第六章 第一節「見ておかなきゃいけない気がするんだ」
セリューヌ湖からただ一筋、流れ出すセリューヌ川は、静かに、しかし力強く流れていた。
アンシャン・ド=ロワを発ってから、もうすぐひと月。
一行はずっと、この川の流れに沿って南西へと歩き続けていた。
その先には、海を越えてヴィクトリア王国へ渡るための港湾都市が待っている。
川面に映る空は、すっかり春の色をしていた。
冬の名残りをわずかに抱えたまま、それでも柔らかさを増した青。
岸辺では、黒ずんでいた土の間から、名も知らぬ草の新芽が、遠慮がちに顔を覗かせている。
滅国から二年と少し。
道は決して悪くはない。
かつてガレオン皇国の大動脈だった街道は、今もなお荷車と人の往来を受け止めていた。
――ただ、その両脇に広がる光景だけが、あの頃とは違っていた。
焼け落ちた家。
半ば崩れかけたまま、手つかずで放り出された塔。
畑だったはずの土地は、いまだ黒ずんだ土のまま、春の芽吹きを迎えられずにいる。
街道から少し外れたところを、煤けて錆びた線路が並走していた。
かつてセリューヌ湖と南西部を結び、皇国の血管とまで呼ばれた魔導列車の路線だ。
レールはところどころでねじ曲がり、土砂に呑まれ、空へ向かって不自然に反り返っている。
このひと月ほどの道中で、エルたちは同じような景色を何度も見てきた。
石材を積み直す音や、子どもたちの笑い声が聞こえる場所もある。
大街道に近い町では、レガリアの旗が掲げられ、新しい看板が打ちつけられていた。
けれど、その少し外れ。
川を挟んで向こう岸に見える小さな村落は、屋根の抜けた家々が、まるで時間を止められたように並んでいるだけだった。
やがて、森も丘も途切れ、どこまでも平らな地平が広がる一帯に出た。
焼け跡ですらない。
瓦礫も骨組みも、とっくに片付けられてしまったのだろう。
そこに「何かがあった」という痕跡さえ、風の吹き跡に紛れてしまっている。
「……ここには、かつてアルジャンっていう都があったんだ」
沈黙に耐えかねたように、エル・オルレアンが口を開いた。
「僕が知っている限りでは、このアルジャンと、帝都……それから、あの湖の都セリューヌ。あとは、今僕たちが向かっているサン・リュシアン――その四つが、大都市として有名だったんだ」
「アルジャン以外の三つは、政治、魔法、信仰……それぞれ役割を分け合った大都市だったけど、アルジャンは違ったんだ」
エルは一度息を入れて、話を続けた。
「ここは……ガレオンの本土のほぼ真ん中に位置していて、人も物も情報も、次第に全部ここに集まるようになって大きくなったらしい。当時は、ガレオンの“人の中心地”って呼ばれてた」
オズワルド・ミラーは足を止めて、ぐるりと見渡す。
「……本当に? ここが、か?」
「うん。大通りが何本も走ってて、夜になっても明かりが消えなかったって、本で読んだ」
自分で言いながら、その本に挿絵として描かれていた賑やかな街並みが、今見ている何もない地平とあまりにも噛み合わなくて、エルは苦笑した。
「でも、“滅国”のときに、金竜は二度ここを通ったらしい。帝都に現れてから、弧を描くような軌道でセリューヌに向かって……行きと帰りの二度、それで、全部、焼けたって」
最初の一撃で街は死に、二度目の炎で骨まで磨り潰された――以前読んだ記録には、そう書かれていた。
崩れた建物も、黒焦げの死体も、あとで運び出された。
残ったのは、風と、灰が混じった土だけ。
「アルジャンって名前も、もう地図からは消えてる。北のほうで、新しく都市を作ってるって聞いたけど……そこに、昔の名の名残を少しだけ使うらしい。紋章とか、街の意匠とか」
エルは、足元の土をつま先で軽く蹴った。
「ここにあった本物のアルジャンは、もう……帰ってこないのに」
「……全部、金竜の爪痕ってわけか」
オズがぽつりと呟いた。
街道の脇、小高い丘の上に建っていた教会跡が、無惨に崩れていた。
塔の先端だけが辛うじて形を留め、空に向かって歪んだ十字架を掲げている。
「……これだけ元素を感じない土地も珍しいわね」
ジゼル・ブラウロットが、肩に担いだ荷を持ち直しながら言う。
「本当に何もかも焼き払われちゃったって感じ。何も二回も通らなくてもいいのに」
その声音は、いつもの皮肉交じりの調子だったが、目は笑っていなかった。
エルは二人のやり取りを聞きながら、ただ、歩を進める。
見慣れていたはずの風景が、知らない国のように見えた。
