第五章 第二十八節「どうしたの、じゃねえよ!」
星紐が、ほどけた。
凍りついた大津波へ背中から突き刺さった衝撃で、巨大な肉体を縫いとめていた光の撚りが耐えきれずに千切れていく。
するり、と抜け落ちるように紐が解けた瞬間、膨れ上がっていた巨躯はしぼむように縮む。
無理やり繋ぎ合わせられていた肉と骨は、継ぎ目からばらばらに崩れ散った。
廃城の下――今にも崩れ落ちそうな石廊の上で、オズはその光景を見上げていた。
膝をついたまま息を荒げ、盾を杖代わりに突き、身体を支えながら。
「……終わった、のか……?」
呟きは、砕ける石と氷のきしむ音にかき消えた。
解き放たれた星紐アルレシャは、空中でひときわ明るく瞬き、やがて“重さ”を取り戻す。
白い光の残滓を引きながら、真っ直ぐに落ちていき――
廃城の中心、エルとオンディーヌのあいだに、からん、と乾いた音を立てて落ちた。
「そ……んな……」
オンディーヌの膝から力が抜ける。
湖の魔女は、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
エルは、言葉を失って彼女を見つめるしかできない。
その背後に、ひゅ、と風を切る音。
振り返ると、空からジゼルが着地していた。
「ジゼル……!」
「話は後よ」
息を弾ませていても、その眼は揺るがない。
「どうする? 知り合いなんでしょ。私が止めを刺してもいいわよ」
「いや……」
エルはぎゅっと拳を握りしめた。
「オンディーヌは、僕が協会に引き渡す」
そう告げて一歩、湖の魔女へ踏み出した――刹那。
足元の石がぎしりと悲鳴を上げた。
石廊が、廃城が、そして湖全体が、底から揺さぶられるように震える。
「なにっ……! 沈むわよ、これ!」
ジゼルが顔をゆがめる。
モン・ド=ロワ全体が軋みながら、湖の底へ傾きはじめていた。
エルが反射的に視線を外した、その一拍。
石畳に崩れ落ちていたオンディーヌが、ゆっくりと杖を伸ばしていた。
杖先から伸びた水流が、床に落ちた星紐を絡め取り、たぐり寄せる。
「殿下……」
震える声が、崩れゆく城の中にこだまする。
「あなたの穢れた血は、私が必ず……清めて差し上げます……」
水流に引き寄せた星紐を、胸元に抱きしめる。
「それこそが、私の務め……エレーヌとの愛の証ですから……」
「待て! オンディーヌ!」
エルが駆け出そうとした瞬間、足場が大きく沈んだ。
崩れていく城の縁へ走ろうとする腕を、ジゼルが後ろから掴み止める。
「エル! 離れるわよ! オズが間に合わない!」
石畳がばきばきと割れ、裂け目がふたりの間を断つ。
その向こうでオンディーヌは星紐を抱いたまま、静かに立ち上がり――
崩壊する廃城の縁へ、一歩。
そして、迷いなく身を投げた。
湖の魔女の姿が、暗い水面へ吸い込まれていく。
水しぶきが小さく弾け、すぐに闇が閉じた。
「くっ……!」
エルは奥歯を噛みしめ、左手を握り込んだ。
ジゼルに引かれるまま、ふたりは崩れゆく廃城から跳ぶ。
エルの足元に風が集まり、落下の衝撃をふわりと殺した。
壊れた石廊の残骸の上では、オズがまだしゃがみ込んだままだった。
「モジャ! 立ちなさい!」
ジゼルが怒鳴る。
「エル! ほとりまで道を作って!」
「……やってみる!」
エルが頷き、石廊の縁から湖面へ手を伸ばした。
「ちょっと待ってくれ……俺はもう、限界だ」
オズが情けない声を漏らす。
「馬鹿言ってんじゃないの!」
ジゼルは容赦がない。
「それに、まだ終わってないでしょ!」
エルは身を乗り出し、残った魔力を振り絞って湖へ注ぎ込む。
水面がびきびきと凍りつき、壊れた石廊に沿うように白い道が伸びていく。
ジゼルの叱責を聞きながら、オズはぎゅっと目を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
「……そう、だったな」
レメンティアを支えに、重い腰を上げる。
視線の先には、湖に道を築くエルの背中がある。
氷の道は、崩れかけた石廊と湖のほとりを繋いでいた。
三人は互いの気配を確かめ合いながら、その細い氷上を一気に駆け抜けた。
* * *
廃城モン・ド=ロワは、ゆっくりと湖に沈んでいった。
そのあまりにも大きな音に気づき、セリューヌの人々が夜の湖のほとりを取り囲んでいた。
「そんな……」
「ド=ロワ家の、北の象徴が……」
「ねえ、皇子様は……?」
嘆きとざわめきの入り混じる声を避け、三人は湖畔の木々の陰へ身を潜める。
「すごい人ね……ここで待ってても埒が明かない。簡易工房を開くわ」
ジゼルが短く詠唱すると、足元に魔法陣が広がった。
光が弾け、森の影の中に小さな扉がひらく。
