第四章 第四節「風じゃないか!」
雪原は、鳴かない。
鳴るのはソリの刃と綱金具、そして魔狼たちの喉の息だけだ。
狼走は凍りついた河道を滑り、薄明の風を裂いた。
御者台でイワン・ミローノフが片手で梶棒を操り、もう片手で短く合図を切る。
指が跳ねるたび、先頭魔狼が肩で風を割り、隊が素直に重心を移した。
「……速い」
エル・オルレアンは思わず息を呑む。
命令は声ではなく手で、群れは言葉ではなく風で理解する。
あの獣が、こうも秩序を持つのか――それが驚きだった。
ジゼル・ブラウロットは外套の襟を鼻先まで引き上げ、目を閉じていた。
眠ってはいない。
上下する肩に力みはなく、ただ体温と体力を秤に載せたまま保っている。
オズワルド・ミラーはと言えば、隣の男とすっかり打ち解けていた。
「ほう、お前さんヴィクトリアの出か。昔、小型竜にも跨ったことがあるが、ありゃ狼とは勝手が違うな」
「空と雪原とじゃ、それは違うでしょ」
「……小型竜に、乗る?」
エルが思わず口を挟む。
頭をよぎるのはリベルタで見た空を舞う魔獣――それを“飼う”という発想そのものが異世界だ。
オズは頷いた。
「ああ。俺たちがガンドールに居たころは見なかったけど……ヴィクトリアじゃ小型竜は“乗る”ものだよ。魔法騎士団にも小型竜部隊がある」
イワンが鼻で笑う。
「なにより彼の国は WR の聖地だからな」
「WR……?」
「ワイバーン・レーシングさ。竜に跨って順位を競う競技だ。賭けもできる」
「俺もその昔、散々やられたぜ……」
イワンはビンの口を舐め、
「あの時、一匹多く買い足しときゃな……今ごろ大金持ちだったのに、ちくしょう」
「ははは、タラレバだよ、イワンさん! そうだエル、今度ヴィクトリアに戻ったら見に行こう。賭けはしない方がいいけど、見るだけで十分楽しい」
ジゼルがそこで目を開けた。
「――まずはここを無事に抜けられたらね」
その瞬間、彼女の視線が風下を刺す。
イワンも肩をわずかに傾け、耳をすませた。
「……後ろからだな。足音の数からして、群れだ」
オズがソリの後ろに身を乗り出す。
白い地平で、黒い点がいくつも動いた。
やがて点は尾を曳く影となり、低く弾む。
「すごい数だ……野生か」
イワンが短く舌打ちする。
「越冬中に腹を空かせてる奴らが目覚めちまったようだ。……ダメだ、このスピードじゃ撒けねえ。風が替わっちまってる」
河面は真っ直ぐだが、匂いは真っ直ぐに逃げない。
“標柱”まではまだ幾里もある。
ジゼルが、静かにエルを見た。
「……エル」
促すように、名だけが落ちる。
エルは息を整えてうなずいた。
「うん……やってみる」
アルブレヒトの工房以来の、“初めて”だった。
黒に呑まれた記憶が喉の奥で鈍く軋む。
けれど、信じてくれる二人がいる――今度は自分が、賭ける番だ。
エルはソリの縁に膝をつき、掌を空へ差し出す。
匂いを裂く風、足跡を攪む雪――イメージをひとつに束ね、指先で空気の綾を掴む。
「――来い」
エルの左手の甲――獅子の星痕に淡い光が甦る。
火はまだ怖い。
地はここでは掴めない。
鉄では、あの数は止められない――ならば。
(マリアさんの言う通り。“常識”で積むなら、次に手が届くのは……!)
マリア、魔導人形、そして黒い影。
いちばん見て、いちばん刻まれてしまった光景。
いまの自分がいちばん正確に想像できる魔法。
エルは二度、手を振った。
掌から解き放たれたのは、二対の風の刃――雪原を斜めに駆け、白を裂いて白を舞い上げる。
先頭の群れがベールに呑まれ、鼻と目を奪われる。
踏みしめていた雪の手応えを失い、爪が空を掴む。
速度の出ていた個体ほど体勢を崩し、次々と脚を取られて止まった。
「エル! それ――風じゃないか!」
オズが興奮に声を割る。
「すげえな……やるじゃねえか、坊主!」
イワンも手綱を緩めず、口角だけで笑った。
狼たちは合図ひとつでラインを保ち、白い乱流を横切らない。
御者の手と群れの鼻が、同じ図面をなぞっている。
ジゼルは目を細め、ただエルの挙動を追い続ける。
(この天候のおかげで、逆にはっきり見える……黒は混ざっていない。はず)
流量、立ち上がり、散り方。
放つまでの道筋を目で測り、頭の中で固定する。
(――この癖と圧なら、抑制具の形はきっと……)
彼が再び、全力で戦うために。
彼の魔力を縛る鎖を――どこまで細く、どれだけ緩く編めるか。
突風が背から抜け、雪煙が一気に刈られる。
白の幕が落ちると、群れは距離を取られていた。
まだ追う意志はある。だが、鼻が利かない時間が稼げた。
イワンが短く判断を告げる。
「このまま凍河沿いで押す。標柱まで、あと一息」
エルは小さく息を吐き、もう一度、掌を風へ差し出す。
雪と風を束ね、壁に変える。
ソリは薄明を切り裂いて進む。
狼鈴は鳴らない。鎖の音もない。
ただ、秤に乗った時間が、少しだけこちらへ傾いた。
その刹那――
エルの獅子の星痕が微かに脈打つ。
先ほど紡いだ風の綾に、ひと筋の“匂い”が乗った。
火でも鉄でもない、雪にも混じらない、星の匂い。
魔狼だけがそれを嗅いだ。
先頭の耳がぴんと立ち、次の瞬間そろって伏せられる。
尾が張り、爪が雪を噛み直す。
風の芯で、鈴に似た長い声が一度だけ鳴った――遠吠えではない、呼び鈴だ。
イワンの指が梶棒に沈む。
「……匂いが立った。――標柱まで、走るぞ」
白は静かに裂け、薄明はひときわ冷たい銀へ傾いた。
遠くで、神域が目を開けた気配がした。
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次回更新は10/1(水)20時頃の予定です!
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