第二章 第六節「夜会に潜む影」
「──失礼いたします。当主」
銀のドレスの裾を揺らすウェンディのもとへ、黒衣の男が音もなく歩み寄ってきた。
姿勢は端正で、礼の所作も過不足がない。
その容貌は年嵩に見えたが、眼差しには曇りがなく、声もまた落ち着いている。
「……わかりました。ありがとう、リチャード」
ウェンディは耳打ちに短く応じると、ほんのわずかに表情を曇らせた。
だが、それを三人に悟らせぬよう、すぐに穏やかな笑みを取り戻して向き直る。
「そろそろ、失礼しなければなりません。……マリア・クルス様。ご指導の件、後日あらためて郵便鳥にてご連絡いたします」
「ええ、待ってるわ。あんまりかしこまらなくていいけど」
「……ありがとうございます」
ウェンディは静かに頭を下げ、リチャードと呼ばれる従者と共に人混みの向こうへと歩み去っていく。
その背にかかる銀糸は、灯のなかでかすかに揺れていた。
エルとマリアがそれを見送る傍ら、オズは隣の従者をちらと横目で見た。
(……何か、妙だな)
所作は完璧で、声も礼節を欠かさず、仕える者としての心得を体現している。だが──
(魔力の“残滓”が、ない)
人の身であれば、どんな魔法使いであれ、かすかな残滓が視えるはずだ。
それは元素の色でも、魔法の型でもいい。
だがこの男には、何もない。
(いや、ないんじゃない……“整いすぎてる”)
均一な魔力の膜のようなものが、全身を覆っている。
まるで造り物のように意図された均質性──オズの“目”が、そこでかすかに揺れた。
(……何か、おかしい。だが……)
言語化はできない。
だからこそ、彼はそのまま黙って様子を見ていた。
「……貴族も、大変だなあ」
誰ともなくこぼした言葉に、マリアが頷く。
「そうね。でも、覚悟を決めるなら──私は手を貸すわよ。どんな立場であれ、前を向く人間は嫌いじゃない」
その言葉に、エルはふとウェンディの背を思い返した。
年齢に似合わぬ重さをまといながら、それでも真っ直ぐに頭を下げた少女の姿を。
場の喧騒は続いている。
祝辞と笑声、楽の音と杯の音。
だが、三人の周囲にはほんの少しだけ、静けさが宿っていた。
杯を交わす者たちの笑い声と、魔力の灯が舞う宴の空間。
その片隅で、エルはふと視線を巡らせた。
煌びやかな衣装、銀の食器、浮遊する装飾。
──けれど、その中に、一瞬だけ、違和感があった。
(……今、仮面?)
貴族たちの群れのなかに、一際目立つ“何か”がいた──灰白の石のような仮面をつけた男の姿だ。
けれど、それはほんの一瞬だった。目を向け直したときには、すでに消えていた。
(見間違い、か……? でも)
妙なざらつきが、胸の内に残った。
「……エル?」
不意にオズが隣から声をかけた。
「……ううん。なんでもないよ。ちょっと、見間違えたかも」
エルは笑ってごまかすように言いながらも、その違和感を拭えずにいた。
仮面の男の姿も、気配ももうどこにもない。
けれど、なぜか“空気の揺らぎ”だけが、まだ残っているように思えてならなかった。
「やあ、皆さん──会は楽しんでいただけましたか?」
声をかけてきたのは、品のある淡茶の礼服を纏った青年だった。
振り向けば、そこには先ほど別れたはずのユーウェインがいた。
「殿下……!」
オズが立ち上がりかけるのを、ユーウェインが手で制した。
「どうか、そのままで。今日はお客としてお招きしたのですから」
「……お気遣い、痛み入ります」
マリアは肩をすくめながらも、どこか気だるげな笑みを浮かべていた。
「まあ、料理は美味しかったわ。雰囲気はちょっと華やかすぎたけど」
「お口に合ったのなら、何よりです」
ユーウェインは微笑みを返し、少し間をおいて続けた。
「あなたの試技、王宮でも話題になっていました。皆、目を見張るようだったと聞いています」
「……へえ。伝わるもんね、ああいうの」
「“本物の魔女が現れた”と、ある老魔導師が興奮していたとか。私も審査の記録を拝見しました。見事でしたよ」
「……お世辞にしては、上出来ね」
「いいえ、あれは本物の魔法でした」
そのまっすぐな言葉に、マリアはわずかに口元をほころばせた。
会話の端で、エルは再び会場を見回す。
──石の面。
あの異様な仮面の姿は、もう見えない。
(……気のせいだった、のか)
しかし、それでも胸の奥には、うっすらとしたざらつきが残っていた。
夜の光が静かに揺れている。
祝宴の喧騒はなおも続いていたが、その光の向こうに──確かに、何かがいたような気がしていた。
そして、夜は静かに、深まっていく。
晩餐会の余韻を残したまま、三人はガンドールへと戻ってきていた。
ユーウェインから渡された転送札は、往復の役目を燃えるゆっくりと灰になった。
夜の学術都市は、昼間の賑わいが嘘のような静寂に包まれている。
「そっちは宿、取ってるの?」
と尋ねたのはマリアだった。オズは少し頷き、肩を軽くすくめる。
「うん。馴染みの宿があるんだ」
「そう、なら良かったわ。私たちは協会が用意してくれた施設があるから、ここでお別れね」
マリアは少しだけ視線を逸らし、それからエルを振り返った。
「明日、時間があったらこの子に付き合ってやって。せっかくガンドールに来たんだし、小道具や消耗品、色々と見ておきたいものもあるでしょう?」
「……あ、うん。確かに、そろそろ備えが心細くなってきてるかも」
エルが素直に頷くと、オズも笑みを返した。
「いいね。明日、お昼前にでも? 中央広場の噴水で待ち合わせにしようか」
「うん、わかった」
約束を取り交わすと、三人はそれぞれの道へと歩き出した。
ガンドールの夜は澄んでいて、路地の合間から星がちらちらと覗いていた。
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次回更新は7/18(金)の20時頃となります!
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