第一章 第十七節「沈黙のなか、夜が明ける」
激闘の果てに、霧誘竜は討ち果たされた。
だが、倒れたのは竜だけではない。
命を削るように剣を振るった少年の物語は、いま束の間の沈黙を迎える。
静寂のなか、霧がゆっくりと消えていく。
残滓のように漂っていた魔素の匂いが、冷たい風にさらわれる。
どこまでも白く満ちていたそれは、まるで帳が引かれるように、徐々に町の輪郭を明らかにしていった。
倒れ伏した魔獣――『霧誘竜 ネブ・マラク』の骸は、いまや霧の中心で崩れ落ちたまま、動かない。
倒れていた少年が、微かに眉をひそめた。
「……ん……」
うっすらと開いた瞳に、日差しが差し込む。思わず目を細める。
視界の端に、動かないはずの自身の指先が映った。
指が震え、手が動く。――生きている。
「……エル……! 目、覚ましたのね!」
最初に声をかけたのは、ベアトリクスだった。
その声に導かれるように、エルはまぶたをもう一度持ち上げる。
ぼやけた視界の向こう、ベアトリクスの輪郭があった。
「……ベアト……リクス……?」
自分の声が、ひどく掠れている。
喉の奥に砂を詰め込んだような違和感があった。
ベアトリクスは小さく笑って頷くと、すぐにマリアとクローチェを呼んだ。
「マリアさん、クローチェさん! エルが、目を覚ましました!」
少し離れた建物の陰から、マリアとクローチェが姿を現す。
マリアの顔にあった強張りが、わずかに緩む。
「目は覚めたみたいね。でも、まだ無理はしないで」
マリアが膝をつき、エルの顔を覗き込んだ。
その眼差しには、戦場では見せなかった柔らかさがあった。
「ここは……俺、どうして……」
状況が掴めず、頭の奥が霞がかっている。
「あなたが倒したのよ、あの竜を」
マリアの言葉が、ゆっくりと脳に届く。 倒した――自分が? 本当に?
信じられない。
けれど、たしかにそこには霧誘竜の死骸があり、静まり返った町の気配があった。
「……そう、なんだ……」
小さく呟いたその瞬間、腹部に鋭い痛みが走った。
「ぐ……ッ!」
呻くように体を折る。火傷のような痛みが、いまだに腹を苛んでいた。
「まだ、動いちゃ駄目です」
ベアトリクスが背を支える。
マリアもすぐに視線をクローチェに向けていた。
クローチェ・クルスは、静かに頷いた。
「……霧は晴れたけど、エルの傷も酷いし……お願いできる?」
マリアの問いかけに、クローチェはふわりと微笑んで答える。
「もちろん。そのために私は、ここに来たんです」
静かに膝をついた彼女は、修道服の胸元に手を伸ばし、布の下から一つのロザリオを取り出した。
銀の輪に星形の小さな装飾が揺れるそれを、そっと手に包む。
「――星よ、癒しの光を、この地に」
クローチェの祈りとともに、足元に光の文様が浮かび上がる。
その中心から立ち昇った光は、柔らかい熱を孕みながら子羊の群れを形作った。
それは数を増し、やがて数十、数百と膨れ上がる。
幻のような羊たちはクローチェのもとを離れ、静かに町の各地へと散っていった。
その魔法の名は――【羊たちの沈黙】。
湖の町を包む、白羊宮の権能を有する、癒しの星魔法。
霊なる羊たちは、触れるだけで痛みを取り去り、呪いを解き、静かに傷を癒していく。
エルの腹部に走っていた火傷のような傷も、見る見るうちに癒えていく。
「……すごい。まるで奇跡みたい」
自身の傷が癒えていく様を見てそう呟くベアトリクス。
マリアもまた小さく頷いた。
町のあちこちから、呻きや嘆きが止む気配がある。人々の意識が戻りつつあるのだ。
羊たちはしばらく町を巡ったのち、徐々に光を失い、霧とともに消えていく。
その残滓すら残さず、まるで最初から幻だったかのように。
クローチェは祈りの姿勢のまま、ゆら、と身を傾けた。
「クローチェ!」とマリアが慌てて駆け寄るが、その前にエルが思わず手を伸ばす。
だが、マリアの方が早かった。
「……なに、クローチェに触ろうとしてたの? 早すぎない?」
「いや、そういうつもりじゃ……!」
慌てて弁明するエルに、マリアはわざとらしく目を細める。
