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亡国のステラリア  作者: 黒瀬 行杜
第六章
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第六章 第四節「言えねえよな」

朝。

清々しい朝だった。


二段ベッドの上段で、エルはゆっくりと身体を起こした。

小さく伸びをすると、木枠がきしりと鳴る。


窓から差し込む光は柔らかく、昨夜の疲れをふっと溶かしていくようだった。


(……そういえば)


ふと、胸の奥で何かが引っかかる。


中央平原で、竜使いの魔女ワシリーサと別れてから――

あの黒い夢を、ぱったりと見なくなっていた。


起きるたびに、記憶にぽっかり穴が空いたようになるあの悪夢。

眠るたび、肺の奥まで冷たくなる、あの感覚。


ここしばらく、それがない。


(今思うと……あのときのこと、分からないことだらけだ)


ワシリーサが消えた朝を思い返す。


本当に、老竜スレイヴァンと喧嘩して、あの傷を負っただけなのか。

あの森の外れで、どうして自分はひとり倒れていたのか。


記憶はところどころ霧がかかったように曖昧で、手を伸ばしても掴めない。


(一度立ち止まって、ちゃんと考えなきゃいけないのかもしれない)


そう思う一方で――

エルの脳裏には、最後に見たワシリーサの笑顔が浮かぶ。


消える寸前だというのに、彼女はむしろ、こちらを安心させるように笑っていた。

あの笑顔に、どれほど救われたことか。


(あのときもらったものにも、ちゃんと報いなきゃ)


エルはベッドから降りると、窓辺に立った。

この街を照らす陽光を、まっすぐに見つめる。


穏やかな光は、瓦礫の村々にも、焼けた平原にも、等しく降り注いでいるのだろう。


(ワシリーサさんにも、ガレオンにも、恥ずかしくないように――)


胸の内で、小さく決意を固めた。


簡単に身なりを整えると、エルはそっと扉を開けて部屋を出る。


***


二段ベッドの下段で、オズは布団に寝転んだまま、微かな物音に耳を澄ませていた。


上の段から、軋む音。

やがて梯子を伝う気配と、床板を踏む足音。


(……起きたな)


エルが窓際で一度立ち止まり、それから部屋を出ていくまでの一連の動きを、目を閉じたまま感じ取る。


実際のところ、オズはとうに目が覚めていた。

ただ、身体を起こす気にはなれず、天井をにらむようにして横になっていたのだ。


(誰にも打ち明けられないってのは……思ってた以上に、きついな)


胸の奥で、重たいものがじわりと広がる。


エルにも、ジゼルにも。


(……クソ、何であいつは俺にだけ)


脳裏に浮かぶのは、炎をまとうような髪をした女――オリヴィア・スカーレットの姿。


あのとき彼女に刻まれた“印”は、未だに消えない。

身体の奥底に、熱とも冷たさともつかない違和感として居座り続けている。


『今夜のことは、くれぐれも口を滑らすなよ? 私に“弓”を引かせるな』


彼女の言葉が頭の中で響く。

ただひとつ確かなのは――その“印”の効き目が、想像以上に“絶大”だということだけだ。


(言えねえよな……こんなもん)


苦笑が、喉の奥でひっそりとこぼれた。


窓から差し込む朝の光が、ベッドの縁を白く縁取っている。

埃の粒がきらきらと舞うのを眺めながら、オズはぼんやりと目を細めた。


(この光がさ――印ごと、全部洗い流してくれりゃいいのによ)


