第一章 第十一節「霧、深く」
訓練を終えた少年に訪れた、初めての実戦。
舞台は、湖と霧の町カルロ・ダ・ルス。
冬の観光地を覆う霧は、いつしか人を喰らい、町ごと沈めていく――
魔法使いとしての“責任”と“判断”を問われながら、エルは初めての一歩を踏み出す
リベルタ自由国家連邦・東部――カルロ・ダ・ルス。
町の半分を湖が占めるこの町は、冬には白い霧に包まれる。
リベルタでも屈指の観光地であり、幻想的な景観で知られていた。
夜明けとともに町を覆う白い帳は、朝市の呼び声とともに少しずつ晴れていく
――はずだった。
朝を迎えても霧は晴れず。
昼を過ぎても太陽の輪郭はぼやけたまま。
夕刻になっても、白い濃霧は一層深くなるばかりだった。
最初に消えたのは、仕事に出た男だった。
次に、買い物へ出た妻が戻らない。
子どもも、老人も、店主に観光客までも――
一人、また一人と姿を見せなくなった。
「霧が深いだけだろう」
最初は皆、そう思っていた。
だが、夕刻の鐘が鳴る頃には、広場に残された数人の目に恐怖の色が宿っていた。
空気が異様に重い。息が詰まる。
どこかで聞こえる水音すら、まるで幻のように遠く、輪郭がない。
リベルタ唯一の魔術師団にして、自警団の役割も担う『リベルタ自由軍』には、断続的に救援の依頼が届いていた。
状況の深刻さはすぐに共有された。
師団本部では対応に追われる声が飛び交っていた。
しかしこの時、ギルドマスターである団長は不在。
副団長であるイエロ・フェルナンデスも、政務や、まだ人々の記憶には新しい恐怖――“金竜”への警戒体制の維持から中枢を離れることができない状況だった。
だからこそ、この町へと派遣されたのは――
山間に隠れる“魔女”とその弟子だった。
* * *
深い霧に包まれた町の外縁部に、四つの影が現れる。
マリア・クルス。
エル・オルレアン。
ベアトリクス。
クローチェ・クルス。
白い霧に沈む町を前にして、マリアが足元の空間に指を走らせる。
淡く光る魔法陣が足場の霧を払い、視界を確保する。
「……ここからは先陣を切りなさい、エル」
その言葉に、エルは目を見開いた。
「え?」
「私は後ろで見てるわ。あなたがどう動くか、どう判断するか――ここではそれを確かめに来たの」
そう言ったマリアの表情には、微笑とも緊張ともつかない気配が宿っていた。
* * *
「……任せすぎだと思うけどな」
その声は、記憶の中のものだった。イエロ・フェルナンデス。
数日前、マリアが彼と交わした会話の記録だ。
「だったら、あの子を貸して。ベアトリクス。あなたも、彼女に経験を積ませたかったんでしょう?」
「……読まれてるな。いいだろう。ただし、本当にまずい時は、手を貸してやれ」
「もちろんよ。緊急時には、ね」
そんなやり取りの後、マリアは魔法教会にも赴いていた。
クローチェ・クルス――治癒魔法を専門とする、自らの妹に会うために。
教会の書庫室で、マリアは事態の概要を告げた。
「睡眠を誘う霧……精神操作や状態異常の禁呪に近い効果の可能性があるわね」
いつになく真面目な表情で言う姉に、クローチェはしばし思案したのち、頷いた。
「……それでも、ある程度なら対応できると思います。 もし本当に“お姉ちゃんの言う通り”だったとしても――魔素の影響を抑えれば、眠りの深度は浅く保てます」
「なるほどね、魔素……うん、大丈夫」
マリアは短く納得すると、急に声の調子を変える。
「ありがとう、クローチェ! 参考になったわ、さすが私の愛しき妹!」
勢いよく立ち上がると、そのまま踵を返して出ていこうとする。
「――お姉ちゃん、私も行きます」
その背に、クローチェの静かな声が届いた。
「……ダメよ」
振り返りざま、マリアは即答する。
「まだ霧の中には、生きてる人がいるかもしれません」
クローチェは真っ直ぐな声で言う。
「だったら、私がそこにいたほうがいいに決まってます」
マリアは黙ったまま、妹の目を見つめる。
逃げるようなそぶりは一切ない。
「それに、もし危ない目にあったとしても……」
クローチェは柔らかく微笑んだ。
「お姉ちゃんが絶対助けてくれますものね?」
しばしの沈黙のあと、マリアは深くため息をついた。
「……分かった。教会に掛け合ってみる」
* * *
現在――霧に包まれた湖の町。
「さあ、踏み出しなさい」
マリアが、静かに背を押すように言った。
「今のあなたが、何を見て、何を信じるか――それを教えて」
エルは小さく頷き、剣の柄に手をかける。
そして、一歩、霧の中へと踏み出した。
その後ろには、無言で歩き出すベアトリクスの姿。
そして、マリアと並んで歩くクローチェの姿があった。
四つの足音が、白い帳に吸い込まれていく。
夜が、深まっていく。
第一章もいよいよ終盤に入ります。
今回は訓練から実戦への転換、そして「どう動くか」を問われる立場にエルが立つ回でした。
次回はついに、この霧の正体と向き合うことに――
“魔獣”という存在が何を意味するのか、どうぞ引き続きお付き合いください。
次回は6/25(水)6:00頃の更新予定です!




