第六章 第五節「ようこそ、ここが俺の故郷」
穏やかな春風を魔法の帆に受けて、サン・リュシアン発の定期船は、蒼茫海を滑るように進んでいた。
帆布の緑に、風の術式が走っていた。
風は穏やかなのに、船足だけは一定の速さを保っている。
緩やかな波が船腹を撫でるたび、甲板に伝わる振動もどこか心地よかった。
(思ったより、揺れないんだな)
エルは甲板の手すりに寄りかかり、どこまでも続く青を眺めていた。
やがて、前方に薄い陸影が現れる。
最初は一本の線だったそれが、次第に無数の帆とマストの森へと姿を変えていった。
巨大な外洋船。
軍旗を掲げた軍艦。
いくつもの檻だけが重なった、獣の運搬船。
尖った船首を持つ高速艇に、優雅な客船まで。
どの桟橋にも既に別の船が繋がれていて、その外側にさらに横付けされている。
そのせいで、港そのものが一つの巨大な船の街みたいに見えた。
甲板の上からでも、船員たちの怒鳴り声、荷役の指示、鐘の音、角笛の低い響きが入り混じって聞こえてくる。
空には海鳥が群れを成し、岸辺では貨物用の魔導クレーンが忙しなく腕を折り畳み、荷を吊り上げていた。
港だけを見れば、「最大の港湾」という言葉にも納得がいく喧騒そのものだった。
けれど――
その喧噪の向こう側に広がる街並みは、別の意味で異様だった。
波止場の奥、緩やかな斜面に沿って並ぶ建物は、一様に真っ白だった。
壁も、柱も、階段も、バルコニーの欄干も。
装飾の彫りだけを残して、上から石灰でも流し込んだように、淡い陰影を残した白一色で塗り固められている。
屋根すら薄い石板の白で揃えられていて、ところどころ金属の装飾がきらりと光る以外、ほとんど色がない。
(……真っ白だ)
陽光に照らされて、街全体が眩しく光っていた。
船と人と声でごった返す港湾の喧騒と、その上に貼り付いたような白い街との対比が、かえって不気味なほどだった。
そして――
「見えてきたな。ここがスワンポート。ヨークランドの“白い鳥籠”だ」
船が桟橋に横付けされ、縄が投げられ、きしりとした音と共に動きが止まる。
オズが、誰よりも先にタラップを降りながら振り返った。
故郷ヴィクトリアへの帰還に、どこか晴れ晴れとした表情を浮かべている。
「……なんか、“静かな街”に見えるね」
エルもタラップを降りながら、斜面の白い街並みを見上げた。
「はあ? どこが静かなのよ。うるさいったらないじゃない」
後ろから、妙にしおれた声が落ちてきた。
「大丈夫、ジゼル?」
「……私は船なんか、二度と乗らないわよ」
いつもの荒々しさが嘘のように、ジゼルは欄干に片手をつきながら、慎重に一歩ずつタラップを降りてくる。
顔色も、わずかに青い。
エルが慌てて手を伸ばすと、ジゼルはその手を掴みつつ、恨みがましい目でオズをにらんだ。
「“四時間くらい”とか軽く言ってたけどね、アンタ。延々揺られてたじゃない……」
「いやいや、これでも今日は“穏やかな方”なんだって。船頭が言ってたろ?」
オズはケロッとした顔で肩をすくめる。
「潮の機嫌が悪いときゃ、もっと揺れるらしいぜ。今日は“初心者向け”だとよ」
「初心者向けでこれ……? なら、荒れた日は地獄じゃない」
ジゼルは最後の一段を降り立った瞬間、その場でぺたんと座り込んだ。
「はあ……固い地面って、素晴らしいわ……」
「そこまで言う?」
エルは思わず笑ってしまう。
* * *
入島の手続きを終え、三人は港から伸びる大通りを歩いていた。
すぐそばの倉庫群には、女性と帆船を象った紋章旗がいくつもはためいている。
白地に王冠と船をあしらったその意匠も、やはり眩しいほど白かった。
まだ船酔いが尾を引いているのか、それともこの白い街に滅入っているのか。
下を向いたままのジゼルを気遣いながら、エルはオズに尋ねた。
「あの紋章は……?」
「クイーン・マーガレット海運。この街を牛耳る五大貴族――“海運王”イェボン・ヨークランドがやってる商社だな」
「貴族……」
エルの表情が一瞬曇る。
この国ヴィクトリア、そして貴族という言葉――
ウェンディ・ウィンクラウンの姿をどうしても思い出してしまう。
オズは白い街並みを顎で示した。
「この一帯はヨークランドの領地になったんだ。見えてる建物、ほとんど全部、イェボンの持ち物みたいなもんだよ」
「そんなにすごい人なんだ、その……イェボンって人は?」
