第一章 第二節「魔法とは何か」
霊峰の小屋で始まった、マリアとエルの初めての講義。
この節では、魔法の基本原理や相性、そして複合魔法の成り立ちに触れながら、
この世界の「魔法とは何か」が少しずつ明らかになっていきます。
星の力を持つとされる少年が、初めて魔法と向き合う場面です。
木の軋む音だけが、空間を満たしていた。
小屋の中は、ひどく静かだった。
古い修道院を改装した石と木の住居。
壁に立てかけられた杖、鉄製の書架、煮詰めた薬草の匂い。
すべてが、実用だけを追い求めて整えられている。
その一角。
炉の前に据えられた簡素な机の上に、一冊の本が開かれていた。
羊皮紙のページには、難解な図形と見慣れない文字で記された構文が書かれている。
マリア・クルスは椅子に腰を下ろし、焚き火の炎を見つめながら、静かに口を開いた。
赤みがかった桃色の三つ編み髪を右肩に垂らし、濃紺のローブを纏った女性。
深い緑の瞳はまっすぐで、どこか張り詰めた静けさを湛えている。
その佇まいは、まさに“魔女”と呼ぶにふさわしかった。
「魔法ってのはね、元素と意志の交差点みたいなものよ」
その声に、エル・オルレアンは小さく頷いた。
「私たちが扱うのは、空気中のマナ――“元素”と呼ばれる魔力の源を、意志の力で繋ぎとめて形にしたもの。火、地、水、風。この四つが、元素魔法の基本よ」
マリアはそう言いながら、手をかざす。
指先に、小さな焔がともる。
橙の光が、その横顔をわずかに照らした。
「……ちなみに、私が最初に覚えたのは“火”。次に“地”。最初に習得した元素魔法は、その人にとっての魔法適性――つまり、最も相性がいい魔法ってこと」
マリアは机の引き出しから、彩りの異なる四冊の本を取り出した。
赤、黄、青、緑――火、地、水、風に対応する本だ。
彼女はそれらを、机の上に菱形に並べた。
赤を基点に、隣に黄と緑、対角に青。
「そして、隣り合う元素だけが混ざり合い、――複合魔法となる。
火は風を纏って“雷”を起こし、
地は火に鍛えられ“鉄”と化す。
水は地を潤して“樹”を育み、
風は水を包んで“氷”へと昇華する。
四大元素の“調和の環”と呼ばれる、伝統的な組み合わせね」
エルは静かに尋ねた。
「……火と水とか、地と風といった組み合わせはない、ってことですか?」
マリアは口の端をわずかに上げて応じた。
「ないわ。少なくとも、今の魔法理論ではね。火と水は真っ向からぶつかり合って術式が成立しない。地と風も同じ――一つは重く、もう一つは軽い。混ざろうとすれば、どちらかが弾かれる」
彼女は赤い本に軽く触れながら、ふっと息をついた。
「でも、魔法ってのは“なんでもあり”でもあるの。理論外の現象なんて、この世界にはいっぱいあるのよ」
静かに語るその言葉の奥には、確かな熱が宿っていた。
マリアは赤い本に手を置いたまま、ゆっくりと言葉を継いだ。
「元素魔法をはじめとする一般的な魔法理論を体系化したのは、魔法協会よ。あそこは研究者気質の魔法使いが集まっていて、教会よりずっと合理的だった」
「……魔法教会じゃなかったんですか?」
「あら、教会は知ってるのね?」
「オリヴィアさんから教わりました、この国には魔法教会の大聖堂があるって」
「へぇ、オリヴィアがそこまで……そうね、違うのよ。教会は教会で、別の目的で魔法を広めていたわ。その前に」
そう言うと、マリアは今度は緑色の本を手に取った。
「これは触媒魔法――この魔導書や魔石といった媒体にあらかじめ術式を記憶させることで、魔法の素養さえあれば誰でも媒体に記憶された魔法を再現できる。元素魔法を覚える必要はない。必要なのは、適性と最低限の魔力だけ」
彼女は表紙をそっと撫で、何か短く呟いた。
次の瞬間、机の上にふわりと風が巻き起こる。
小さな旋風が、紙片をかすかに揺らした。
「風の魔法を記録した魔導書。私の魔法適性は火だから、これは再現できる」
マリアはそのまま、青い魔導書に持ち替えた。
同じように、表紙を撫でて呟いてみせる。
……しかし、何も起きなかった。
「こっちは水の魔導書。さっき言った通り、火と水は対極――私にとっては紙切れ同然よ」
エルはしばし沈黙しながら、青の本を見つめていた。
「じゃあ、魔導書って……誰が、どうして作ったんですか?」
マリアは、その問いに少しだけ目を細めた。
