第一章 第十六節「獅子の刃、届くとき」
火も、剣も、届かなかった。
それでも少年は立ち上がり、自らの限界を越えて“かたち”を創り出す。
選ばれた者としてではなく、戦う者として――
この一撃に、すべてを託して。
腐食性を帯びた触手が、地を裂く勢いで振り下ろされた。
エルは反射的に身をひねり、紙一重で直撃を逃れる。
だが、その瞬間――
「……ッ!」
振りかぶっていたはずの剣が、手の中でほどけるように溶け落ちた。
火の剣が、音もなく霧の奥へとほどけ、消えていく。
指先に残るのは、魔力の糸がぷつりと千切れた感触だけ。
(……もう、保てない!)
焦りよりも先に、背後から追撃の気配が滲んだ。
霧の奥、ぬらりと伸びてくる別の触手――湿った光沢を帯びたそれが、真横からエルの脇腹をえぐる。
「ッぐ、あああッ!」
肉が裂け、服が裂け、焼け付くような激痛が脳を貫いた。
腐食性の毒に濡れた刃が、皮膚を溶かし、腹部を無惨に爛れさせる。
吐き出すように漏れた声は、ただの痛みではなかった。
――届かない。どうしても届かない。
自分の魔力では、この竜にすら及ばないという、絶望の吐息だった。
(――僕の火じゃ、届かない……!)
「エル!」
ベアトリクスが短く息を呑み、一瞬だけ視線を送る。
刹那、その隙を霧誘竜は見逃さなかった。
「――ッ!」
音もなく迫る突き刺しの一撃。咄嗟に剣を構えるが、遅い。
腐食の毒が、鉄の刃を瞬時に蝕む。
ジュ、と音が滲むように響き、剣が根本から崩れる。
黒い滴が床を穿ち、次の一撃が迫る中――ベアトリクスは、剣の残骸を振り捨てた。
(駄目だ、このままじゃ――星を使うしか……ない!)
脈打つ心音。揺れる視界。
胸の奥、処女宮の星が微かに瞬く。
(……今の私で、どれだけ保てるか)
選びたくない覚悟が、身体の奥底でゆっくりと形を取り始めていた。
霧の帳の外、建物の影から土を踏むような足音が戻ってくる。
クローチェ・クルスは、複数の土人形を連れてマリアのもとへと戻ってきた。
「お姉ちゃん、これでこの辺りにいた人々は運び終わりました」
そう報告する彼女の表情には、いつもの穏やかさが戻りかけていた。
だが――
「よくやったわ、クローチェ。でも……今はまだ、終わってないの」
マリア・クルスの声音は、どこか冷たく張り詰めていた。
霧の奥――エルとベアトリクスのいる戦場から、火の気配が完全に途切れている。
「……あれが、今のエルの“火の剣”?」
かすかに唇を噛む。霧の奥で崩れた魔力の残滓が、か細く漂っていた。
「火や水のかたちを保つのは、簡単じゃない……まして、あの出力じゃなおさら」
それは称賛でも侮蔑でもなく、ただの現実だった。
エルの火は、確かに竜へ届いた。けれど――保てなかった。
ベアトリクスの剣もまた、毒に溶け落ちた。
エルは倒れ、ベアトリクスは剣を失い、秘めた“星の力”を解放しようとしている。
(……ここまでが、あの子たちの限界ね)
静かに呟いた、その刹那だった。
戦場の中心、霧の奥から、ひときわ鋭い魔力の奔流が立ち上る。
「これは……!」
マリアが反応するより早く、クローチェの顔が強張った。
「だめです、それ……夢で見ました。あの力を今ここで使うと――ベアトリクスさんが……!」
瞳が震えている。彼女が視た“未来”が、今、この場と重なっていた。
マリアは、迷わなかった。
クローチェの両脇にいた二体の土人形に素早く手を翳す。
二体の土人形は、命を失ったように崩れ、音もなく土へと還った。
「クローチェ、危なくなったら最後の一体を盾にして逃げなさい。あなたには、まだ仕事が残ってる」
マリアの眼差しが、霧の向こうを射抜く。
そして――立ち上がる気配に、彼女の目がわずかに見開かれた。
激痛に喘ぎながら、エルは地に膝をついていた。
焼けただれた腹部からは、じくじくと黒い液が滲んでいる。
それでも彼は、ゆっくりと――だが確かに、立ち上がった。
「……まだ、終わってない」
その呟きは、誰に向けたものでもない。
自分自身への誓いだった。
けれど――届いてほしい相手も、そこにいた。
「マリアさん! ……僕は、まだやれます」
「エル……あなた、下手したら死ぬわよ?」
「……大丈夫です、まだ!」
これだけの痛みを抱えてなお、エルの瞳には、まだ炎が宿っていた。
マリアは、一瞬――だが彼女にとっては、果てしなく長い逡巡の末に、頷いた。
「ベアトリクス……その力は――まだ使わないで」
「でも……」
声は震えていたが、その瞳は、もう曇っていなかった。
立ち上がるだけで、呼吸が荒くなる。
腹の傷は、目を背けたくなるほどの惨状だ。
それでも――ベアトリクスは唇を噛み締め、星の力の解放を止めた。
目の前の少年の覚悟を、これ以上――誰も、邪魔してはいけないと悟ったのだ。
(……火じゃ届かない。出力を上げても……それだけじゃ足りない)
思い出すのは、炎が霧に呑まれ、無力に消えていった感触。
そして、火の剣を握ったあの瞬間――確かに感じた、限界という壁。
(形は作れる。けど……燃える刃を保ち続けるだけの魔力が、僕にはまだない)
脳裏を過ぎるのは――マリアの戦いの姿だった。
山間の小屋での訓練、そしてあの小型竜との一撃。
火と地を重ね、鍛え抜くように生まれた、重く鋭い鉄の槍。
(……なら、“火”じゃない。“火”だけじゃない!)
