジゼル・ブラウロットの姿はなかった。
「なあ……本当によかったのか?」
オズが背嚢を締めながら、不安げにエルを見る。
「……うん。せっかく故郷に戻れたんだ」
エルは答えつつ、昨晩の焔の前での会話を思い返していた。
――ジゼルの声が、今も耳に残っている。
『私は――ごめん。行けない』
『アンタたちといるのは楽しかったわ。それに、私にも新しい目的ができた』
『私はドリュオンズを絶対に許さない。だから、アイツを捕まえる』
真剣な眼差しで告げられた決意に、ふたりは息を呑んだ。
『そのためには色々な地に行って、少しでも手掛かりを探した方がいいと思うの』
『ただ――今は出られない。ブラウロットが、私の故郷がこんなことになって……それをほっといてまた出ていくなんて、出来ない』
『何だよジゼル、俺たちだって別に急いでるわけじゃない。復興だって手伝うよ。なあ、エル?』
オズが思わず声を張る。
だがジゼルは無言のまま、ただ拳を握りしめていた。
『……オズ、僕たちは行こう』
エルは静かに言い、ジゼルを見つめた。
『ジゼル、本当にありがとう。感謝してもし尽くせないよ』
差し出された手を、ジゼルは少しの逡巡ののち、そっと握り返した。
「……おい、エル!」
「え……あ……ごめんごめん」
唐突に現実へ引き戻される。
エルは、オズが差し出していた荷物を受け取った。
この先の旅にはジゼルはいない――その現実を噛みしめていたときだった。
「支度は順調か? 旅立つ前に皇帝陛下が一目会いたいとのことだ」
『赤頭巾』の主、ビクトル・ヴズルイフの声だった。
* * *
真昼。
坑道口には白い息が溜まり、荷車の鉄輪が陽光を鈍く返していた。
巻き上がった粉塵の匂いに油の匂いが混じる。
崩れた支柱は帆布で覆われ、縄で巻かれている。
往来の小人たちは目礼だけ残し、足早に視線を逸らした。
ジゼルは掌をこすり合わせ、薄い手袋を引き直す。
「さて、まだ片付いてないものもあるし……何からやろうかしら」
背を伸ばしたその声の背後で、靴底が石を噛む音が止まった。
「おい、何やってんだ?」
振り向けば、頭領ヘルガが腕を組んで立っていた。
肩からは作業用の鎚の柄が覗く。
「何って、片付けんのよ。あのアホみたいに大きい土蛇の屍骸だってまだでしょ?」
ヘルガの目が細くなる。吐く息だけが白く、声は低い。
「そうじゃない……部外者は出てけ、ってことだ」
言葉は冷たいが、わずかに親指が氏族輪を撫でた。
ジゼルは一歩、石畳を踏みしめる。
「は? ……誰が部外者ですって?」
「一度共同体を抜けた者が、そうやすやすと戻れると思うな。馬鹿娘が」
坑口から冷気が吐き出され、鎖がかすかに鳴る。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
姉妹の声が岩壁で跳ね返り、薄暗い坑の奥へ吸い込まれていった。
ヘルガの眼差しは鋼のように硬い。
ジゼルもまた顎を上げ、視線を逸らさない。
「そんなに戻って来たいなら――条件がある」
重い一拍。
ヘルガはわずかに顔を上げ、坑口の向こう、南の空を一瞬だけ見た。
ジゼルは眉をひそめる。
だが声はぶれない。
「ねえヘルガ……ふざけてる暇はないの」
「とっととドリュオンズを大監獄にぶち込んで来な。それが出来たら、戻って来い」
言葉は鎚の一撃のように真っ直ぐ落ちた。
ジゼルの喉がわずかに鳴り、拳が革手袋の中で固くなる。
「ヘルガ……」
短い沈黙。
坑口の暗がりで水滴が落ちる音がした。
ヘルガは息を細く吐き、声の温度だけを少し下げる。
「そのためには……きっと、あの子たちと一緒にいるのが一番なんじゃないの?」
祈りのような一言だった。
硬さは崩さず、芯だけを渡す響き。
ジゼルは視線を斜めに落とし、唇を固く結ぶ。
手首の革紐をきゅっと締め直す。
「……ふん。今ここで私を引き止めなかったことを――後悔しなさい」
肩がわずかに揺れ、すぐ静まる。
その背はもう震えていなかった。
ヘルガが一歩だけ近づき、坑道とは反対の方角――本工房の方を指した。
「なら、少し寄っていけ。渡しておきたい物がある」
坑道口の影と陽の境目で、蒼銀の髪が小さく光る。
故郷と仲間、そのすべてを背負う覚悟だけが、そこにあった。
* * *
昼下がり。
皇帝陛下アナスタシア・アレクサンドロフ=ドミトリエフに呼び出されたエルとオズは、ローレシア皇宮の客間に案内されていた。
磨かれた窓から薄い日差しが差し、白いカーテンの影が静かに揺れる。
扉がゆっくりと開き、給仕を伴ったアナスタシアが入る。
「ごめんなさい。こちらから呼び出したのに、お待たせしてしまって」
蒼い瞳は澄み、声は穏やかだ。
「いえ、急いでいるわけではないので……なあ、エル」
オズが先に応じ、エルも小さく頷いた。
