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亡国のステラリア  作者: 黒瀬 行杜
第四章
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第四章 第六節「死に急ぐな!」

赤い外套の男を見て、エル・オルレアンは思わず声を漏らす。


「あなたは――」


「名乗りは要らん。走れ」


男は短く切り捨て、杖を立て直す。

左手の杖が、雪の下へ白い線を引いた。


「ヴォジャニク、霜路――退路を敷く」


足元の雪が瞬時に薄氷へ変わり、白の中に一本の帯が走る。

視界の混乱にも呑み込まれない、冷たく光る帰還線だ。


そのとき、風下から狼走(フェンリル・スレッド)の唸りが返ってきた。

先ほど別れたはずのソリが、吹雪を切り裂いて滑り込む。


「乗り込め! ここはビクトルの旦那に任せろ!」


御者台でイワンが叫ぶ。

エルは目を見張った。


「イワンさん――!? どうやって――」


「回り風を踏んだだけだ! 早くしろ、祈る暇はねえ!」


ジゼル・ブラウロットは雪に沈みかけていたオズワルド・ミラーの腕を肩に回し、引き上げる。

イワンの叫びに眉をひそめた。


「ビクトル……?」


赤外套の男は応えない。

代わりに、足元の氷帯をさらに延ばしていく。

白い帯は狼走の鼻先へと導線を結び、退路の形を地に刻んだ。


エルはソリの縁に手をかけ、振り返る。


「ジゼル、オズを!」


「任せな!」


ジゼルはオズを担ぎ上げ、そのまましなやかに跳躍して荷台へ。

狼走がきしむが、魔狼(フェンリル)たちは吠えもせず気配を殺し、ただ氷路を駆け抜ける。


赤外套の男が外套の前を払った。

露わになった右前腕は、黒鉄の砲身――九つの刻印窓がうっすらと沈む。


男は左手の杖をその砲口へ嵌合させた。

カン、と金属の噛み合う乾いた音。蒼い霜気が右腕に走り、刻印窓のひとつが淡く灯る。


ジゼルは息を呑む。


「あの魔導器(アームド)……あれは、ヘルガの……!」


その声は男に届かぬまま、男は銀狼の見えない影を睨んだ。


「『灼砲スルト』――鍵は三つまで開く」


低い声とともに、砲口から光が奔る。


「一射目――焼線」


雪原を横一文字に裂き、白を焦がす境界線。

銀狼と彼らの間に、絶対の一線が刻まれた。

その線のこちら側だけが“生”であり、向こうは“死”だった。

圧が一瞬、揺らぐ。呼吸が戻る。


「二射目――焼線」


霜路の左右に並行して光の線が走る。

捕食の渦を切断し、吹雪を押し退ける護りの柵。

狼走の前方に一本の道が明確に示された。


「三射目――焼霧」


砲口が唸り、蒼白い火霧を吐き出す。

白煙が渦巻き、銀狼の双眸を覆う。

満月のような眼は霞み、圧が遠のく。

「見るな」という鉄則が、強制される。


刻印窓が三つ、淡く灼けた。

砲身の霜が剥がれ落ち、蒸気が立ち上る。

黒鉄の砲身は熱を帯びて、じんわりと赤く染まる。


世界から奪われていた音が戻り、暗闇に沈んでいた空が雪雲の白へと変わる。

気圧されていた身体も軽くなる。


――銀狼はなおそこに在る。

だがその視線は逸れ、追ってはこない。


男は銀狼の神威が静まったのを見届けると、吹雪の白へと溶けるように姿を消した。


* * *


「空が明るく……身体も軽い?」


両手を開いては握り、エルが呟いた。


「本当に、あのビクトルとかいう男が一人で……? 信じられない」


ジゼルは訝しげに呟いた。


あの幻獣の一角を、たった一人で退ける――

本当にそんなことができるのか。


「あんなことできんのは……『赤頭巾(シャーポチカ)』でもビクトルの旦那くらいだ」


狼走の手綱を握りながら、イワンが答える。


オズの顔色も徐々に熱を取り戻し、それに安堵しながらエルが尋ねる。

吐息が白く散り、ソリの継ぎ目が低く軋む。


「イワンさん、あの人は一体?」


イワンは前だけを見たまま、手綱をわずかに締める。

雪煙が尾を引き、魔狼(フェンリル)たちの足運びが一定の拍を刻む。


「そうか、お前らよそ者だったな? 旦那はな、今の皇帝が立ち上げた対銀狼特化の魔法師団(ギルド)の主砲だよ」


エルは凍てた睫毛を瞬かせ、耳朶に残る圧の名残を振り払う。


「銀狼特化……? 幻獣ではなく?」


ジゼルは外套の留め具をもう一段締め、風の向きを確かめるように顎を上げた。


「ああ。外では金竜が出たとか、東の先には白猿がいるとか聞くけどよ……俺たちローレシアに住む者にとっては、銀狼だけが絶対なんだよ」


短い沈黙。ソリの床板が震え、オズが浅く息を継ぐ。

エルは指先の感覚を確かめるように拳を握った。


「……それでヘルガの魔導器(アームド)、ね」


風の幕が一枚薄れ、前方の白に濃い影が一本、縦に立ち上がる。


「おい……見えたぞ、標柱だ!」


イワンが嬉々として叫ぶ。


「え、あれ……?」


エルが目を凝らす。

銀狼の神威に晒された緊張と極寒の倦怠で、幻でも見ているのかと疑った。――違う。


そこに立っていたのは、先ほどまで銀狼と対峙していた赤外套の男だった。


イワンが手綱を張り、魔狼(フェンリル)たちは足を止める。


「ビクトルの旦那! 助かったぜ……あやうく犬死にだった」


イワンが声をかける。だが男は耳を貸さず、ソリの荷台へまっすぐ歩む。

男は無表情のまま、脳裏で数える。


男が二――神威に当てられたが、一人はすでに回復済み。もう一人はなお伏せているが、じきに戻る。

女が一――目立った外傷なし。問題なし。

状況は良好。戦闘は――終了。


そこで、男のタガが外れた。


「何を考えている! 銀狼(アルギス・ループス)の棲み処を横切るだと!? 正気の沙汰じゃない!」


「えっ……あ……」


突然の怒声。

エルは激しく狼狽する。


「一歩間違えれば全員喰い潰されていたんだぞ! この阿呆どもが!」


少し前に意識を取り戻したオズは、ただ押し黙る。

いま、ここで言い返すのは得策ではない。


「無知を晒して突き進むな! 考えろ! 立ち止まれ! 死に急ぐな!」


「……っ」


ジゼルは言葉を失う。

烈火の如く飛び交う言葉は、すべて彼女に突き刺さった。


吹雪を裂くように、声だけが標柱に響き渡った。

さきほどまで冷徹に世界を裁いていた男とは思えぬ熱を帯びて。


――白の静寂に残る怒声に、三人は誰一人、返す言葉を持たなかった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!

次回更新は10/5(日)20時頃の予定です!

引き続き宜しくお願いします!

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