第一章 第十五節「届きうる力」
霧誘竜の圧倒的な再生力に、剣も魔法も通じない。
それでも、二人は諦めなかった。
わずかな手応えと、過去の記憶を頼りに――
新たな“かたち”が、戦場に火を灯す。
白濁した霧の帳の中、幾筋もの触手が蠢き、無秩序に襲いかかってくる。
それらは意志を持つかのように、速度も角度も長ささえ異なり、空間を無差別に蹂躙していた。
「はッ!」
ベアトリクスの斬撃が、霧の奥で閃光のように走る。
迫る一本の触手を断ち切る――が、すぐさま別の一本が唸りを上げて飛来し、さらに別の一本が影のように忍び寄る。
「……っ、きりがない……!」
冷たい霧が頬にまとわりつき、皮膚の奥を凍らせるようだった。
全てを斬り伏せるには、あまりにも数が多すぎる。
しかも、一度断ったはずの触手が、再び何事もなかったかのように霧の奥から姿を現す。
(再生している……?)
短く息を呑むベアトリクス。その刹那――
「ベアトリクス、右!」
エルの声が飛ぶ。
彼女は反射で膝を折り、跳ねるようにして身をかわす。
直後、空気を裂く轟音。
鋭利な触手が、ほんの数瞬前まで彼女がいた場所を抉り砕いた。
「ありがとう、助かりました……!」
「こちらこそ!」
エルもまた、火の魔力を凝縮し、火球を放つ。
だが――
「……え?」
放った火球は、霧の中を進むにつれ、光を奪われ、輪郭が溶けるように消えた。
二発、三発。火球の熱は、何かに吸い取られるようにして弾ける前に死んでいく。
「霧が……」
声が震えた。
魔法が届くよりも早く、冷たく湿った霧が熱を絡め取り、奪い尽くす。
この濃密な霧の層は、魔素で強化された分厚い壁だ。
どれだけの火力も、その前ではかすむ。
火は届かず。
斬撃は再生によって帳消しにされる。
ふたりの攻撃は、ひとつとして決定打にならない。
だが――
(それでも……!)
エルは荒い息を吐き、震える手を見つめる。
肺の奥に溜まった冷気を追い出すように、熱を絞り出す。
(一撃を、全力で、正確に……!)
脳裏をかすめるのは、かつての模擬戦。
火球では足りない。
もっと深く、もっと重い熱を。
「――っ!」
掌に込めた魔力が、熱を伴って脈打つ。
これまでよりも確かな炎。
周囲の霧を押し返し、空気が焼ける匂いを生む。
放たれた一撃が、触手の一本を貫き、焼き尽くした。
黒く焦げた断面――
霧の中から、同じ箇所の触手は現れない。
「……効いた?」
荒い息が白く揺れた。
胸の奥で、かすかに魔力が削られていく痛みを感じる。
それでも――
「よし……!」
小さく拳を握る。
再生しない。それはつまり、限界はある。
火力が、ある閾値を超えたとき、ようやく届くのだ。
だが、それは安い代償ではない。
肺の奥が焼かれるような、魔力が骨を削るような感覚。
(まだやれる……まだ……!)
「もう一度……焼き払う」
右手を再び構えたエルの瞳には、揺るぎない炎が宿っていた。
突き出された触手を、また一本、ベアトリクスは斬り落とした。
ぬらりとした手応えと共に、黒い体液が霧の中に弾ける。
だが、その達成感は一瞬で霧散する。
視界の端で、霧の奥から再び別の触手が滲み出すように生えてくる。
「埒が明かない……っ!」
珍しく声を荒げるベアトリクス。
湿った冷気が頬を撫で、切先を伝う体温を奪う。
呼吸が白く揺れ、心音が耳鳴りと混ざった。
魔力の流れはまだ淀みなく巡る。
斬撃の精度も乱れてはいない。
だが――根本を覆すだけの刃は、今の自分にはない。
(“星の力”……使うべきか)
喉奥に、かすかな熱と冷たさが同時に滲む。
今ここで使えば、確かに局面は変わるかもしれない。
だが、その先の代償も知っている。
脳裏に、あの光景が蘇った。
* * *
訓練場。
いつもよりも観客が多く、湿った空気に熱気が漂っていた。
星の力を持つ者同士の模擬戦。
相手は『剛剣』と呼ばれる男――イエロ・フェルナンデス。
「来い。手加減はしねえぞ」
「望むところです。」
返答と同時に、魔力が血管を駆け巡る。
瞬間、全身を覆うように魔力が形を成した。
透き通る白銀のプレートアーマー。
肩当てが光を跳ね返し、胸当てが熱を籠め、足元から溢れる魔力が空気を弾いた。
【星鎧アストレア】――
処女宮の権能を有する、ベアトリクスだけの魔導具。
星の魔力を纏えば、防御も速度も、全てが頂点に届くはずだった。
目にも留まらぬ速さで駆けた。
イエロの太刀をすり抜け、背後へ回り込み、鋭い連撃を叩き込む。
剣筋はこれまでで一番冴えていた。
「速ぇな……!」
翻弄し、翻弄される。
いつか追いつきたかった背中を、あと一歩で捉えられた気がした――だが。
限界は唐突に訪れた。
鎧が、輝きを失って消え去った。
刹那の空白。
魔力の糸がどこかで途切れ、脚がふらつく。
守りの要が剥がれ落ちる感覚が、全身を冷やした。
反撃の隙を作ったのは、自分自身だった。
「……っ!」
イエロの剣が振り下ろされる。
だが、刃は振り抜かれなかった。
ギリギリで止められた太刀の向こうで、イエロは小さく鼻を鳴らした。
「お前の星は強力だ。けど、これじゃあまだ使い物にならねえな」
あの言葉は、今も胸の奥で火種のようにくすぶっている。
(力はあったのに……でも、保てなかった。纏えない鎧はただの飾りだ。――それが、私の足りないところだ)
* * *
霧の中の戦場へ意識が引き戻される。
ベアトリクスの剣が、また一本の触手を断ち落とす。
だが、その達成感は、刃の感触が消えるより早く霧の奥に吸い込まれていった。
視界の端で、再び新たな触手が、ぬるりと生え始めていた。
「……やっぱり、まだ――」
言いかけた瞬間、霧誘竜の背から別の触手が跳ねた。
「……っ!」
咄嗟に身を翻し、紙一重で身を捻る。
だが、その直後。
斜め後方、死角から迫るもう一本。
(間に合わない――!)
