第四章 第十六節「貴方にも言えないの」
帝都サンクト=アレクサンドロフ。
昼なお雪の舞う皇宮の一角、皇務室の扉は静かに閉ざされた。
銀色を刈り込んだ短髪の男――ビクトル・ヴズルイフは、ローレシア皇帝アナスタシア・アレクサンドロフ=ドミトリエフの前に立つ。
「……それで、ご用命とは?」
夜通し続いたローレシア帝国が誇る魔法騎士団『軍神隊』との会議を終え、『赤頭巾』の拠点へ戻ろうとした矢先だった。
皇帝付きのメイドから呼び止められ、彼はいま皇務室――
アナスタシアが業務を行う部屋にいた。
彼女の私室同様飾り気のない空間ではあるが、壁面には歴代皇帝の肖像画が並べられている。
右端には前皇帝、アナスタシアの実父の肖像画も飾られている。
一歩前に進み出たビクトルは、机上の地図と報告書を素早く一瞥し、静かに答えを待つ。
「魔法協会の情報網を使って調べてほしい人物がいます」
アナスタシアは椅子に腰掛けたまま、窓外の白い光に瞳を向ける。
その声音は冷静に保たれていたが、わずかに緊張が混じっていた。
「名は――エル・オルレアン」
「……ジゼル女史に同行する黒髪の方か」
アナスタシアはビクトルの目を真っすぐ見てゆっくりと頷く。
机に視線を戻すと、ペン先で書類をとんとんと揃えた。
その仕草は考えを整理するための間を取るようでもあった。
「協会の記録庫で分かる範囲でいいわ。ただ――彼に、少し興味があるの」
「……そういえば、彼らは?」
「ヘルガ様から許可を得て、ブラウロットの調査へと向かったわ」
「そうですか……」
ビクトルは口元に手を当てて、押し黙る。
短い沈黙の後、彼は再び口を開いた。
「……それは、皇帝陛下の勅令として受け取れば良いでしょうか?」
アナスタシアは彼の真っすぐな視線を受け止め、わずかに微笑んだ。
「いいえ。皇帝としてではなく、ただのアーニャとしてお願いするの」
ビクトルは踵を返して頭を掻く。
そして、一息吐いて、皇務室の入口扉に向かっていった。
「彼らが戻ってくるまでには用意しておこう……全く」
扉が開き、一度振り返り一礼をすると、そのままビクトルは帰っていった。
扉が閉じる音を背に、アナスタシアは窓辺へと歩み寄った。
「ごめんなさい、ビクトル……"星"のことだけは、貴方にも言えないの」
雪に煙る帝都、その先にはユージオ大山脈の白き稜線が霞んでいる。
* * *
完全に沈黙した土蛇を背に、三人は再び坑道を進んでいた。
巨体が通過した跡なのか、岩壁や天井は削れ、鉱石片が足元に転がっている。
足音と滴る水音だけが響く中、オズワルド・ミラーが口を開いた。
「さっきの土蛇、本当に魔素だけであんなにでかくなるのか?」
灯苔に照らされた坑内で、ジゼル・ブラウロットの声が反響する。
「ありえないわ。小さい頃に“ヌシ”と呼ばれた個体ですら、私たち小人より小さかったんだから」
最後尾のエル・オルレアンは、足元の小石を踏みとめる。
「……奥にいる大鬼と関係あるのかな」
ジゼルは斧の石突きを地に突き、短く息を吐いた。
「その可能性は高いわね。外皮があそこまで硬いのもおかしい……どうなってんのよ、ホント」
会話は自然と大鬼の話題へ移っていく。
オズは肩をすくめながら「昔は小鬼の亜種だと考えられてた」と補足し、ジゼルは「大鬼は話が通じない。完全な怪物よ」と言い切った。
それから一拍置いて、オズが声を潜める。
「そういえばエル。……黒が混じる瞬間、俺にははっきり見えたぞ」
「……え?」
エルが足を止める。
「左手の獅子の星痕が強く光って、そのあとから風が黒く染まり始めてた」
エルは思わず左手を目の高さに掲げる。
だが今は光の気配はない。
「……そうだったんだ」
ジゼルが斜めから口を挟む。
「私の目には、今まで見てきた元素魔法と変わらなかったけどね。ただ――」
彼女は短く息を吸い、エルを見据えた。
「出力が段違い。もし同じ魔力量を使ったとしても、他の中人より何倍も威力が出てるわ」
エルは一瞬、師のマリアの顔を思い出す。
「……前にもそう言われたことがあります」
ジゼルは肩越しにエルを見やり、淡々と告げる。
「そうでしょ。呼びかけも、魔術回路の走り方も、中人と変わらない。違うのは……“星の力”がそこにどう関わってるか」
灯苔の光に照らされたオズが続ける。
「そして、元素魔法を扱うエルの“星”だけが黒を呼ぶ。……俺はそう見てる」
エルは黙って歩を進め、左の手の甲をわずかに握りしめる。
返す言葉を探しながらも、結局何も口にできなかった。
その沈黙を破るように、ジゼルは前方を睨み、斧を握り直す。
「――そろそろね。金色の鉱石が見つかったのは、この下層よ」
視線の先には、坑道の壁に沿って組まれた木製の足場と鉄骨。
その中央に据えられたのは、鎖に吊られた簡素な昇降台だった。
鎖は油で黒光りし、巻上げ滑車が低く唸る。
闇は底なしだった。
古い木製床板は踏むたびに微かに鳴いた。
冷たい風が底知れぬ闇の奥から吹き上がり、頬を撫でていった。
――その闇の底に、大鬼が潜んでいる。
「気を引き締めて」
ジゼルの声に、エルとオズは無言で頷き、昇降台へと足を踏み入れた。
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