「まあな。一代で大貴族の仲間入りするくらいの実績を作り上げた天才商人で、いつの間にか海運業も手中にしていた……貴族制度がいまだ残るこの国じゃ、その人間性も含めて、極めて異例中の異例の存在だよ」
言いながら、オズの表情が少し苦くなる。
「で、白は“清廉さと管理の象徴”だとか何とか言って、この街を塗り替えたんだ。俺が物心ついた頃は、もっと普通の港町だったんだけどな」
「……趣味悪いわね」
後方からジゼルがぼそりと呟いた。
「ここまで徹底されると、逆に汚したくなるわ」
まだ万全ではなさそうだが、毒舌が戻ってきているあたり、少しは回復してきたらしい。
白い壁、白い階段、白い回廊。
港の喧噪を背に、均質すぎる街並みを抜けていくと、どこか胸の奥がひやりとするような居心地の悪さがあった。
やがて大通りは緩やかな坂を上りきり、その先で二手に分かれる。
一方は、さらに内陸の丘のほうへ伸びる街道。
もう一方は、なだらかな尾根づたいに沿って、西へと続いていた。
「さて、こっちだ」
オズが迷いなく、西へ伸びる道を選ぶ。
「……多分、先にこのスワンポートの白を見てるから、余計に驚くと思うぜ」
「どういう意味?」
エルの問いに、オズはニヤリと笑っただけだった。
いつもより大股なオズを、エルとジゼルは並んで追っていく。
* * *
スワンポートの白い街並みを背に、尾根づたいの道を小一時間ほど歩いただろうか。
左手には断崖と海が続き、陽光を受けた蒼茫海がきらきらと瞬いている。
右手には、起伏の穏やかな丘陵地帯が広がっていた。
やがて、道はゆるやかに下り、前方の視界がふいに開ける。
「……何、あれ」
ジゼルが思わず足を止めた。
その手には路面店で購入した串焼きが一本。
何でも、船旅に耐えたご褒美らしい。
眼下に広がっていたのは、スワンポートとはまるで別世界のような都市だった。
丘を削って築かれた巨大な盆地状の窪地一面に、建物と看板と灯りがびっしりと詰め込まれている。
石壁の上には色とりどりの布看板が揺れ、建物の屋根には魔導式の光看板が据え付けられていた。
昼間だというのに、魔力を帯びた文字や絵が、淡く脈打つように瞬いている。
中には、翼を広げた小型竜のシルエットが、延々と空を駆け抜け続ける看板もあった。
「……うっるさい、ここ」
さっきまで“白い鳥籠”の中を歩いていたせいで、なおさら色と音の洪水がきつく感じられた。
自身の口よりも大きい肉の塊を頬張りながら、ジゼルが率直な感想を漏らす。
「お前酔ってたんじゃないのか?」
オズが呆れるように言うと、「肉食べたら治るでしょ」と何故か自慢げなジゼル。
エルも、そのスワンポートとの“温度差”に、目が回りそうになっていた。
風に乗って届くのは、人と酒と香辛料の匂い。
さらにその奥から、悲喜こもごもの大歓声と、風を切るような甲高い何かの鳴き声が、断続的に響いてきた。
「何の音……?」
エルが思わず耳を澄ませる。
「ワイバーンレーシング――略してWR。ここいらじゃ、知らない奴はいないさ」
オズが肩をすくめる。
エルが思い出したように言う。
「ああ、イワンさんが言ってた……! 小型竜が空飛ぶんだっけ?」
「厳密に言うとな、WRは競走用の小型竜に騎手が跨って、空を駆け抜ける競技だ。それでもって、あそこにあんのは、世界最大の競技場だな」
盆地のさらに奥、ひときわ大きな楕円形の建造物が目に入る。
外壁の側面には、堂々とした巨大な文字で『ベンウィック・サーキット』と刻まれていた。
「で、あそこに集まる連中相手に、酒と宿と賭場と――まあ、色々売る街が、その手前にくっついてる」
オズの説明通り、盆地の入口付近には、酒場や娯楽施設らしき建物が密集している。
派手な意匠のバルコニーからは音楽と笑い声が溢れ、昼間から客を呼び込む声が飛び交っていた。
坂道をさらに下ると、やがて石で組まれた巨大なアーチ門が彼らの前に立ちはだかる。
門の上には、金属と魔導灯で象られた巨大な看板が掲げられていた。
「すごいね……今まで見たどの都市よりも……何というか」
エルは、色と光に埋め尽くされた門の上を見上げながら、言葉を探した。
「品がないわ」
ジゼルが、きっぱりと言い切る。
「そりゃ、ここはヴィクトリア最大の歓楽街でもあるからな」
オズはその言葉にどこか誇らしげに笑った。
「ようこそ、ここが俺の故郷――熱狂と興奮の街、ベンウィックだ」
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