第四章 第九節「だから、お願いしたいの」
重苦しい空気を裂いて、廊下に立った女性は金の髪を揺らしていた。
その蒼い瞳に部屋の者すべてが呑まれ、ただ場が華やぎを取り戻していく。
「な……何故ここに? 護衛はどうした!」
ビクトルの声は、さきほどまでの冷静さを失っていた。
自分では変わらず敬語を使っているつもり――だが、熱に押された言葉はいつの間にか崩れていた。
「あら、お散歩に行くのにどうして護衛が必要なのかしら? これでも変装はしてきたのよ?」
女性――皇帝アナスタシアは軽やかに微笑む。
「陛下……立場を考えてください!」
なおも声を荒げるビクトル。
崩れかけた敬語を本人は意識していない。
だがその素地を見抜くように、アナスタシアはただ楽しげに笑みを深めた。
その姿を見つめていたジゼルが、思わず小声を洩らす。
「……后妃様?」
二十数年前、彼女がまだ二十歳にも満たない頃――
ブラウロットを飛び出す直前に見た后妃の面影が、目の前にあった。
だが、后妃はとうに亡くなっていると聞いている。
それでもなお、金の髪も静かな気品も、記憶の像と重なり合って離れなかった。
ジゼルの視線に気づいたアナスタシアが、ぱっと顔を輝かせて駆け寄る。
「ジゼル! 久しぶりね、ジゼル! ……私が分かるかしら? アーニャよ、アーニャ!」
「アーニャ……? ええっ!? あの泣き虫アーニャ!?」
「ええ、そのアーニャよ! 生きていてくれて嬉しいわ!」
アナスタシアは抱き寄せながら、目を細める。
「変わらないわね……あの頃のジゼルのまま」
「貴女こそ……后妃様そっくりじゃない…… 中人の成長にはつくづく驚かされるわ」
「お母さまにそっくり……? 本当? ……嬉しい」
二人の言葉は、時間を飛び越えて絡み合う。
ジゼルにとっては「まだ幼かった少女」が立派に成長していることへの驚き。
アナスタシアにとっては「自分をお姉ちゃんのように構ってくれた人」との再会。
皇帝とドワーフの少女が抱き合い、旧友の再会を喜ぶ光景に、場の空気は柔らかく染まった。
「……本当に、生きていてくれて……」
アナスタシアの瞳にうるみが浮かび、ジゼルの頬もわずかに赤らむ。
二人だけの世界が出来上がりかけた、そのとき――
「……それで、皇帝陛下。本当に“お散歩”に来られたのですか?」
低い声が空気を裂いた。
抱擁の温もりを断ち切るように、ビクトルが鋭い視線で割って入っていた。
場の温度が一瞬で冷え、ジゼルが目を瞬かせ、アナスタシアは小さく肩をすくめて笑った。
「ええ、本当にそのつもりだったのだけれど……ジゼルがここにいるなら少し事情が変わるわ」
皇帝は真剣な表情を浮かべ、ジゼルを見据えた。
「ジゼル、少しお時間よろしいかしら? ビクトル、貴方も一緒に」
ジゼルは思わず後ろを振り返り、エル・オルレアンとオズワルド・ミラーを示す。
「この二人、一緒でも大丈夫?」
「あら、お友達? もちろんよ」
一瞬だけ、アナスタシアの瞳が二人を映す。
その蒼に、ごく淡い光が揺らいだ気がした。
だが彼女はすぐに笑みを取り戻し、皇帝としての顔に戻る。
皇帝の笑みとともに、再び奥の部屋へと入る一行。
エルたち三名とビクトル、そしてアナスタシアが並んで腰を下ろした。
アナスタシアは一度静かに息を整え、ジゼルを見やった。
「まずは、どうしてあなたたちがここにいるのかを教えてもらえる?」
ジゼルが口を開く前に、ビクトルが低く答える。
「銀狼にやられる寸前だった彼らを救った。……私はヴィクトリアから戻る途上で現地に急行した」
「そう……それで、ジゼル。ビクトルから何を聞いたの?」
ジゼルは少し視線を伏せる。
