第七章 第十五節「面白いのはこれからだ」
「……もし、俺が」
絞り出すように、オズは言った。
その続きが、救いになるのか。
破滅になるのか。
自分でも、まだ分からなかった。
バフォメットは、ゆっくりと微笑んだ。
まるで最初から、この瞬間を待っていたかのように。
「オズワルド、私の左手を握れ。それで『契約』は交わされる」
山羊頭の悪魔が、静かに左手を差し出す。
黒い指先。
細く、長い。
その手は恐ろしい形をしているはずなのに、今は妙に穏やかで、救いのようにすら見えた。
「君は何も選ばなくていい」
バフォメットが囁く。
「もう苦しまなくていい。君が自分を差し出せば、それで済む。君の友人たちは助かる。君は、ただ贄になればいい」
贄。
その言葉に、左胸の印がまた灼けた。
熱い。
痛い。
それなのに、その熱に押されるように、オズの足は半歩だけ前へ出ていた。
【嘆きの涙】を握る手から、さらに力が抜ける。
盾の先端が石畳を擦り、乾いた音を立てた。
(俺が被れば……)
壁の向こうでは、エルとジゼルがまだ戦っている。
傷ついている。
苦しんでいる。
それを見ているだけしかできない自分が、ひどく惨めだった。
だったら、せめて。
せめて、自分一人で済むのなら。
「……っ」
喉が詰まる。
けれど、もう否定はできなかった。
自分は今、救われたがっている。
誰かを守るためという形で、自分を終わらせることに、甘えてしまいかけている。
バフォメットの左手が、さらに近づく。
「そうだ。それでいい、オズワルド」
声はやさしい。
やさしいまま、底なしに腐っていた。
「君は臆病だ。だからこそ、この形が似合う。誰かを見捨てる勇気もなく、自分で決める覚悟もなく、ただ自分を差し出して終わる――実に君らしい」
その言葉に、オズの肩がびくりと揺れた。
だが、否定の声は出ない。
悔しいほど、図星だった。
唇を噛む。
それでも視線は、差し出された左手から外せない。
握れば終わる。
全部終わる。
痛みも。
迷いも。
エルとジゼルが傷つくところを見続ける苦しさも。
その甘さに、指先が震えた。
ゆっくりと。
本当に、ゆっくりと。
オズの左手が、差し出された悪魔の左手へ伸びていく。
あと少し。
指先が触れれば、それで終わる。
終わるはずだった。
その時――壁が、脈打つように赤黒く揺れた。
「……っ」
オズの視線が、反射的にそちらへ吸い寄せられる。
映っていたのは、エルだった。
黒い影を前に、傷だらけの身体で、なおも立っている。
掌の火は小さい。
頼りない。
それでも消えていない。
『でも、お前は僕の全部じゃない』
恐怖を乗り越えて、意志を示したその声が、確かに胸の奥へ届いた。
次いで、反対側の壁。
ジゼルがいた。
紅髪の影と打ち合い、押し返され、なおも踏み込む。
速さも軽さも捨てず、それでもただ壊すためだけの斧にはならないまま、石床を掴んでいる。
『背負ってる物が違うのよ!!』
轟音。
黒い影の体勢が、初めて揺らぐ。
その瞬間だった。
バフォメットの視線が、ほんの一度だけ壁の像へ流れる。
だが、山羊頭の悪魔はすぐに何事もなかったかのように微笑みを戻した。
「気にする必要はない、オズワルド」
声はあくまで穏やかだった。
「君が今すべきことは、この左手を掴むことだけだ」
差し出された左手が、音もなく半歩ぶんだけ近づく。
「迷っているあいだにも、あちらは進んでいく。君の友人たちがどこまで持つかは、もう君にも分かるだろう?」
その声には責める色すらなかった。
ただ静かに、逃げ道を一つだけ示してくる。
「ならば、受け入れるんだ、オズワルド――それでようやく、君も少しは報われる」
「――」
オズの左手が、止まった。
エルは、自分を捨てていない。
ジゼルも、自分を削って空っぽになる方へは進んでいない。
怖いまま。
重いまま。
それでも、自分のままで立っている。
なのに自分だけが、何をしようとしていた。
(俺だけが……)
喉の奥が、ひどく苦くなる。
(俺だけが、消えることで済ませようとしてた)
助けたい。
守りたい。
それは本当だ。
けれど今、自分が差し出そうとしているものは、本当に“守ること”なのか。
違う。
それはただ、見捨てる勇気も、選ぶ責任も引き受けずに済む、一番甘い逃げ道だ。
「……違う、よな」
掠れた声が漏れた。
「どうした、オズワルド」
バフォメットの瞳が、わずかに細まる。
オズはなおも、差し出された左手を見ていた。
そこに触れれば、契約は交わされる。
何も選ばなくていい。
何も決めなくていい。
ただ、悪魔の望む形に自分を流し込めば済む。
その甘さに、まだ心のどこかは傾いていた。
だからこそ、気づけた。
「何も選ばなくていい、だって?」
オズはゆっくりと顔を上げる。
痛みで滲んだ視界の向こう、山羊頭の悪魔の笑みはなお穏やかだった。
「……ふざけるな」