「……ああ」
オズが神妙な面持ちで頷き、三人は中へ滑り込んだ。
工房に降り立った瞬間、オズがエルの前に詰め寄った。
「おい、エル!」
胸ぐらが乱暴に引き寄せられる。
「ど、どうしたの? オ――」
「どうしたの、じゃねえよ!」
怒号が簡易工房に反響した。
オズはそのままエルの身体を揺さぶる。
「何で一人で突っ走るんだ!」
ジゼルは少し離れた場所で腕を組み、目を閉じたまま黙っている。
「ご……ごめん……」
か細い謝罪。
それでもオズの手は緩まない。
「そんなに、俺もジゼルも頼りないか! なあ!」
声が震えている。
怒りだけじゃない。恐怖と、どうしようもない無力感が滲んでいた。
「違う……そうじゃないんだ」
エルは苦しげに首を振り、胸ぐらを掴む手に自分の手を重ねた。
「オンディーヌを見た瞬間、頭が真っ白になって……気づいたら追いかけてて……」
視線を落とし、言葉を絞り出す。
「……ガレオンのことは、僕の問題だから。これ以上、二人を巻き込みたくなかった」
「巻き込みたくなかった、ってなんだよ! 俺たちはもう離れられないんだよ!」
オズが叫ぶ。
「半人の村で聞いただろ! 星の儀には俺も、お前も、ジゼルだって足を突っ込まなきゃいけないんだ!」
胸ぐらを掴んだ手に、さらに力がこもる。
「それなのに、お前だけ勝手に抱え込みやがって! あの夜だって……!」
そこで、オズは叫びを無理やり飲み込んだ。
オリヴィアに刻まれた印の感触が、ふっと脳裏をよぎる。
自分にだって言えない秘密がある。
それなのに、エルだけを責め立てるのは公正じゃない――その自覚が喉を塞いだ。
最後の方は、ほとんど声になっていなかった。
「……とにかく、もっと俺たちを信じて、任せろよ……」
エルは、はっと顔を上げる。
オズの瞳は、怒りと同じくらい、安堵と恐怖で赤く滲んでいた。
「……エル、これで最後よ」
そこで、ジゼルが静かに目を開けた。
蒼銀の髪が揺れ、ふたりを真っ直ぐ射抜く。
「次同じようなことがあるなら、私は降りるわ。オズがやっても同じよ」
いつになく冷たい瞳がエルを刺す。
「置いていかれるのは、ムカつくの。敵にだけじゃなくて――仲間に置いていかれるのは、なおさらね」
「仲間……」
エルが、その言葉を小さく繰り返す。
「アンタが勝手にどっか行くのも、勝手に死ぬのも許さない」
ジゼルは軽く顎をしゃくって、エルを指さした。
「置いてくくらいだったら最初から一人で行きなさいよ。わざわざ一緒に旅して、助けられて、助けて――そのうえで勝手に突っ走るなんて、いちばんタチが悪いわ」
言葉は辛辣だ。
けれど、その声音に滲むのは怒りと同じくらいの心配だった。
「……エル」
オズが、ようやく胸ぐらから手を離す。
ぐしゃぐしゃになった襟を、そのまま拳で握りしめたまま、視線だけを合わせた。
「俺とジゼルは、お前の荷物だと思われるのは御免だ。お前だってそうは思ってないんだろ?」
「……うん」
短く息を吐く。
「なら、私を、オズをもっと信頼しなさい。私もアンタたちには、全部預けるから」
歩み寄ったジゼルは、エルの胸を一度コツンと叩く。
次いで自分の胸を叩き――最後にオズの胸だけは少し強く、どん、と。
「痛ってっ! な、なにすんだよ!」
「あら、ごめんなさい。ちょっと力が入り過ぎたみたい?」
ジゼルが肩を竦めて笑う。
「ジゼル、お前なぁ……ったく」
そのやり取りに、エルの肩の力が少しだけ抜けた。
「……ごめん」
エルはふたりを見回し、はっきりと頭を下げた。
「一人でどうにかしようとした。巻き込みたくないなんて言い訳で……結局、自分だけが特別だと思ってたのかもしれない」
左手を握り込む。
獅子の星痕が、布越しに微かに疼いた。
「もう、勝手には行かない。危ないと思ったら、それも含めて――ちゃんと二人に話す」
一呼吸置き、言葉を継ぐ。
「……僕は、二人を信じるから。だから、二人も……もう一度だけ、僕を信じてほしい」
オズは、ふっと息を吐き出した。
「最初から、そのつもりだよ、バカ」
ジゼルも、ゆるく肩をすくめる。
「しょうがないわね、許してあげるわ」
「……うん」
エルは顔を上げた。
簡易工房の薄暗い光の下で、三人の視線が一瞬だけ交錯する。
まだ魔術師団という形も、名前もない。
けれど、その場にあったのは確かに――「一人ではない」という感覚だった。
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次回第五章最終節の更新は1/10(土)20時頃の予定です!
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