第三章 第二節「茨姫の館」
霧の中を進むこと、どれほどの時間が経ったのか。
歩いているうちに、いつの間にか霧は薄れ、木々の間からやわらかな光が差し込んでいた。
「……開けてる?」
エル・オルレアンが小さくつぶやく。
森の奥に忽然と現れたのは、不自然なまでに広く、まるで誰かの手で整えられたような平坦な空間だった。
その中央には、年季の入った二階建ての洋館が佇んでいた。
外壁の一部には蔦が這い、ところどころに修繕の跡が見られるが、それでも確かな風格を保っている。
「……あれが、“おばあ”の家?」
「そう。ぼくたち、ここで暮らしてるの」
先導していたオルトが、にこりと振り返る。
洋館の前には手入れされた大きな庭が広がっていた。
その庭では、数人の子どもたちが思い思いに遊んでいる。
風の魔法で枯葉を宙に浮かせ、紙飛行機のように操る子。
水を噴き上げては歓声をあげる子。
地の魔法で小さな石の城を築き、そこに小さな人形たちを並べている子──
年齢も背格好もばらばらだが、どの子も生き生きと魔法を使っている。
オズワルド・ミラーが思わずつぶやいた。
「……ここでは普通に魔法を使っていいのか?」
「うん。だって、ここは『茨姫』だから」
ロスが当然のように言う。
「『茨姫』……?」
耳慣れないその響きに、エルが眉をひそめた、そのとき──
洋館の扉が音を立てて開いた。
「オルト、グリム、ロス……また森の外に出たのね?」
低く、しかしよく通る声。
現れたのは、眼鏡をかけた長身の女性だった。
髪を後ろで一つにまとめ、鋭い目元と白いエプロン付きの黒いワンピース。
その姿だけで空気がぴんと張り詰めるような緊張を孕んでいる。
「ま、マチルダだ……」
「どうする……?」
「ぼく、何も言ってないからね……!」
「オルトが行こうって言ったんだってば……!」
三人は口々に言い訳を並べ始めたが、マチルダはそれを無視するように、冷ややかな視線を一つだけ向けた。
「後で話は聞きます。まずは……」
視線がエルとオズへと向けられる。
「──ようこそ。迷いの森へ。あなたたちが、昨日の“訪問者”ですね」
敵意はないが、慎重に見極めるようなまなざし。
マチルダは静かに会釈し、言葉を続ける。
「館へどうぞ。ヒルデガルド様が、お目にかかりたいそうです」
エルとオズは顔を見合わせ、小さくうなずくと、古びた館──『茨姫』の扉をくぐった。
館の中は、外観の古さとは裏腹に驚くほど整っていた。
床はよく磨かれた木材。深紅の絨毯が廊下を真っ直ぐに走る。
壁には古代文字の刺繍が施されたタペストリー、どこか懐かしい薬草の香り──そして、室内には温かな魔力の気配が満ちていた。
マチルダに導かれ、一階の応接間へと通される。
丸テーブルの上には香草茶が用意されていた。
ほどなくして、奥の扉が音もなく開く。
「……まあ。久しぶりに、お客さまかしら」
現れたのは、白銀の髪を高く結い上げた、細身の老婦人。
無数の皺を刻んだ顔立ちに、深い湖のような眼差し──慈愛と威厳を兼ね備えた存在。
「こちらは、森で保護された方々です。源泉の調査任務中に迷い込んだとのこと」
マチルダが丁寧に頭を下げると、老婦人はふたりに目を向けて微笑む。
「……そう。あなたたちが、“外”から来たのね」
思わず立ち上がるエルとオズ。
「ぼ、僕は──エル・オルレアンと申します。魔法協会の……」
「あ、えっと、私はオズワルド・ミラーといって……」
老婦人は頷いた。
「ふふ、なるほど。“星”の子たちね。ようこそ、迷いの森へ。私は──」
“星”と言われた瞬間、二人ははっとして目を見合わせた。
確かに今、自分たちは“星”については何も言っていなかったはずだ。
ゆっくりと両手を広げる。
「この『茨姫』を預かる者、ヒルデガルド・ローゼンドルンと申します」
その名を聞いた瞬間、オズの顔色が変わった。
「……っ、まさか……!」
