第三章 第十九節「四元の王」
オズワルド・ミラーは、精霊工芸の鞄の中から、小さな布束を取り出した。
それは紫の染みが斑に浮かんだ、厳重に封じられた包みだった。
結界を解き、中から現れた布を素早く裂く。
鼻を刺す薬草と油の匂いが、あたりに広がった。
「テオドール王子! これで……痛みは、抑えられるはずです」
破いた片方を、テオドール・デア=クライセンの肩に押し当てる。
右肩からはまだ血が流れていたが、鎧の隙間を伝うほどの勢いではない。
だが、肩口はごっそりと抉れていた。
骨さえ、視認できるほどに。
「……すまない。俺が、しくじった」
テオは、青ざめた顔のまま、うずくまることもせず前方を見据えていた。
視線の先には、黒い魔力を纏った異形の影。
光を吸い込むかのような黒の奔流のなかに、エル・オルレアンだった何かが立っていた。
「あれは……何なんだ?」
テオドールが絞り出すように呟く。
「……俺にも、分からない、です」
オズもまた、苦々しい表情を浮かべる。
「あれは、星が暴走しているのか……? だとしたら――」
続く言葉は、喉の奥で絡まり、落ちてこなかった。
こんなものは、今までに一度も見たことがない。
黒い影――その魔力は、まるで生き物のように波打っていた。
蠢くそれに引き寄せられるように、残された二本の指が軌道を変え、宙を駆ける影を追いはじめる。
「まさか……魔力の密度で空気が……歪んでる……?」
オズは目を見開いた。
「……いや、違う。あれは……“意志”を持って動いてる……?」
宙を舞う黒い影。
否――それは、もはや「エル」と呼んでよいのか、分からなかった。
機械魔神の指が、執拗に追尾を繰り返す。
だが黒い影は、重力すら無視するかのように宙を縫い、跳ね、滑り、飛翔する。
(……当たらない。いや、あれは――狙わせている……?)
少し距離を取った場所から様子を見守るオズは、知らぬ間に握りしめていた拳に気づく。
頬を伝う汗を感じながら、唇を噛みしめた。
「……完全に、制御されてる。“暴走”と呼んでいいのか、これは……?」
機械魔神が苛立ったように右腕を振り下ろす。
だが、重く鈍いその動きでは、黒い影の速さに到底追いつけなかった。
「速すぎる……この質量での一撃が、全く意味をなしていない……!」
一瞬、距離が開く――そのとき、黒い影が空中で静止した。
そして、二度、手を振る。
空間が裂ける音。
風が走る。
それは、あの旧型の魔導人形が放ってきた、鋭利な刃の風と同じだった。
「まさか……風の元素魔法? いや、そんなはずは……エルは、風なんて使えない……!」
オズが呟いた、その刹那――
鉄壁すら通さなかった黒鉄の指が、あっけなく、真っ二つに裂け落ちた。
* * *
「何なんだ、あれは……?」
アルブレヒトは、ジゼルの身体を無造作に放り捨てると、暗がりの奥で渦巻く“それ”に目を凝らした。
圧倒的な魔力量。
黒く染まった魔力の奔流が、周囲の空気を焼き焦がしているようだった。
あの少年――先ほどまで悲鳴を上げていたそれと、目の前のあれは、本当に同じ存在なのか。
否。
“何か”が変わっていた。
宙を舞う影が、機械魔神の指を正面から迎え撃つ。
二度、手を振る。
直後――刃が、走った。
それは風だ。風の魔法だ。
鋼鉄すら切り裂くような鋭利な一閃。
そして――黒鉄の指が、斬られた。
あり得ない速度で、真っ二つに。
「……機械魔神が……斬られた……?」
アルブレヒトは息を呑む。
狂気にも似た眼差しで、その現象を見つめた。
黒鉄の指は、エメトの装甲の中でも特に硬質な構造だ。
火も、雷も、剣すらも弾く。
「それを、中人の魔法ごときで……なぜ、なぜ斬れる……!」
