第五章 第二十九節「僕たちの魔術師団を作りに」
セリューヌ湖の対岸――人の気配の薄い、森の縁のほとり。
濡れた草を踏みしだきながら、一人の女がよろめくように歩いていた。
湖の魔女オンディーヌ・デュ=ラック。
この街に現れた偽りの皇子マクシミリアン。
その偶像を作り上げた神官――オンディーヌの姿は、見る影もなかった。
濃紺のドレスは湖水を吸って鉛のように重く、泥と血が縫い目にまで染み込んでいる。
裾からは冷たい水がぽたぽたと落ち、歩くたび布が脚へまとわりついた。
ほどけた髪は藻と砂を絡めて頬に貼りつき、息を吸うたび生臭い水の匂いが肺の奥まで刺さる。
それでも、その瞳だけは――湖面よりもずっと深い、昏い色を湛えていた。
背後では、モン・ド=ロワのあった場所に、巨大な氷塊が黒い影となって沈黙している。
音もなく、ただ星明かりだけが、その不自然な輪郭を縁取っていた。
「この地に、もう用はありません……」
オンディーヌは、静かに呟いた。
「偽りのド=ロワを使って、再びガレオン――ド=ロワの土地に災禍をもたらすことは叶いませんでしたから」
足取りはふらついているのに、その声音だけは不思議と揺るがない。
冷えが骨まで染みているはずなのに、彼女の熱は別のところで燃えていた。
彼女は胸に抱きかかえたものを、ぎゅっと抱き寄せた。
冷たい星の紐――アルレシャ。
湖に沈む間際、最後の力で手繰り寄せた星紐は、いまもオンディーヌの腕の中でかすかに青白い光を脈打たせている。
濡れた指先に、その撚りがぬめるように触れた。
「ですが、エルキュール殿下……」
濡れた睫毛を伏せ、陶酔にも似た笑みを浮かべる。
「私の下に、神が宿したエレーヌの血……」
頬を紅潮させながら、うっとりと夜空を仰いだ。
「私は必ず、あなた様を抱いて差し上げましょう……」
星明かりを映した群青の瞳が、狂おしいほどの熱を帯びる。
「その御身に流れる穢れた血を、きれいに洗い流して――必ずや、真の姿へと清めてさしあげますとも……」
それは祈りというより、呪詛に近かった。
オンディーヌは、腕の中の星紐へ視線を落とす。
撚り合わされた紐は、ただの魔導具として扱うには、あまりにも異質だった。
紐の奥底には、彼女のものではない「意志」が潜んでいる。肌が、それを先に理解してしまう。
「そのためには……」
湖の魔女は、そっと指先で星紐をなぞる。
「この支配の紐を……星紐を、もっと理解しなければなりませんわね」
ふ、と口許だけで笑った。
「殿下。どうか、その時までお待ちくださいませ」
誰にともなく囁いた。
「次にお会いする時こそ、私の愛で、すべてを――」
鈍い音が響いた。
腹の奥で、遅れて痛みが膨らんでいく。
「……」
オンディーヌは視線を落とした。
腹のあたりに、見慣れぬ鉄の塊が突き刺さっていた。
肉を押し開く冷えた重みが、体内でゆっくりと存在感を増していく。
足元の草が、じわりと赤く濡れた。
「その時が訪れると思うな――湖の魔女」
静かな声が、背後から落ちてきた。
オンディーヌは振り返る。
そこには、見知らぬ男が立っていた。
夜気と同じ温度の目をした、無駄のない立ち姿。
湖の匂いとも血の匂いとも違う、どこか金属めいた気配だけが、彼の周囲に薄く漂っている。
「どなた、でしょうか……? あなたも、私と……エレーヌの、邪魔を……」
「死者と愛を育みたいのなら、己も死すればいい。運が良ければ、あの世で巡り会えるだろう」
男は淡々と言い放つと、オンディーヌの腹部から鉄の塊を引き抜いた。
「っ……!」
熱い、とも冷たい、ともつかないものが喉へ込み上げる。
オンディーヌの口元から、血がとろりと流れ落ちた。
男は、彼女の腕から星紐を乱暴に奪い取った。
