第四章 第三節「それより先は“声”が聴こえる」
ザスターヴァは、壁と門と鈴の街だった。
高門に吊られた狼鈴が、尾根風に震えて低く鳴った。
魔狼を遠ざけ、人には安らぎを与える結界の響きは、この街を護る古き風習であった。
石畳には氷皮が薄く張り、路地には荷ソリの轍が幾筋も重なっていた。
三人は門内でいったん足を止め、短く打ち合わせた。
エル・オルレアンとジゼル・ブラウロットは交通手段の確保、オズワルド・ミラーは買い出しに回る。
「じゃ、日が傾く前にまた門前で合流しましょう。行くわよ、エル」
ジゼルが手早く段取りを決める。
オズは頷き、露店の並ぶ通りへ消えた。
防寒具、匂い消し、獣避け香、熱石、乾糧、薬――
銅貨を秤皿に落とすたび、針が中央で震え、店主が「足りるか?」と眼だけで問う。
一方、ジゼルとエルは取次所で情報を集める。
この地の交通網――狼走。
魔狼自体は他国でも稀に見られるが、群れを飼い慣らし、数頭立てでソリを曳かせる文化はローレシア独自のものだった。
「……飼うの?」
エルは目を瞬かせた。
魔獣に手綱を通す発想そのものがなかった。
ジゼルは肩をすくめる。
「そこが“中人の文化”よ。数が文化を作る。数で囲って、数で慣らして、道にする」
紹介状を書いてもらい、狼引きの家を一件、また一件と当たる。
だが目的地を告げるや、返ってくるのは決まり文句だった。
「馬鹿にしてんのか? 銀狼の棲み家を素通りして、生きて帰って来れるか」
ローレシア西部に棲む幻獣の一柱――銀狼アマルガム。
現地ではアルギス・ループスと呼ばれるその神威は、数十年前、“神域”として地図に刻まれて以来、帝国の三分の一を実質白地に変えてしまった。
今回目指すブラウロット鉱山は、広大なローレシアのほぼ中央にあたる。
本当に神域を横切るのかは分からない――それでも名を出した途端、誰も首を縦には振らない。
門前払い。扉が閉まる音が積もっていく。
紹介を重ね、残るは最後の一件。
郊外の、雪に半ば埋もれたボロ小屋だった。壁板は剥げ、屋根の狼鈴は片方が欠けている。
戸を叩くと、内側から低い唸り声――魔狼だ。
しばしののち、錠の音。
戸がわずかに開き、片目だけが覗いた。
「どちらさんで」
「ブラウロット行き。ソリを頼みたい」
ジゼルが一歩も引かずに告げる。
間。
やがて戸が大きく開き、鼻を刺す強い酒精の匂いが外へ溢れた。
「ブラウロット鉱山まで? ソリで? ……随分と酔狂な奴らがいるもんだな」
中年の男が、ビン酒を喉へ流し込みながら笑った。
外套は古く、毛皮の縁取りは擦り切れている。
だが手綱を握る指の節は太く、視線は酔いに濁らない。
「どうせ他の奴らには断られた口だろ?」
男は肩で魔狼を押しやり、隅の椅子を足で引いて座れと示した。
「いいぜ、その代わり運賃は弾んでもらうぜ? 狼が怖くて、狼引きなんてやってられっか」
男はにやりと笑った。
「分かったわ。もう一人、仲間がいるの。合流してからまた来るわ。――後で」
ジゼルが即座に返し、踵を返す。
エルは男に一礼だけして、その背を追った。
男はビン酒の最後の一滴を喉へ流し込み、肩で魔狼を押して戸を半ばまで閉じる。
「逃げるなら今のうちだぜ」と、独りごちる声が酒精に滲んだ。
* * *
再び戸を叩くと、内側で魔狼が短く唸り、ほどなく錠の音。
「早いな。逃げない口か」
男は新しいビン酒の封を切っていた。
「話を続けましょう」