「ふうん……まあ、今回は見逃してあげる」
そんなやりとりに、ベアトリクスがくすりと笑い、エルは顔を赤くする。
クローチェはマリアの腕の中で、かすかに息を整えながら囁く。
「ごめん、なさ……い……この魔法……使うと……」
クローチェの瞳は揺れて、瞼は重く、今にも閉じそうになる。
抱えられたまま、ほんの一瞬だけマリアを見つめる。
「夢を、見るの……変な……夢を……」
最後の言葉は、眠気に呑まれながら。
クローチェはすやすやと、まるで子供のような寝息を立てて眠りについた。
マリアは、優しくクローチェの髪を撫でて囁く。
「ありがとう、クローチェ。よく頑張ったわね」
そうして、クローチェを抱き留めたまま、何気ないふうに――だが確かに、視線をエルの左手へと落とす。
そこには、今もなお淡く光を帯びた【獅子の星痕】が、刻まれていた。
* * *
訓練場の片隅に、夕陽の残照が差し込んでいた。
アルマデナの街は、あれから数日を経て、静けさを取り戻している。
『リベルタ自由軍』の拠点では、若い兵士たちが声を張り上げて剣を振るっていた。
その列の中には、エルとベアトリクスの姿もある。
互いに呼吸を合わせながら剣を交え、時折笑みを交わすふたり。
その姿には、つい先日の激戦を越えた者だけが持つ確かな強さが宿っていた。
少し離れた庇の下、イエロ・フェルナンデスが小樽を傾けながら、その様子を見ていた。
隣に立つマリアは、腕を組みながら静かに訓練場を眺めている。
「ベアトリクス……あの子に“星”を使うなって言ったそうね」
ぽつりと呟いたマリアの言葉に、イエロは片眉を上げた。
「ああ、あいつの星は強力だ……が、その強さはあいつの魔力を限界まで喰うことで成り立つ。意志なんか関係なく、魔力が切れたらそれでおしまいだ。危なっかしいったらありゃしねえ」
「ふうん……普段はほとんど魔力を感じないのよね、まるで蓋でもされてるみたい。それが、星を纏おうとしただけで、ああなるってのは――理解ができないわ、全く」
「星なんて俺も分かっちゃいないさ。ただ、火急の場で使おうとした覚悟は大したもんだ。少しは殻を破っただろうよ」
イエロが口元をゆるめると、マリアは鋭いまなざしを返す。
「笑い事じゃないのよ。あの場で限界を迎えて倒れてたら……最悪死んでたわよ、あの子」
「……そうだな、すまなかった」
一拍置いて、マリアはぽつりと呟いた。
「……それでも、私には、エルの方がもっと理解が出来ない」
「地の元素魔法が使えないのに、火と地の複合魔法である“鉄”を成型したのよ? ……やっぱり、理屈じゃありえない」
「“できない”ことをやってのけた。……あいつの星が、そうさせたんだろうな」
「それに……そんな無茶苦茶がまかり通るのも、魔法って奴なんだろ?」
イエロの言葉に、マリアは黙って頷く。
彼女の脳裏には、エルの左手に浮かんだ【獅子の星痕】の光が焼きついていた。
沈黙のあと、イエロがふと思い出したように呟く。
「それにしても……霧誘竜、か。まさか伝承の化け物が本当に現れるとは思わなんだ」
「“金竜”も“銀狼”も現れたじゃない。あれだけの存在が実在したのなら、霧誘竜だって不思議じゃないわ」
「……じゃあ、“あれ”もいるのか。黒蛇」
イエロの視線が、わずかに遠くなる。
「星が騒げば、何かが目覚める。そういう風にできてるってことか」
マリアはその言葉に答えず、ただ視線を訓練場に戻す。
エルが軽く肩で息をしながら、ベアトリクスの剣を受けていた。
そこには確かに、昨日より強くなった何かがある。
夕陽が沈む空には、ぽつりと一つ、星が瞬いていた。
その光は、まだ小さく、儚い。
けれど確かに、暗い空の奥で――誰かを導くように瞬いていた。
こうして第一章は幕を下ろします。
仲間たちとの出会い、街に迫る脅威、そして星との邂逅。
すべては、ここから始まる“旅”の序章にすぎません。
次章、舞台は魔法使いたちの聖地――ヴィクトリア王国へ。
次回第二章は7/8からの予定となります、お楽しみに!