濡れた指が離れた瞬間、アルレシャの光が一拍だけ強く瞬き――すぐに、持ち主を変えた道具のように沈黙した。
「星紐は貴様が持つべきものではない、湖の魔女――還してもらおう」
オンディーヌはなおも男に杖を向けていた。
だが、その杖ごと、男の手の鉄の器具が彼女を噛み砕いた。
蟹の鋏のように上下に割れた鉄の顎。
挟み千切られる、という方が正しい。
骨が鳴り、呼吸が途切れ、声にならない息が漏れた。
その鋏は、オンディーヌの身体を掴んだまま、湖の方へと振りかぶられた。
「沈め」
低い声とともに、魔女を掴んだまま、鉄塊は湖面へ叩きつけられた。
冷たい飛沫が夜空へ散る。
水が重くうねり、暗い湖が一度だけ大きく口を開いた。
やがて、鉄塊だけが水を割って引き上げられた。
湖面には、波紋と赤い筋だけがいつまでも残っていた。
あの濃紺も、あの群青も、闇へ溶けていく。
男は、その波紋が鎮まるのを待つこともなく、その場を後にしようとした。
「素晴らしい“裁き”だったね、茫洋のエルリースの末裔」
不意に、声がかかる。
上空。
三つの影が、月に照らされながら湖上に浮かんでいた。
中心にいる黒髪の青年は、穏やかな笑みを浮かべている。
その両脇には、眠たげな殺気を纏った男と、翡翠の瞳を煌めかせる小さな影。
「貴様が奪い去った天蠍を還しに来たのか、クルエル・サヴァン」
男は、中心の青年を睨み上げる。
「僕に敵意を向けないでくれ、巨蟹――今夜は話をしに来ただけなんだ」
「話をしに来た……? その男と、“それ”を連れてか?」
クルエルの両脇で、二つの影が嗤う。
「へえ……中々美味そうじゃねえか、蟹ちゃんよ」
「ダメよ、太陽王。クルエルの話が終わる前に手を出すなんて、お行儀が悪いわ」
「……てめえの指図は受けない」
「もう、酷いんだから!」
ティターニアは腰に手を当て、ふいと下を見下ろした。
「それより……今、私のことを“それ”って言ったの、茫洋?」
男――ルシアは、ぶっきらぼうに答える。
「その名は、とうに捨てた」
「番の輪から離れた茫洋ごときが、燦然たる盟主の血統を、“それ”ですって?」
翡翠の瞳に、きらきらと怒りの火花が灯る。
「そんな古典を持ち出さねば威厳が保てぬか、妖精女王」
ルシアは冷ややかに言い返した。
「それに……貴様もその盟主の血統とやらから、逃げ去ったのではないのか」
「随分と、生意気を……! ……まあ、いいわ」
ティターニアは鼻で笑う。
「加護を失い、中人の魔法に縋る出来損ないに何を言われても無駄よ」
「縋る、だと……?」
ルシアの手の中で、鉄の鋏がぎちりと鳴った。
水気を帯びた夜風が、その金属音をいやにくっきりと運ぶ。
「口を慎め。貴様らが恐れるこの星で、いま主神の下に還してやっても良いんだが」
「お! いいねぇ、なら、俺は蟹ちゃんに付こうかな」
ソウラが身を起こし、口角を吊り上げる。
「この羽虫を潰すいい機会だ」
「ちょっとソウラ! あなたどっちの味方よ!」
「少なくともお前の敵だよ」
「はいはい、いい加減大人しくしてくれないかな二人とも」
クルエルは小さくため息をつきながらも、どこか楽しそうだった。
「すまないね、茫洋の主。でも、しょうがないだろう? 僕ひとりじゃ、君にあっさりと殺されてしまうからね」
白い指先が、星紐と、ルシアの手の中の星の気配を順に示す。
「さあ、この場を収めるためにも、まずは話をしよう――ルシア・ア=ズール」
月光を受けた『災厄』の瞳が、底知れぬ笑みを浮かべた。
「星に何を願うのか――この点に関しては、僕たち案外気が合うと思うんだ」
湖上の夜風が、四人のあいだを静かに吹き抜けていった。
* * *