エルは右手を前に差し出した。
震える腹を庇いながらも、静かに――だが確かに、魔力を集める。
ゆっくりと。
だが確かに、確かに。
“熱”ではなく、“重さ”が、指先に集まっていく。
揺らめかない。
燃え広がらない。
代わりに、鈍く硬質な輝きが、掌の内に線を成す。
(今の僕にできる――いちばん強いかたちを!)
剣が生まれた。
熱も炎も宿さない。
だがそれは確かに――彼が初めて生み落とした、“戦うための刃”だった。
次の瞬間、霧の奥から再び触手が迫る。
腐食を孕んだ、黒紫の鞭――毒をまとった刃が、音もなくエルを狙う。
だが、エルの右手にはもう、燃え散るだけの火ではなく、確かな重さを持つ鉄の剣があった。
「……行け……!」
声と同時に、刃を振るう。
鋼が鳴るような硬質な音とともに、迫る触手が真っ二つに裂けた。
黒い毒液が飛び散るが、鉄の剣はびくともせず、毒にも侵されない。
火の剣では届いても、一瞬で霧に呑まれた――けれど、この剣は違う。
熱はなくとも、残る。
形を失わず、確かに敵を断つ。
「……これなら、いける……!」
気づけば、震える声が漏れていた。
全身の血が沸き立つ。魔力が再び集まっていく。
その刹那――左の手の甲に、星を象った紋が、淡く光を帯びた。
【獅子の星痕】――その刻印が、静かに、けれど確かに輝きはじめていた。
霧の彼方。
エルの手に握られた“鉄の剣”を見て、マリアは目を細めた。
まだ火の資質しかないはずのエルが――火と地の複合魔法である鉄を、ここまでの純度で成型している。
その事実が、常識ではありえないと知っているからこそ、言葉が出なかった。
(地の元素魔法は、使えないはず。……なのに)
指先が、そっと宙をなぞる。
瞬間、魔力が収束し、空中に一本の剣が生まれる。
鍛え抜かれた鋼のように、鈍く、重く、鋭い剣――
それを霧の中へ向け、軽く投げた。
「ベアトリクス!」
声と同時に飛来した剣を、彼女は迷わず受け取った。
「これは……」
「とりあえずそれを使って。エルに道を、つくってあげて」
マリアの声は、いつになく真っすぐだった。
剣を手にしたベアトリクスは、一瞬だけ迷いを見せたが――すぐに頷く。
「……ええ、分かりました!」
星の波動は、もう沈静していた。
今の彼女は、ただの剣士として――戦場に立つ。
霧誘竜の触手が再び襲いかかる。
そのすべてを、ベアトリクスが切り払い、振り抜く。
鉄の剣は毒にも負けず、刃は折れず、霧の道を裂いていく。
「行ってください、エル!」
「……ありがとう!」
駆け出す。
濃密な霧の中に開かれた一本の道を、まっすぐに。
痛む腹を押さえ、ただ全力で走る。
霧誘竜の姿が見えた。
今にも咆哮しようとする、その口元へ――
「おおおおおっ!!」
渾身の一撃を振り抜く。
鉄の剣が竜の首筋を断ち切り、焼けるような叫びが霧の中に響いた。
続けざまに跳躍し、竜の頭部へ。
両手で剣を握り直し、振りかぶる。
「――これで、終わりだッ!!」
剣が、竜の頭に深々と突き立つ。
叫び声とともに、霧誘竜の巨体がのたうち回る。
残った触手すべてが、エルに向かって伸びてくる。
――もう、動けない。
迫りくる毒の刃を、ただ見つめながら。
それでもエルは、剣に込めた力を、最後まで手放さなかった。
だが――触手は、届かなかった。
霧誘竜のうなりが、静かに、苦しげに、消えていく。
その巨大な影が、音もなく地に崩れ落ちた。
……そして、少年の身体もまた、静かに崩れ落ちた。
熱も力も――すべてを、その一振りに託して。
鉄の剣を手に、ついに霧誘竜を討ち果たしたエル。
けれどその一撃は、すべてを削り尽くした力の結晶だった。
戦いの終わりとともに、彼の身体もまた地に伏す。
次回、第一章の最終節は7/5(土)20:00頃の更新予定です!
最後までお楽しみください!