理解を越えた。
想定の外だ。
設計図にも、法則にも、過去にも、どこにもこんな存在はなかった。
「くそっ……なんなんだ、お前は……!」
自らの胸中に広がる動揺を押し殺すように、アルブレヒトは無意識のうちに、その“異物”へと歩を進めていた。
理解しなければ。
破壊しなければ。
そうしなければ、自分の造り上げたすべてが、意味を失ってしまう――。
* * *
左手のすべての指を失った機械魔神が、怒声にも似た駆動音を発する。
巨躯が地を踏み鳴らし、地下工房の床が揺れる。
怒れる鉄塊の全質量が、ひとつの存在を――黒き影を――押し潰さんと迫ってくる。
黒い影は、微動だにせずに右手を掲げた。
――閃光。
空間を裂いて雷光が迸る。
紫電は奔流となり、黒鉄の巨体に絡みついた。
内部機構が焼かれたのか、一瞬だけ巨体がその場に硬直する。
そのわずかな間隙を逃さず、影は舞い降りる。
掌を、工房の床へと触れさせる――
次の瞬間、大地が呻く。
地中より隆起したのは、無数の大樹の根。
蠢く根は知性すら宿したかのように這い回り、機械魔神の四肢に絡みついた。
「……動きが止まった……!?」
オズにより壁際まで運ばれていたテオドールの呟きが漏れる。
重心を奪われた巨体は、軋みながら前のめりに崩れ落ちる。
そこへ追い打ちのように、地面を突き破って姿を現す――
幾本もの鉄の槍。
槍は容赦なく手足を貫き、機械の骨格を穿つ。
鈍い破砕音と共に、黒鉄の巨人の右膝が地に落ちた。
苦悶にも似た低周波の共鳴が、空間全体を震わせる。
そして、影は跳んだ。
空中を切り裂く軌跡を描きながら、機械魔神の頭上に舞い上がる。
掌が、再び振り上げられた。
だが――今度は、炎だった。
先ほどの火球など比べものにならない。
黒く、重く、渦巻く炎の球体。
まるで、深淵の底から引き出された呪いの塊のような魔力の奔流が、掌の上に収束する。
火球が撃ち出された。
それは、炸裂ではない。
熱が、破壊が、呪いが、圧し潰すように迫る。
黒き奔流は、機械魔神の頭部を包み、胴体を呑み込み――
そして、焼き尽くした。
機構が溶け、装甲が崩れ、関節が砕けていく。
かつてマリアが見せた、『神の火』と呼ばれた炎の再来。
だがそれは、より黒く、より凶暴に、より――制御不能に近い形で顕現していた。
全てを呑み込んだ炎の中で、機械魔神は断末魔のように呻きを上げる。
そして、静寂。
音は止み、空間が歪んだ、残骸の先――
怒れる小人は槌を構えて、勢いよく飛び掛かってきた。
「貴様何を!……何をしてくれたぁあああ!」
* * *
アルブレヒトが、崩れ落ちた黒鉄の巨人ではなく、その上に浮かぶ黒い影に目を奪われている――
その隙を縫うように、オズは走った。
「ジゼル! ジゼル、しっかりしろ!」
倒れ伏した小さな身体に膝をつくと、懐から治療布の残りをすべて取り出し、傷口へ押し当てる。
血に濡れた布を破り、震える手でひとつひとつ縫うようにあてがっていく。
「……ジゼル……! なあ、頼む、応えてくれ!」
そのとき、かすかに、指先が動いた。
そして、掠れる声。
「……痛ったい……叫ぶ、な……傷に、響く……」
「……!」
オズが顔を上げると、ジゼル・ブラウロットはうっすらと目を開いていた。
その双眸にはまだ苦悶の色が残るものの――確かに、生きていた。
「ジゼル……! 良かった……本当に……!」
「……つくづく、小人って……頑丈な身体してるわ……」
乾いた笑みを浮かべようとして、また顔をしかめる。
吐く息は細く、浅いが、それでも彼女の胸は上下していた。
「モジャ……戦況は……? アルブ……レヒトは……どうなった、の?」
わざとそのあだ名で呼ぶのは、気丈に振る舞うためか――