そのあと三人は、簡易工房の中で治癒薬を回し飲んで、最低限の応急手当だけを済ませた。
傷口を洗い、布を巻き、痛みを押し込める――それ以上のことをする余力はない。
外の騒ぎが一段落した頃合いを見計らって工房を畳み、人気の少ない裏路地を選んで宿へ戻る。
月の光さえ重く感じる夜道だった。足を引きずる音が、やけに大きく耳に残る。
湯に浸かる余裕も、ゆっくり話す時間もなかった。
各々が自分の寝台へ転がり込む。まぶたを閉じる前に、意識は闇へ沈んでいった。
――そして、翌朝。
宿舎を出た三人の耳に、静かなはずの早朝とは不釣り合いなざわめきが飛び込んできた。
市場の喧噪とも違う。沈んだ声が折り重なり、ところどころに短い悲鳴めいた囁きが混ざっている。
怯えと好奇心が、同じ方向へ人を押していた。
「……何かあったのか?」
オズが眉をひそめる。
通りの流れは一様に、湖の方角へ向かっていた。
「行ってみる?」
ジゼルが肩をすくめる。
エルは小さく頷き、二人と共に人波の後を追った。
やがて視界が開ける。
セリューヌ湖のほとり――そこには、昨夜とはまるで違う光景が広がっていた。
湖畔には結界杭が打ち込まれ、簡易の封鎖線が幾重にも張られている。
魔法協会の紋章をつけた外套の魔法使いたちが忙しなく行き来し、見物人を押しとどめていた。
杭と杭のあいだには淡い膜のような光が揺れ、近づこうとする者を無言で拒んでいる。
そして――湖水そのものが、重たく沈んだ赤に染まっていた。
「何よ、これ……」
ジゼルが思わず立ち止まる。
「昨日は、こんなことになってなかったわよね……?」
湖面を渡る風が、生臭いような匂いを運んでくる。
ただの湿り気ではない。鉄錆のような匂いが、喉の奥に薄く貼りついた。
赤く濁った水は光を吸い、朝の淡い日差しさえ鈍く濁らせる。
赤の向こう、かつてモン・ド=ロワがあった場所には、巨大な氷塊の輪郭だけが、まだ暗い影となって残っていた。
「……まるで血みたいだな」
オズが低く呟いた。
言葉にした途端、周囲のざわめきが一段沈む気がした。
「協会の連中も、ただ事じゃないって顔してるな。湖の魔女の行方を追うどころじゃなさそうだ」
結界の向こう側で、魔法使いたちが繰り返し水を採取し、掌ほどの器に沈殿を落として術式を展開している。
光の輪が幾度も立ち上がり、すぐに掻き消える。
だが、誰も「原因」については口にしない。答えが出ていないのか、言えないのか――ただ、ひそひそと噂だけが漂っていた。
「どうするの、エル? アンタが決めて、ちゃんと答えなさい」
ジゼルが横目でエルを見る。
エルはしばらく赤い湖を見つめていた。
湖底に沈んだ廃城。
オンディーヌ。
星紐アルレシャ。
胸の奥に、冷たいものが残っている。昨夜の決着は終わっていない――そう言われている気がした。
やがてエルは、小さく息を吐く。
「……行こう」
押し殺した声で、エルは言った。
「ここにいても、今の僕たちには何もできない」
一度だけ湖から目を逸らし、西の空を見やる。
「ヴィクトリアへ向かうんだ。僕たちの魔術師団を作りに行くんだ」
言い切った直後、ほんのわずかに唇が歪む。
残していくものの重さを、本人がいちばん分かっている顔だった。
オズは短く「そうだな」とだけ返し、ジゼルは小さく舌打ちしながらも、それ以上は何も言わなかった。
三人は赤い湖に背を向け、アンシャン・ド=ロワの街路へと歩き出した。
まだ名前もない小さな一行の影が、朝靄の中へ溶けていった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
次回第六章の更新は1/15(木)20時頃の予定です!
引き続き宜しくお願いします!