叶わない願いだと分かっていながら、そんなことを思ってしまう自分がおかしくて、また小さく笑った。


笑いながらも、その胸の奥には、誰にも見せない影が、確かに根を張っていた。


* * *


ジゼルの部屋は、エルとオズの部屋の上階に用意されていた。

街を形作る建物は背が低く、この部屋の窓からは海がよく見えた。


「……朝、ね」


窓辺から差し込む陽の光を、恨めしそうに睨みながらジゼルは起き上がった。


朝日を受けた蒼茫海は光を反射し、青々とした輝きを放っている。

海そのものは、もちろん見たことがある。


けれど――“乗る”のは違う。

海の上に身を預けるのは、初めてだ。


故郷の近海は、もっと荒々しく、もっと鈍い色をしていた。

それに比べて、なんと明るく、美しい海なのだろう。

――だからこそ、今はその明るささえ恨めしい。


「怖くない」と言い張った。

正直に言えば、嘘だ。


『洞穴の民』が、なぜ海に出なければならない。

考えれば考えるほど、胸の奥に砂のような不快感が溜まっていく。


だが、他に移動手段もない。

空を飛ぶ? もっと嫌だ。

跳躍と浮遊は違う。

地に足がついていないことが、こんなにも恐ろしいとは思ってもいなかった。


エルが空を越えてヴィクトリアへ渡ったという話も、未だに理解できない。

恐怖を恐怖として感じない人間が、この世にいるなんて。


そんな負の思考を追い払うように、ジゼルは勢いよく自分の頬を引っぱたいた。


「痛っ……くない! よし、行ってやるわよ!」


身なりを整え、外套を羽織る。

扉を開けると、回廊の石は夜の冷えをまだ残していて、足裏から静かに目が覚めていくようだった。


女子棟の階段を降りる。

手すりは冷たく、踏み板が小さく鳴った。

降りきった先――回廊の曲がり角には、既に二人が待っていた。


「おはようジゼル、昨日はよく眠れた?」


先に気付いたエルが、言葉をかける。


「ええ……海でも、空でも、ドンと来いって感じよ」


「……空? どういうこと?」


胸を張るジゼルの言葉に、エルは目を丸くして思わず返す。


「アイツなりの虚勢だよ」


オズがニヤリと口角を上げて、エルの耳元で呟く。


「ちょっとモジャ……沈められたいの?」


言葉よりも速く、小さな魔石がオズの頭上に飛んで――鈍い音が響いた。


「痛っ! 待て、絶対聞こえてなかっただろ!」


その場にしゃがみ込み、頭を抑えながらジゼルに無意味な抗議をする。

エルが「教会の敷地だって言うのに……」と二人を同時に宥める。


「アンタの顔見れば、私を小馬鹿にしてるのなんてすぐ分かんのよ。さあ、行くわよ礼拝堂に」


待っていた二人の間を通り過ぎ、ジゼルが先に進んで行った。

エルはまだしゃがんだままのオズに手を差し伸べて、立ち上がらせる。

二人もまた、ジゼルの後を追って礼拝堂に向かった。


* * *


三人が礼拝堂に揃うと、祭壇の前では既にクローチェが朝の務めを終えようとしていた。

誘われて、簡単な朝の祈りを共にした。

聖歌と短い聖句の朗読、それから静かな黙祷。


礼拝堂を出るころには、東の空はすっかり明るくなっている。

大聖堂の正門前まで出ると、冷たい石段に、朝の光が斜めに差し込んでいた。


「じゃあ、僕たちは、そろそろ港へ向かうよ」


エルがそう言って、軽く頭を下げる。


「はい。本当に、またお会いできて嬉しかったです」


クローチェも深く一礼した。


ジゼルとオズもそれぞれ簡単に挨拶を交わす。

船の時間や、サン・リュシアンの名物の話など、しばし他愛もない会話が続いたあと――


「あ、エルさん。少しだけ、よろしいですか?」


クローチェが、ふと思い出したように声をかけた。


「うん? どうしたの?」


「なんか似合うよな、あの二人」とオズが小声で茶々を入れ、ジゼルに脇腹を突かれて黙る。


エルとクローチェは、正門脇の少し人影の薄い場所へ数歩だけ離れた。


「どうかした?」


エルが首を傾げると、クローチェは一瞬迷うように視線を落とし、それから意を決したように口を開いた。


「実は……私の見た“夢”の話なんです」


「夢?」


クローチェは、両手を胸の前で組み合わせた。


「私とエルさんと、オズさん。少なくともこの三人が、もう一度お会いする夢を見ました。そう遠くないうちに、です」


「……え?」


エルは思わず瞬きをする。


「どういうこと? ここで、もう一度ってこと? それにジゼルは……?」


「いえ……場所も、何でジゼルさんがいないのかも、はっきりとは分からなくて。ただ――」


クローチェの表情が少しだけ曇る。


「その時は、昨夜みたいに穏やかな再会ではないかもしれません。私も、輪郭しか見えなかったんですけど……あまり、良い気配ではなくて」


「良い気配じゃ、ない……?」


「すみません。はっきりしないことを言ってしまって」


クローチェは慌てて首を振る。


「でも、何も知らないよりは、心づもりがあった方がいいかなと思って。お節介かもしれませんが……」


エルは、しばらく言葉を探してから、小さく笑った。


「ううん、ありがとう。教えてくれて」


それは、不吉な予告であると同時に、自分たちが“どこかで生きている”未来の一端でもあった。


「気を付けてくださいね」


クローチェは一歩下がり、今度は三人全員に向き直る。


「では――皆様の旅路に、神の御導きがあらんことを」


胸の前で十字を切り、いつもの、花が咲くような笑顔を浮かべた。


「行ってらっしゃいませ」


鐘楼の下で揺れる修道服の裾を背に、エルたちは大聖堂から離れていく。


聖人の街サン・リュシアン。

勇者の僧侶が眠るその地をあとにして、三人は蒼い海へと続く坂道を下っていく。


そして、その先に広がるのは――魔法と海の国、ヴィクトリア王国。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!

次回更新は1/23(金)20時頃の予定です!

引き続き宜しくお願いします!

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