「教会よ。触媒魔法は、元々は魔法教会が作ったと言われている。目的は一つ――“信仰の布教”。魔法を使わせることで、“選ばれし使徒”として信者を取り込むため」
「……魔法を使えたら、神に選ばれたってことになる?」
「その理屈で、教会は多くの民衆に魔導書を配った。使えれば神の加護、使えなければ“信心が足りぬ”……信仰という名の物差しでね」
マリアは淡々と語るが、そこには軽い皮肉が混じっていた。
「でもね、今も残ってるってことは、それだけ便利ってことよ。道具としての魔法。覚えなくても、触れるだけで使える魔法。……ただ、星の魔法みたいな、記録すらできない魔法もある。教会も、協会も、未だに理解できていないものが、この世にはあるの」
一息おいてマリアはさらに続ける。
「そして、触媒魔法は誰でも使えるからこそ、大掛かりな魔法は使えない。もし、あなたがより強力でより精緻な術を求めるなら――最終的には“自分で元素を使役する”必要があるってことよ」
言葉の先で、彼女の視線が、エルの左手へと向けられる。
そこには、淡く光る【獅子の星痕】が、静かに揺れていた。
焚き火の火が、ぱちりと爆ぜた。
マリア・クルスは立ち上がり、机の前を空けると、炉の脇を指で示した。
「そこに立って。使えるんでしょ? 火の魔法」
エル・オルレアンは静かに頷いた。
足を進め、指定された位置に立つと、深く息を吸い込む。
彼は両手を前に掲げ、指先をそっと揃えた。
目を閉じ、意識を集中させる。 胸の奥――
熱の芯のようなものに触れるようにして、魔力を練り上げていく。
数秒後。
ふっと、空気が震えた。
エルの掌の間に、ぽうっと灯る火が現れる。
小さく、だが確かに揺らめく焔。
紅と橙が交じるその炎は、まるで彼の鼓動と同調するかのように、脈動していた。
マリアは沈黙のまま、目を細めてその様子を見つめた。
術式は安定している。力の流れに乱れもない。
熱量は初歩としては高め。形状も綺麗で、暴走の気配もない。
けれど――
「……火、ね。普通の火の元素魔法よ」
その口調は、評価というより診断に近かった。
「なら、少なくとも“星”ではない。……少なくとも、今は」
マリアはなおも見つめながら、わずかに眉をひそめる。
「ふーん……ねえ、本当に、『自由にやらせてた』だけ?」
エルが苦笑いをしながら首を傾げると、マリアは小さく溜息をついた。
「初歩の術式は、綺麗に整ってた。出力も乱れはない。……オリヴィア、絶対ちょっとは教え込んでるわね」
焔はやがて、エルの意志に応じてふっと消えた。
マリアは少しだけ目を伏せたまま、言葉を付け足す。
「でも……どこか引っかかる。形も熱も理想的なのに、何かが違う。“正しい火”を見たはずなのに、釈然としない感覚が残ってる」
彼女の視線が、エルの左手に移った。そこに浮かぶ、かすかに光る紋。
【獅子の星痕】――それは、ただの火とは違う何かを、確かに宿していた。
* * *
気づけば、窓の外が茜色に染まっていた。
いつの間にか陽は傾き、小屋の裏手に差し込む光が長く床を照らしている。
森の木々も赤く縁取られ、静かに揺れていた。
マリアは焚き火に薪をくべると、椅子に腰を下ろして軽く腕を組んだ。
「……だいぶ、時間を使ったわね」
エルも疲れたように肩を落としながら、正面に腰を下ろした。
「今日のところは、ここまで」
マリアは言葉を区切り、少し声を和らげた。
「明日からは、まず“火”の魔法を安定させる訓練から始めましょう。基礎を繰り返すのが一番の近道よ。あなたの魔力、出力はあるけど繊細さに欠ける」
エルは素直に頷いた。
「はい、お願いします」
その返事に、マリアは僅かに目を細めた。
どこか安堵したような、あるいは遠い記憶に触れたような表情だった。
「……しばらくは、この山で鍛えるわ。街に下りるのは、それから」
そう言って、マリアは椅子の背にもたれかかる。
秋の風が窓の隙間を抜け、魔女のローブの裾を揺らした。
星の力を宿す少年が、初めて魔法に触れた夜。
揺らめく火の奥に、まだ名もない“違和感”が確かに残されていました。
次回は、街に出る前のひととき──師と弟子の、静かな移動の物語をお届けします。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!