「貴方たちがこの国を発つと聞いて、最後に一言、と思って」
アナスタシアは微笑み、席につくよう手で示す。
給仕が茶を置いた。
「貴方たちの活躍もあって、帝国と同盟関係にあるブラウロットは救われました。ローレシア皇帝として、感謝します」
彼女は深く一礼した。
それから、まっすぐエルを見る。
「それで……エル、決まりましたか?」
「――はい」
返事とともにエルは立ち上がる。オズが小さく目を見張った。
「アナスタシア陛下。僕は、自分の魔導師団を作ります」
「そう。それは嬉しいわ――これを持っていきなさい」
アナスタシアは装飾の施された筒を差し出した。封蝋が赤く光る。
「これは……?」
「私からの推薦状です。宛先は魔法協会」
言い添えて、彼女は一度だけ時計に目をやる。
「出立の刻まで、もう少し。支度を整えたら、正門へ――黄昏には間に合うでしょう」
エルは筒を受け取り、胸に抱いた。
「ありがとうございます、陛下」
オズも短く礼をする。
薄い日差しが傾き、客間の影がゆっくりと伸びていった。
* * *
黄昏の光が、皇宮前広場の石畳に薄金の帯を引いていた。
御門の外れに御料の車列が待機し、白い旗標が風に揺れる。
広場の鐘がひとつ、ゆっくりと時を告げる。
アナスタシアは客殿から歩み出て、二人の前で立ち止まった。
背後に控えるのは『赤頭巾』のビクトル。
彼は塔の時計を一瞥し、女帝とわずかに視線を交わすと、そのまま一歩下がって沈黙した。
「もし協会が認めなかったら――そのときはローレシアに戻ってきてもいいのよ?」
アナスタシアはいたずらっぽく肩をすくめ、冗談めかして続ける。
「私の権限で、貴方たちに自由を与えてあげる」
「それは心強いお言葉ですが……何とかしてみせます」
エルが苦笑し、オズは小さく親指を立てた。
わずかな会話が、刻を一拍分だけ伸ばす。
アナスタシアはふと視線を上げ、何かに気づく。
唇に小さな笑みを浮かべ、窓のない空へ短く呟いた。
「綺麗な夕陽……珍しいのよ、この季節に」
その言葉に、エルとオズも御門の方へ振り返る。
薄金の光が白い旗標を透かし、影が長く伸びる。
「……本当だ」
エルが目を細める。
「昨日まではずっと真っ白だったのに――」
オズの声が途中で止まる。
「おい、エル……」
石畳を蹴る靴音が、遠くから駆けてくる。
息を切らし、蒼銀の髪を揺らしながら、御門をくぐり抜けた。
「ジゼル!」
二人の声が揃う。
「ごめん……やっぱ私も行くわ!」
息を切らしながらも、高らかに宣言する。
「何だ、寂しくなったのか?」
自然と口の端が上がる。
気づけば、オズはいつもの軽口を叩いていた。
「調子乗るな、バカモジャ」
ジゼルは眉を吊り上げたが、目はどこか照れていた。
「ブラウロットは姉さんがいれば大丈夫だけど、アンタたちは私がいなきゃ不安ってだけよ」
少し頬に朱が差す。
エルは思わず笑って、まっすぐ手を差し出した。
「ありがとう、ジゼル。一緒に来てくれて嬉しいよ。改めて――これからも、よろしく」
ジゼルはその手をぎゅっと握り返す。
背後でビクトルが小さく咳払いをし、アナスタシアは微笑を深めた。
「ジゼル――貴女も彼らと共に行くのですね?」
「ふん、澄ました顔しちゃって……姉さんから“全部”聞いたわ」
「あら、何のことかしら?」
ジゼルとアナスタシアの言葉の意図が掴めず、エルとオズは思わず目を交わす。
「ジゼル、元気でね……次に会うときは、ローレシアもブラウロットも、いまよりずっと素晴らしい地になっているはずよ」
「私もよ、アーニャ。――何かあったら呼びなさいよ。すぐ、こいつらと駆け付けてあげるわ」
「ふふ、頼もしいこと」
蒼い瞳がやわらかく細められる。
その視線の端で、門衛が車列へ合図を送った。準備は、すべて整っている。
アナスタシアは三人を見渡し、右手で静かに祝祷の形を結ぶ。
暮れなずむ空の色が肩に落ち、白い旗標がひと度だけはためいた。
「さようなら――この黄昏の旅路に祝福を」
言葉は薄金の空へと溶け、石畳に長く影を引く。
御者の鞭が空を鳴らし、車輪が回りはじめる。
エルは振り返らず、指に馴染んだ緋石の脈を確かめる。
オズは盾の縁を軽く叩き、「任せとけ」と小さく呟いた。
ジゼルは一歩だけ振り向いて、女帝に短く手を上げると、すぐに前へ並んだ。
白い旗標が遠ざかる。
皇宮の階段に立つアナスタシアの横で、ビクトルが無言の敬礼を送った。
夕風は冷たいが、光はまだ温かい。
三人の旅路は、黄昏から始まった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
第五章開始は11/15(土)20時頃の予定です!
また、11/10(月)20時頃から外伝「三元の極」を投稿させて頂きます!
こちらも是非お楽しみください!
引き続き宜しくお願いします!