その一言に、バフォメットの眉がぴくりと動く。
「自分を差し出すのだって、立派な選択だ。しかもそれは、お前にとって都合のいい選択だろ」
バフォメットは口元の笑みを崩さない。
だが、その沈黙だけで十分だった。
オズは足元に視線を落とす。
【嘆きの涙】。
欠けた山羊の意匠。
壊れたんじゃない。
解かれたのだ。
あの右手で。
「……そうか」
胸の奥で、何かが繋がる。
盾の山羊は溶けて、解けた。
だったら――左胸に刻まれたあの印も。
『紅蓮の葬者』――人馬宮の覚醒者が、あの日、オズへ刻みつけたもの。
実のところ、それ自体に魔法的な拘束力など何一つない。
オズを操る力も、命令に従わせる力もない。
ただ、オズを目印にするための印。
正確には、オズの傍にいる“獅子”と“蒼い月”の所在を辿るための、目印。
ただ、それだけのものだった。
だが、あの女の言葉は違った。
『山羊らしく、代わりに“贄”になってやれ』
その声と熱だけは、ずっと左胸に残っていた。
自分は山羊なのだと。
誰かの代わりに差し出されるべきものなのだと。
そう思わせ続けるための、形のない呪い。
それこそが、オズに刻まれた印の正体だった。
「オズワルド、落ち着いてよく聞くんだ」
バフォメットの声が、一段低くなる。
「選ばなかった君が、いま、ここで選ぶ――その選択で友人が救われるのなら、君に迷う理由があるかい?」
「……いや」
オズは息を吐いた。
左手を、ゆっくりと引く。
その代わりに――【嘆きの涙】を、足元へ放り捨てた。
甲高い金属音が石室へ響く。
「は……?」
その光景に、初めてはっきりと動揺を見せたのは、バフォメットの方だった。
盾を捨てた。
屈したからではない。
守ることを諦めたからでもない。
古い“山羊の形”を、ここで一度手放したのだ。
オズは一歩、前へ出る。
バフォメットの左手は取らない。
代わりに、その懐へ飛び込んだ。
「な――!」
悪魔が反応するより早く、オズは叫ぶ。
「お前の右手――それが溶かして、“解く”んだろ!」
次の瞬間、オズはバフォメットの右腕を掴むと、その右手を自らの左胸へ押し当てた。
じゅっ、と嫌な音がした。
まず衣服が溶ける。
次いで、その下の皮膚が焼けた。
「――ぁ、あ」
熱い。
いや、熱いなんてもんじゃない。
右手が触れた一点から、肉の奥まで何かが食い込んでくる。
ただ焼くんじゃない。
そこに刻まれた“形”を、無理やり剥がし取っていく。
赤黒い紋が、胸の上に浮かび上がった。
オズは歯を食いしばる。
「う……あ、ああああああああああッ!」
絶叫が石室を震わせる。
皮膚が爛れる。
肉の奥に刻まれたものが、無理やり引き剥がされる。
痛みもなく刻まれたはずの印が、今度は激痛と引き換えに、煙のようにほどけていく。
「オズワルド……! お前、何の真似を――!」
バフォメットが、たまらずオズの胸へ押し当てられていた右手を振りほどいた。
その声には、もう余裕はなかった。
理解が追いついていない。
なぜ、右手を触れさせたのか。
なぜ、こんなやり方を選んだのか。
悪魔をもってしても、分からない。
オズは数歩よろめき、左胸を押さえた。
焼け焦げた匂い。
裂けた衣服の下、赤黒く爛れた皮膚。
そして、その中心にあったはずの印だけが、綺麗に消えていた。
「はぁ……はぁ……」
痛い。
痛みで吐きそうだった。
膝も笑っている。
それでも、胸の奥の重さだけは、少しだけ軽くなっていた。
「か、感謝する……ぜ、バフォメット……!」
山羊頭の悪魔が、半歩退く。
「何を……言っている……?」
オズは苦痛に歪む顔のまま、口元だけで笑った。
「これで……俺に刻まれた印は……もう、消えた」
石室が、しんと静まる。
壁の向こうでは、エルが立っていた。
ジゼルも踏み込んでいた。
なら、自分も。
差し出されるためじゃない。
自分のまま、選ぶために。
オズはゆっくりと顔を上げる。
「はあ……はあ……やっと頭が回ってきた……」
掠れた声だった。
けれど、もう先ほどまでの揺らぎはない。
「お前の右手は“解く”。左手は“契る”」
バフォメットは答えない。
その沈黙だけで十分だった。
オズは、足元の【嘆きの涙】へ一度だけ視線を落とす。
欠けた山羊。
それでも、十字は残っている。
守る形そのものが消えたわけじゃない。
古い山羊の形が、一度解かれただけだ。
だったら、ここからは自分で決める。
どんな形で守るのか。
どんな条件で、何を差し出し、何を奪い返すのか。
「なら、さっきのは契約じゃない」
オズは、焼ける左胸を押さえながら、一歩前へ出た。
「ただの服従だ」
バフォメットの穏やかな笑みが、完全に消える。
「……面白いことを言う」
「まだだ。面白いのはこれからだ」
オズは、痛みに歪みながらも笑った。
そして、左手をゆっくりと伸ばした。
「バフォメット――俺と『契約』しろよ」