心臓がひとつ脈打つ音が、戦場の全てを鈍くする。
「ベアトリクス!」
横から火球が弾け、迫る触手を熱で弾き飛ばす。
火の匂いが霧に溶け、焦げた湿気が頬をかすめる。
エルだった。
「っ……ありがとうございます……!」
息を吐き、振り返る。
心臓がまだ速く打つ。だが、視線はもう揺れなかった。
――私は、一人じゃない。
エルがいる。
後方にはマリアの気配がある。
クローチェも、その役目を果たしている。
「……星は、まだ使いません。今は――まだ」
呟くように宣言し、剣を握り直す。
再び、霧の中に複数の気配が動き出す。
(やれる……まだ、やれる)
息を荒げつつも、エルは立ち上がった。
先ほどの火球――触手の一本を確かに焼き切ったあの手応えが、まだ手の中に残っている。
(霧に負けないだけの火力……もっと深く……!)
火球では足りない。
もっと熱く、もっと形に――
脳裏に浮かぶのは、訓練場での稽古。
あの日、イエロに言われた言葉。
手に残る、あの剣の重み。
(借り物じゃない……自分の形に――!)
掌の奥で熱が線を取り始める。
熱が刃になる。刃が火を纏う。
皮膚が内側から焼かれるような痛みを伴って――それでも、恐怖はなかった。
燃える剣。魔力の刃。
「ベアトリクス、少しだけ……時間を稼いでくれ!」
「了解です!」
声に応じ、ベアトリクスが踏み込む。
触手の動きを読み、切り払い、飛沫を浴び、次を斬る。
エルは手にした火の剣を振り抜いた。
一閃――
紅の光が霧を裂き、触手を切断する。
焼け焦げる肉の匂いが立ち込め、黒い体液が蒸気と化した。
切り離された触手は、再生することなく地に沈んだ。
「……よし」
小さく息を吐き、エルは確信する。
火球では届かなかった熱が、刃となって貫く。
それが“正解”だと、身体の奥が告げていた。
「右から二本、来ます!」
「受けた!」
息を合わせる刃と刃。
エルの火の剣が軌跡を描き、ベアトリクスの刃が応じて連携する。
霧の中に、わずかな風が生まれたようだった。
だが――
(……嫌な気配)
残された数本の触手の色が、どす黒く染まっていく。
紫が滲み、粘液が垂れ落ち、先端が脈打つ。
一本が地面に触れた。
瞬間、ジュッという音と共に石が黒く溶け落ちる。
酸のような匂いが霧の中に広がり、息が詰まった。
腐食性の毒――。
ベアトリクスは僅かに目を見開き、言葉を吐き捨てるように叫んだ。
「エル、危険です! 避けて――!」
その声と同時に、腐食の触手がエルを狙って弾け飛んだ。
* * *
霧の帳の向こう側。
視界はほとんどない。それでも、マリアには“見えて”いた。
触手の動き。竜の咆哮。
エルの火球。ベアトリクスの剣閃。
彼らの立ち回りが、魔力のうねりとして空気を通じて届いてくる。
(あれは……火の剣?)
彼女の目がかすかに見開かれる。
(魔力で形を成した……? 今のエルが?)
例え、星の加護を受けた者であろうとも、魔力で“形”を縛るのは容易じゃないはずだ。
地や樹、鉄や氷――固体なら、魔力は形に留まりやすい。
でも、火や水は違う。奔放で、重さがない。
私だって火球や火柱は作るけど――剣なんて、一度も。
(火だけで――形を……?)
本来なら、剣は造るなら火と地の複合魔法で成す。
エルはまだ、火しか持たないのに――
足りないはずの“地”を飛び越えて、剣を編んだ。
理屈も道理も追いつかない。
何が起きているのか、私にも説明はできない。
(……何でもあり、ね)
思わず、胸の奥がわずかに熱を帯びる。
こんな理屈外の現象を目の当たりにするのは、久しぶりだ。
私の知っている魔法が、一瞬だけ無力になる――
そんな感覚に、ほんの少し、わくわくした。
(でも……ベアトリクス、あなたは?)
マリアの目が鋭さを増す。
霧の奥の彼女は、まだ星を使わない。
けれど、その剣筋にはわずかな迷いがある。
(……何があなたを止めているの?)
問いはまだ胸の奥にとどまる。
マリアはただ、静かに霧の向こうを見つめていた。
――ふたりの意志が、どこまで届くのか。
理屈を超えて、どこまで届いてしまうのか。
火の剣が霧を裂き、触手を断つ。
わずかに掴んだ勝機を手繰り寄せるエルとベアトリクス。
しかし、霧誘竜は腐食の牙をむき出しにし、戦いは新たな局面へ。
次回、第18節――決着の刻が迫ります。
次回は7/3(木)12:00頃の更新予定です!




