第四章 第五節「置いて行けないよ」
風は薄く、音は削がれていく。
さきほどの群れは、もう来ない。
標柱までは、あとわずか――そう思えた矢先だった。
最初に変わったのは、狼走の魔狼たちだ。
耳が伏せられ、尾が落ち、隊列が「祈り」の形に沈む。足が雪に縫い止められる。
御者のイワンが、低く呟いて噛み殺す。
「……残念だが、風が替わった。引き返すぞ」
ジゼル・ブラウロットは短く首を振った。
目は風下を刺したまま。
「駄目――遅かったみたい」
胸の内で、歯を食いしばる。
(……アイツらを危険に晒したのは私だ)
オズワルド・ミラーが、様子の急変に息を詰める。
「イワンさん、何が――」
「口を閉じて、大人しく祈れ。ここは銀狼の“外縁”だ。道は……どこにもねえ」
イワンは返事の代わりに雪道だけを睨む。
逃げ筋を探す――見つからない。
ジゼルが、ふいに身を翻して狼走から飛び降りた。
「何してやがる! 勝手に――」
「いま二手に分かれれば、まだ一方は生き残れる。……お願い、その二人を無事に送り届けて」
言いながら、ジゼルは外套の留め具を解き、荷を軽くする。
エル・オルレアンと視線がぶつかり、逸らさない。
「魔導具の件はヘルガを頼って――私の姉よ。悔しいけど、アイツの方が私よりも腕が良い」
その瞬間、エルがソリ縁を跨いで雪上に降り立ち、オズも続いた。
「は……? 何してんのよ、アンタたち!」
エルはジゼルの隣に立ち、短くうなずく。
「置いて行けないよ。……僕たちに魔導具を作ってくれるんでしょ? なら、一緒に戦わないと」
オズも前に出て、軽口を飲み込みつつ笑みだけ残す。
「悪いな、おっさん! 前金だけで許してくれ。逃げ道は稼ぐ――できるだけ長く」
エルとオズ、ふたりの顔を見回してから、ジゼルは視線を落とす。
しかし、その口元は少し緩んでいた。
「……バカ、これじゃあ簡単には死ねないじゃない」
イワンは舌打ちし、両手で手綱を絞る。
「おい、何もできやしねえぞ! ……ああクソっ、お互い生きてたらまた拾ってやる!」
手綱を激しく震わして魔狼たちを促し、イワンと狼走はその場を全力で離れていった。
空が薄く黒ずみ、地が白く光る。
音が鈍り、遠くの輪郭が紙のように平たくなる。
雪原に、見えない柱が何本も“立つ”。
雪は沈黙を保った。
だが、狼たちは一斉に伏せ、喉の音を消す。
白の地平が、静かに“開く”。
遠景は折り紙のように折れ曲がり、前後の距離すら掴めなくなる。
三つの影は、光と音のない圧に包まれた。
銀の威――神威が、降りてくる。
雪原が、軋むように震えた。
地の下から押し出されるように、白い光の紋が広がっていく。
輪郭は遠くの稜線にまで及び、雪そのものが魔力の線と化し、星座の軌跡を描くように結び合った。
――突如、空が裂ける。
昼であるはずの空は漆黒に閉ざされ、吹雪が逆巻き、雪片は逆流して天へと舞い上がる。
耳が塞がれたかのように音は鈍り、視界はねじ曲がり、地平は裏返る。
その闇のただなかに――双眸。
満月に似た、二つの光が浮かぶ。
瞳孔も虹彩もなく、ただ白銀の光だけが世界を押し潰す。
「……ッ!」
エルは喉奥を絞られたように息を詰めた。
かつて、金竜が街を焼き尽くしたとき――意識は遠く、恐怖すら霞んでいた。
だが今は違う。
銀狼の双眸は、鮮烈に己を射抜いている。
大きいか小さいかは分からない。ただ確かに“上”に在る。
世界を覆い、呑み込もうとする気配は、あの絶望の記憶すら塗り潰していった。
エルは火球を編み、風刃を放つ。
だが炎は空気に呑まれ、風は凪に消える。
魔法は存在を許されぬまま、虚空へ溶けた。
「……嘘だろ」
オズワルドは膝をつき、蒼白に顔を引きつらせた。
『星』の力が彼の目に魔力の流れを映す――
雪原そのものが渦を巻き、すべて銀狼の“口”へと吸い込まれていく。
視ただけで捕食の幻像が脳裏を噛み砕き、身体は動かなくなる。
ジゼルが叫んだ。
「見るな! 見られるな! 影だけを追え――!」
だが影など、どこにもない。
白と黒の揺らぎの中、距離も、形も、存在の確かさすら掴めなかった。
そのとき、ジゼルは気づいた。
エルの火球に、黒が混じり始めていることに。
『四元の王』――あの“異端”の力なら、銀狼にすら抗えるかもしれない。
だが、次こそは戻れないかもしれない。
彼にその選択をさせてはならない。
「オズ! 意識を保って!」
エルは崩れ落ちた仲間を案じながらも、魔法を重ねて放った。
自分でも黒が滲むのを見ていた。
止める理由は分かっていたが、いま止まれば死ぬ。
そう理解しながら――彼はふと、違和感に囚われる。
銀狼は顕現して以来、一歩も動いていない。
何故だ? 本当にそこに在るのか?
エルは、思わずその双眸を見てしまった。
――世界から、音が消えた。
エルの視界に、銀の双眸が満ちた。
光でも影でもない、ただ「在る」ことだけで世界を支配する瞳。
胸が潰れる。呼吸が断たれる。
視線が絡んだその瞬間、心臓が握り潰されるような錯覚に囚われた。
身体は動かない。
魂そのものが、白銀の口に呑み込まれていく――。
「……やめろッ!」
声を出したつもりなのに、音にならなかった。
音を許さぬ虚無が広がる。
雪も風も遠雷もない、ただ心臓の鼓動すら奪われる沈黙。
(……このまま、喰われる――)
意識が闇に引き摺り込まれかけたその刹那――空気が割れた。
白い霜が奔流のように走り、視界を覆い隠す。
世界は再び、白に閉ざされた。
「銀狼は見るな。これは鉄則だ」
白霜の帳を裂き、低く鋭い声が落ちた。
振り返るまでもなく、雪原に一人の影が現れた。
赤外套。
吹雪のただ中で、鮮血のように映える狩人の赤。
左手に立てる杖の先端から、霜の靄が広がり続けている。
「ヴォジャニク、霜幕――今のうちに視線を外せ」
エルははっと我に返り、双眸から顔を背けた。
胸に絡みついた呪縛が一瞬だけほどけ、息が戻る。
男は雪を踏みしめ、杖をさらに地へ押し込んだ。
冷気が渦を巻き、雪原の熱がごっそり奪われていく。
空気が軋み、吹雪の向こうに揺らぐ巨影が縫いとめられる。
「ヴォジャニク、乾帯――見えぬのが恐れなら、姿を晒せ」
熱を失った雪が結晶の輪郭を描き、
影の山脈がゆるやかに形を結ぶ。
吹雪の奥に、銀狼の巨きな顎と背が現れた。
それは動かず、ただ在るだけで、世界を圧していた。
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