「……鉱山が閉じられていること。事故で……ヘルガも被害を受けたって」
アナスタシアは小さく頷く。
「そう――ビクトル、ブラウロットの鉱山の件は外でも広まっているけれど、ヘルガ様のことは本来、外に出してよい情報ではないわ」
「だが、彼女に限っては知る権利がある。それは俺が判断したことだ」
「あら、そこのお二方も知っているのでしょ?」
「この二人も同様だ、と俺は判断した」
アナスタシアがエルとオズを順に見る。
「僕たちはジゼルの味方です」
「皇帝陛下、ここで見知ったことは決して外部には漏らしません」
「ふふ、ごめんなさい。少し意地悪をしたくなっただけなの。……あのジゼルが、私以外の 中人と仲良くしているなんて、少し驚いてしまって」
「……アーニャ、私を何だと思ってるのよ?」
「あら、悪く言ったつもりはないのよ? ……でも、今も私のことを“アーニャ”として接してくれるのはジゼルだけだから」
一瞬、場に沈黙が落ちる。
「それで、ヘルガ様のことだけど……」
ジゼルは眉をひそめ、指先を膝に食い込ませた。
アナスタシアはそれを見て、少し柔らかい声に変える。
「……大丈夫、心配する必要はないわ。彼女はいま皇宮にいらっしゃる」
ジゼルの肩が僅かに揺れる。
「皇宮に……? どうして」
「詳しいことは、私の口からは言えないの」
アナスタシアはそこで、真っ直ぐにジゼルを見据えた。
「けれど……会えば分かるはず。――会ってみる?」
「……ヘルガ“様”に、ってことね」
ジゼルは軽く笑って見せた。
声音には薄い棘が混じる――それは、彼女なりの防壁だ。
「ええ、そうよ」
ジゼルは短く息を吐く。
視線を横にずらすと、隣に座るエルとオズが心配そうにこちらを見ている。
その顔を見て、彼女はようやく返事をした。
「……分かった。会うわ。ただし、三人一緒に」
アナスタシアは目を細め、ゆるやかに頷いた。
「もちろんよ。あなたの友人なら、歓迎するわ」
アナスタシアは小さく手を打ち、扉口に立つビクトルへ目を向けた。
「さて、そうと決まれば……ビクトル。皇宮へ向かう準備をお願いできるかしら? 裁定の報告はそこでお願い」
「……承知しました」
彼は不承不承ながら頷き、外へと出て行った。
続けてアナスタシアはジゼルへと視線を送る。
「ジゼル、少しのあいだ……お友達とお話しさせてもらえる?」
ジゼルは一瞬ためらったが、椅子を押して立ち上がる。
「……分かったわ。すぐ戻るから」
そう告げて扉を閉じ、部屋には三人だけが残された。
静寂を破ったのは、アナスタシアの柔らかな声だった。
「……ジゼルが大人になったことは分かっているつもりよ。でもね――あの子が誰かに、こんなに信頼されているなんて。本当にすごいことだと思うの」
蒼い瞳がまっすぐに二人を見据える。
「だから、お願いしたいの。これから起きるであろう出来事――ブラウロットのことでも、ジゼルと共に戦ってほしい。これは皇帝としての命令ではないわ。……私、アナスタシア個人としての願いなの」
エルは静かに頷いた。
「もちろんです。ジゼルは……僕たちの仲間ですから」
オズも力強く言葉を重ねる。
「俺たちは一緒に来ました。最後まで一緒に行きます」
アナスタシアの唇に、穏やかな笑みが浮かんだ。
その顔と声は、皇帝としての威厳よりも、ひとりの女性としての温かさを纏っていた。
「……いいお友達を持ったのね、ジゼル」
アナスタシアは扉へ一瞬だけ視線をやり、ふっと息を吐いた。
部屋の空気がわずかに緩み、三人の間に静かな共感が落ち着いた。
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