あるいは、自分が無事だと伝えたかったのか。
だが、そんな芝居が打てるほどの余裕はなかった。
唇は震え、声もかすれていた。
「それが……」
オズはジゼルの傍らにしゃがんだまま、ゆっくりと顔を上げる。
その視線の先を追うように、ジゼルも無理やり身体を起こそうとする。
「……なに、あれ……?」
視線の先――
黒き影が、アルブレヒトを弄ぶように翻弄していた。
まるで、舞うように。
まるで、嘲るように。
* * *
アルブレヒトの槌が、ついに黒い影を捉える。
思い切り振り抜かれた一打――それは、黒い影を粉々に砕いた。
だが、砕け散ったのは黒く染まった土人形。
それだけだった。
砕いても、砕いても、本物は現れない。
「何なんだ……何なんだ、貴様はッ!」
怒気と混乱が混じった叫び。
だが黒い影はそれに答えることなく、自らに似せた土人形を一体、また一体と生み出していく。
まるで、圧倒的な力の差を見せつけるように。
「……意味が、分からない……何がどうなってるんだ……?」
オズはその場に立ち尽くしていた。
目の前で起きているのは、現実とは思えぬ光景。
「最初に風を使ったかと思えば……雷、樹、鉄……それに火も」
「そして今、地まで……? 三つの元素魔法に、三つの複合魔法……?」
「……あれが……エルだっていうのか……?」
オズの目が揺れる。
まさか、という思いが頭をよぎる。だが、あの魔力の質……動きの癖……否定できない確信があった。
「……なに、あれ……?」
ジゼルもまた、苦痛を堪えて上半身を起こしていた。
目を凝らし、戦況を見つめ――息を呑む。
そこにあったのは、もはや戦闘とは言えなかった。
ただの、一方的な私刑だった。
「くっ……! また人形かッ!」
アルブレヒトの怒号が響く。
目の前に立つその影は、もはやこの世の理から逸脱した“何か”だった。
振り抜いた槌を再び構えたその時――
黒い影が現れた。
その掌に、小さな竜巻を躍らせている。
「な……っ!」
竜巻は目にも止まらぬ速さで放たれ、アルブレヒトを吹き飛ばす。
壁に激突するその身体――その瞬間、さらに追い打ちをかけるように津波のような奔流が襲いかかる。
「……ごほっ!」
呻きとともに、壁に打ちつけられ、崩れ落ちるアルブレヒト。
黒い影が、無言で歩を進める。
その歩みは、まるで死刑執行人のようだった。
「やめろ……や、やめろッ! この化物がぁあッ!」
かつて感じたことのない恐怖に、アルブレヒトが叫ぶ。
だが、黒き怪物は一切の情を見せず、ただ静かに距離を詰めていく。
そして――
黒い影の掌が、アルブレヒトの額にそっと触れた。
その瞬間、戦場全体が凍りついたかのように、冷気に包まれる。
次の刹那。
アルブレヒトの身体は、音もなく氷に閉ざされていた。
「……俺は、何を見ているんだ……?」
「四つ全ての元素魔法と複合魔法を……たった一人で……?」
オズが言葉を失う。
「アンタたちの常識なんて知らないけど……」
ジゼルが、息を切らせながらも言葉を続ける。
「私にだって……分かるわ。あれは……おかしい」
「でも……ゼロじゃない。だって、過去に一人だけいたでしょう?」
オズの瞳が大きく見開かれる。
「私でも知ってるわ……全ての元素を従えし、魔法の王。歴史上、この世界を拓いた勇者のみが辿り着いた到達点――それが」
――『四元の王』
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次回更新は9/13(土)20時頃の予定です!
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