子どもの頃に本で読んだ「ガレオン皇国の豊かな中央部」は、もうどこにもない。
今あるのは、レガリア共和国と呼ばれる“新しい国”――
その土台に、焼け焦げた自分の故郷がそのまま敷かれているだけだ。
(これが……僕が、知らなかったガレオンの姿)
喉の奥に、錆びたような味が広がる。
滅国の七日間。
金竜が空を覆い、炎が帝都を飲み込んだあの日の記憶は、夢よりも現実味が薄いのに、胸の奥を抉る痛みだけは鮮烈に残っていた。
かつてガレオンの北の象徴と呼ばれた湖都セリューヌ。
その街を再建したアンシャン・ド=ロワ。
湖の魔女による“偽り”の街。
あの街はきっと――失われたものを無理やり取り戻そうとした、ひとつの形だったのだろうと、今ならば分かる。
だが、ここに並ぶ無数の村や町には、あの街のような“象徴”すらない。
ただ、壊れたままの家と、誰のものとも知れない墓と、風に晒されたままの瓦礫だけが残されている。
「……なあ、エル」
ふいに呼ばれて顔を上げると、オズがこちらを見ていた。
「きつかったら、言えよ。ガレオンは、その……お前の故郷だし」
言いながら、どこまで踏み込んでいいのか分からずにいる顔をしている。
エルは苦笑し、首を横に振った。
「ありがとう。でも……見ておかなきゃいけない気がするんだ」
「見ておかなきゃ?」
「僕が生まれた国が、どうなったのか。レガリア共和国として歩き出したからこそ、ちゃんと“ガレオンの最期”を知らなきゃいけないような……そんな気がする」
言葉にしてみると、思っていた以上に未消化な感情だったことに自分でも気づく。
ジゼルがちらと横目でエルを見た。
「なら、しっかり目に焼き付けておくことね」
「……うん」
川沿いの道をくだるにつれ、少しずつ、景色は変わっていった。
焼けた家々の間に、新しく建てられた白い壁が混ざりはじめる。
壊れた橋の隣に、簡素ながらも真新しい木橋が掛けられている。
そして何より――人の声が増えた。
荷車を引く商人。
祈りの歌を口ずさむ巡礼者。
異国風の衣を纏い、「レガリア」の言葉で何かをまくし立てる役人風の男たち。
滅んだ国の上に、新しい流れが、確かに流れ込み始めている。
その流れの先に、それはあった。
「あれが……」
視界が開けた瞬間、エルは思わず足を止めた。
谷間を抜けてきたセリューヌ川の流れが、眼下に姿を現す。
さらに南には、かつてガレオンとリベルタ自由国家連邦を隔てた霊峰ジャバリがある。
その霊峰から北へと下ってきたもう一本の川が、そこにぶつかるように合流していた。
二つの流れは渦を巻きながらひとつの大河となり、川幅をぐんと広げる。
その大河がゆるやかに弧を描き、短い区間を一気に駆け下りて、やがて海へと注ぎ込んでいくのが見えた。
その河口近く。
川と海に挟まれた岬の上に、ひとつの大きな街が広がっていた。
白い尖塔が、幾本も空へ伸びている。
大河に面した岸には無数の桟橋が張り出し、大小さまざまな船がひしめき合っていた。
遠目にも分かるほど巨大な聖堂が、街の中心に鎮座している。
その屋根には、金色に輝く鐘楼がいくつも並び、春の陽光を受けてきらめいていた。
「サン・リュシアン……」
エルが、小さくその名を口にした。
魔法教会の聖人、リュシアンの名を冠した、港湾宗教都市。
かつてガレオン南西部最大の聖地と呼ばれ、今はレガリアでも屈指の巡礼都市として知られている場所。
「へえ……思ったより、ちゃんと“生きてる”街なのね」
ジゼルが、感嘆とも呆れともつかない声を漏らす。
「ここは俺も知ってる。“奇跡の都”だ」
「奇跡の都?」
オズの言葉にジゼルが疑問を浮かべる。
オズはエルに目配せをすると、エルも首を縦に振って続けた。
「うん、奇跡の都。滅国の七日間で、あの聖堂だけは金竜の炎に焼かれなかったって。街はずいぶん傷を負ったらしいけど……あの聖堂だけは、ガレオンの頃のままなんだ」
「へえ、幻獣なんて気まぐれな存在ではあるんだろうけど……そこだけ無事ってのも、何か気味悪いわね」
「そうか? 神様のご加護ってやつなんだろうよ」
オズが肩をすくめる。
「うん、どうだろうね」
エルは、もう一度だけ目の前の光景を見つめる。
滅んだ国の中で、それでも鐘の音を鳴らし続けてきた街――
その門を通り抜けた先で、何が彼らを待ち受けているかは、まだ誰も知らなかった。
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