「ご存じだった? なら、話が早くて助かるわ。安心なさい。ここは、あなたたちを拒まない場所よ」
その後、温かいお茶を飲みながら、エルがぽつりと口を開く。
「ヒルデガルドさんは、星のことを知ってるの?」
「ええ。あれは私とアトラスと、ウルヴェインが見つけたものですから」
「……ほんとうに、実在してたんだ……」
オズが呟くように言ったあと、改まったように言葉を続ける。
「エル、この方はこの世界の“三賢”の一人。治癒魔法という系統を創始した大魔導師──つまり、世界史そのもののような存在だ」
「ふふ、よくお勉強してるのね。本当に」
ヒルデガルドはやわらかく目を細める。
「は、はい! 王国史で、ウルヴェイン大王と一緒に学びましたので……」
「ウルヴェイン……?」
エルが首をかしげると、オズが苦笑した。
「今からおよそ二百年前に、世界で初めての魔法師団『オルモアの樹』が設立された。その創設者の一人がヒルデガルド様で──もう一人が、アトラス様。そして三人目が、後に“ウルヴェイン大王”と呼ばれる、四代目の国王さ」
「二百年前!? 二百年前ってそんな昔なのに……それに、アトラスさん?」
エルはヒルデガルドをこっそりと見た。
今目の前にいるこのおばあさんが二百年前から生きている、そんなことを言われても、にわかには信じられなかった。
「エルお前……知らなすぎるぞ。アトラス様も神性がまだ残っていた時代に生まれた伝説の大魔導師だ。あの星見のじいさんが本人だなんて、普通は気づかないけどさ」
「そうだったんだ……」
「ふふ、ヒューマで私と同じ時代を生きているのは……アトラスと、もう一人くらいかしら」
「でもね、この世界には私たちより長生きな方もいるのよ。エルフの最長老なんて、西方世界と括られる前から生きているのよ」
「そうだったんですか」
と驚くオズの横で、エルは何かを思い出したように黙り込んだ。
──自身に流れるガレオン建国の祖、魔王を討った英雄の血。その一行に、エルフの大魔導師がいたということも──
エルは、その出自を語ることなく、話題を切り替えようと口を開いた。
「そういえば……魔導人形について、何かご存知ですか?」
ヒルデガルドは少し首を傾げた。
「さすがに最近の魔導器については、私の専門外ね。けれど……詳しい子なら一人、思い当たるわ」
そう言って、彼女は棚に並んだ写真立ての一つを手に取った。
歴代の卒業生たちの集合写真。中には、赤髪の少女や桃色の姉妹も写っており、エルは驚きを隠せなかった。
だが、ヒルデガルドが指差したのは、そのさらに前の一枚だった。
「この、青と銀を混ぜたような髪の子。ジゼル。あの子なら何かわかるかもしれないわ。しばらくのあいだ、ここでお手伝いをしていたの」
「いまは王都に住んでいるらしいから、私から手紙を書いてあげましょうね」
そう言って、ヒルデガルドは羊皮紙に筆を走らせ、手紙を書き終えると、部屋の隅の鳥籠から郵便鳥を取り出した。
「お願いね、ラファエル。王都のジゼルに届けてちょうだい」
郵便鳥は手紙をくくりつけたまま、軽やかに空へと舞い上がった。
「──返事が来るまで、ここに泊まっていきなさいな。あなたたち、きっと疲れているのでしょう?」
そう言いながら、ふと扉の方へ目線を向ける。
「……ねえ、そこに隠れてる子たち。聞き耳を立てていたのなら、入ってらっしゃい?」
驚いたように扉が少し揺れる。
「わ、わっ、見つかっちゃった……!」
「ロスのせいだよ!」
「ええ〜!?ぼく何も言ってない!」
三人は慌てて部屋に入ってくる。
ヒルデガルドはふたりに優しく微笑んだ。
「この子たちとも、少し遊んであげて。外から来たあなたたちと触れることで、きっと何かが変わるから」
エルとオズは、微笑みを返した。
──こうして、彼らの『茨姫』での静かな数日が始まった。
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