ジゼルが一歩入る。
「条件を」
男はビンの口を拭い、指を三本立てた。
「ひとつ。出立は夜明け。鼻も足もいちばん利く。狼鈴がいちばん鈍る刻だ」
「ふたつ。河道取り。凍った川面を行く。匂いが残りにくい。丘越えの近道は使わない」
「みっつ。途中の標柱までだ……そこから先はあんたらが歩く。俺の領分はそこまで」
エルが眉を寄せる。
「……途中までって、どうして?」
男は目を細めた。
「それより先は“声”が聴こえる。銀狼の声さ。あんなもん酒で紛らわせても無理だ、耳が腐っちまう。俺は御免だぜ? ……まあ標柱からなら歩きゃ一日、そこまでは付き合ってやるよ」
「運賃は?」
ジゼルが重ねる。
「片道金貨五十枚。それに“牙代”、危険手当で二十枚。占めて七十枚ってとこだな」
「途中までで、そんなに……?」
エルが目を丸くする。
その様子を横目に男は続けた。
「それと前金で、半分は頂く……いいか、観光のお遊びとは比べてくれるなよ? これは生きるための値段だ」
言い切ってから、男は少し意地悪に笑う。
「払えないんだったら、丘回りで狐の巣でも見て帰るんだな。お前らみたいなお子様には、派手な毛皮の“観光用”がお似合いだぜ?」
ジゼルは目を閉じ、安い挑発を受け流した。
ちょうどその時、荷を抱えたオズが戸口に現れた。
鼻先で魔狼と鉢合わせて足が止まる。
「お、お邪魔しま――」
「通れ」
男が顎をしゃくると、魔狼は鼻を鳴らして身を引いた。
黄の眼はよく訓練された獣のものだ。
「揃ったわ」
ジゼルがオズに目配せする。
オズは荷を並べ、手短に指折る。
「防寒、匂い消し、獣避け香、熱石、乾糧、血止草に凍傷油。――これだけあれば、足りるかと」
男は品を流し見して頷いた。
「ほう、匂い消しは蒼樹粉か? ……上物だな、悪くない。ほれ、念書だ」
卓上に紙片を置く。
『狼走の道中における事故は不知』の文言が簡潔に並ぶ。
「読む。署名もできる」
オズがさらさらと三人分の名を書く。
「……イワンだ。イワン・ミローノフ。狼引きさ」
名乗りながら、イワンは棚から古びた木板を取り、墨で粗い行路図を描いた。
「ここがザスターヴァ、こっから西へ凍河沿い。ここが標柱。風が変わったら引き返す。その判断は俺がする。異議は受けねぇ」
三人とも真っすぐに首を振る。
イワンは奥へ声を掛け、背綱と鈴具を肩に下げて戻ってきた。
「匂い消しはここで振れ。狼に顔を覚えさせる。命令は俺だけが出す――いいな」
三人が匂い消しを指先に刷り込み、魔狼に掌を差し出す。
獣は一頭ずつ鼻を寄せ、短く息を嗅いだ。
牙は見せないが、眼はよく見ている。
外に出ると、風が凪いだ。
遠くで狼鈴がひとつ、乾いて鳴る。
「出立は夜明け。門の外のソリ場に来い。狼を“つなぐ”のはそこでやる」
イワンが締めくくる。
ジゼルは頷き、金貨を秤に落として前金を支払った。
針が中央で静かに止まる。
三人は戸口で振り返る。
イワンの小屋は貧相だが、手綱はよく手入れされ、鈴具は静かに光っていた。
観光ソリの艶やかな飾りはここにはない。
あるのは、昔の足の匂いだけ。
「――行くわよ」
ジゼルの声に、エルとオズが並ぶ。
白い街路は夕刻の色に沈みはじめていた。
鎖は揺れ、鈴は遠い。
夜明けまでの短い時間が、静かに彼らの胸に落とされた。
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