第一章 第七節「洗礼」
クローチェとの邂逅を経て、マリアは一つの頼みごとを切り出します。
それは、エルに“洗礼”を施し、正式な魔法使いとして認めてもらうこと――
教会という静謐な空間で交わされる、儀式と対話。
少年が“名前を持つ者”となる瞬間を、どうぞ見届けてください。
静かな聖堂に、わざとらしい咳払いが響いた。
「……コホン」
クローチェが何事かと顔を上げると、視線の先でマリアがやや不自然に立っている。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「ねえ、クローチェ。エルの“洗礼”、お願いしたいんだけど」
「えっ、もしかして……ああ、そういうことでしたか!」
クローチェは手を軽く合わせて、頷いた。
そして、すぐに優しい目でエルを見やった。
「大丈夫。そんなに難しいことじゃないですから、安心して」
エルは少し緊張した面持ちで頷いた。
「洗礼って……どんなことをするんですか?」
「簡単に言えば、“自分の力に責任を持つ”って宣言すること。私たちヒューマが魔法を使うには、魔法教会か魔法協会――この西方世界の二大巨頭のどちらかに登録しなきゃいけない。教会では、それを“洗礼”という形で認めてるの」
マリアがさらりと説明をする。
「……それって、名前をもらう、みたいなものですか?」
「はい。名を刻むことで、自分の魔力が“公のもの”になる――それはエルさんが“魔法使い”として世界に認められる、ということなんです」
言い慣れたような口ぶりのクローチェ。
エルはクローチェの方を見て、
「その、クローチェさんがやってくれるんですか……?」
「そうですよ?……あ、私じゃ不安ですか?」
「い、いや! そんなことは」
「ふふ、大丈夫です! 私こう見えて、少し偉いんですよ?」
いだずらする子どものような笑顔を見せるクローチェ。
その表情を見て、エルは少し安心をした。
クローチェは手近な祈祷台に立ち、祭壇の奥から小さな水晶の器を取り出す。
その中には、淡く光る聖水が湛えられていた。
「では、エル・オルレアン。これより、あなたを魔法使いとして受け入れる儀を始めます」
その声は澄んでいて、教会の天井に柔らかく反響した。
クローチェは聖水に指を浸し、エルの額に小さく紋を描く。
白い輝きが、そこからふわりと広がる。
「あなたの力が、あなた自身と、世界のためにありますように――」
輝きがすっと収まり、静寂が戻る。
クローチェは小さく微笑んで、エルに言った。
「これであなたも、正式な“魔法使い”です。おめでとうございます」
エルは少し呆然としながらも、口元に小さな笑みを浮かべていた。
マリアがふいに後ろから声をかける。
「これで堂々と修行ができるわね。ようこそ、“魔法使いの世界”へ」
「……ありがとうございます」
その声には、確かな決意が宿っていた。
* * *
教会の扉を出た瞬間、マリアは名残惜しそうに何度も振り返っていた。
「やっぱり、もう少し……もう一泊でも……」
「お姉ちゃん、もう十分でしょ。ほら、こっちこっち」
修道服から普段の衣に戻ったマリアの袖を、クローチェが手慣れた様子で引っ張っていく。
「だってぇ、クローチェとやっと会えたのよ? もっと話したいじゃない……!」
「帰るって言ったでしょ? 教会の皆さん、待ってるのよ」
「くっ……クローチェぇ……!」
「お姉ちゃん……神の御前より恥ずかしいです」
そんなやりとりを横で見ていたエルは、もはや何も言えなかった。
ただ一つ、思ったのは――これがマリアの“素”なのかもしれない、ということだった。
ようやくクローチェが教会の扉の奥へと消え、マリアが背を向ける。
その瞬間。
「よし、戻るわよ。寄り道してる暇なんてないから」
「……早いですね、切り替え」
「なに? 何か文句あるの?」
「いえ……何も」
エルは心の中でそっと呟いた。
(すごいな、この人……)
「さっきは言わなかったけど、クローチェはね。あなたと同じ、“星”なの」
マリアの言葉に、エルは思わず足を止めた。
「……本当、ですか?」
「私は夢占い師でも観測者でもないけど、あの子が“そう”言ったの――だったら、それは間違いないわ」
その声は揺るがず、確信に満ちていた。
見ず知らずの剣士が言うよりも、マリアの“愛しきクローチェ”が言ったこと。
エルにとって、その重みは大きかった。
「だからエル、あなたも覚悟してね。これからの修行――本気でいくわよ」
「……はい!」
「朝と夜は、私のもとで魔法の修行。日中はイエロのもとで剣の鍛錬」
「両方……ですか?」
「そうよ。あなたは、“星”であって、まだ“何者でもない”。それなら、選ぶ前に全部やってみなさい」
マリアの歩くペースはいつも通り早い。
だが、エルはその背に、もう躊躇わずついていくことができた。
ふたりの帰路は、まだ始まったばかりだった。
「洗礼」、いかがでしたでしょうか。
名を刻むということ。それは、自らの力に責任を持つということ。
エルにとっての“魔法使いの世界”が、いよいよここから始まります。
そしてマリアの口から語られた、クローチェのもう一つの顔――
物語は静かに、しかし確かに、歩を進めていきます。
物語は“魔法使い”となった少年の訓練と試練の章へと移ります。
次回は6/17(火)20:00頃の投稿予定となります、お楽しみに!