第五章 第二十七節「今は過程なんてどうだっていい!」
巨大になったマクシミリアンが、湖を握りしめる。
腕の振りに合わせて、水の剣がうねり、石廊の残骸を薙ぎ払った。
崩れた石の上に転がり込んだオズは、息を整える暇もなくレメンティアを握り直す。
城の後方から迫り来る巨大な津波が、嫌でも目に入った。
「時間もないわね……モジャ! さっき私が助けてあげたんだから、言うこと聞きなさい!」
瓦礫の段差から、ジゼルの怒鳴り声が降ってきた。
「な、何だよ、急に……! 何か案でもあるのか?」
蒼銀の髪を揺らし、ジゼルが肩で息をしながらニヤリと笑う。
「今度こそアンタの出番よ!」
彼女は、オズの手にある盾――レメンティアを、ぐいっと指さした。
「この盾で、全部ひっくり返すの!」
「無茶言うな! あの剣を受けろって言うのか!」
マクシミリアンの振るう水の大剣は、それだけで建物ひとつ呑み込みそうな質量だ。
石畳を叩くだけで、破片が雨のように飛び散る。
ジゼルはちらりと上を見上げた。
巨大な影は、確かに脅威だが――その動きには、たしかな“ゆるみ”があった。
「あれ、デカくなりすぎてノロマになってるわ」
彼女は短く言い切る。
「さっきのただの剣じゃなくて、あの水の魔法で作られた剣なら――ちゃんとタイミングを合わせれば、その盾とアンタなら出来る!」
「俺に……出来るのか?」
一瞬、胸の奥が冷たくなる。
――戦闘で、お前に何が出来る?
オリヴィアの声が、遠い夜の記憶とともに蘇る。
ジゼルはそんなオズの迷いを見透かしたように、言葉を重ねた。
「少なくとも、私と……多分エルも信じてるわよ」
「多分って……」
思わず突っ込んでから、オズは歯を食いしばる。
(くそっ……!)
胸の中で、何かが弾けた。
「分かった、やってやるよ!」
レメンティアを握る腕に、力がこもる。
ジゼルは満足げに口の端をつり上げると、巨大な人形の方へ視線を戻した。
「アンタの方に剣が向かうよう、私が誘導する」
戦斧ブラウロットを構え直し、足を踏み出す。
「――任せるわよ、モジャ」
ジゼルが飛ぶ。
小人である彼女よりも、何倍も、何十倍も大きい巨躯に向かって。
戦斧の刃が、月光をはね返して白く光った。
「おいデカブツ! こっち見なさいよ!」
ジゼルが、わざとらしいほど大きな声で怒鳴る。
巨大なマクシミリアンの顔が、ぎぎ、ときしむ音を立ててこちらを向いた。
星紐に縫いとめられた首が、ぎこちなく彼女を追う。
感情の欠片も浮かばない瞳孔だけが、じっと蒼銀の髪を捉えた。
「そうそう、その間抜け面よ!」
ジゼルは湖面ぎりぎりまで駆け、足場すれすれで身を翻す。
巨人の腕が、それを追うように、ゆっくりと振り上がった。
鈍い。
けれど、振り下ろされたあとの軌道だけは、洒落にならない。
(今よ、モジャ)
ジゼルは石片を蹴り上げた。
砕けた石が、巨大な顔面めがけて飛ぶ。
カツン、と乾いた音が響いた。
巨人の視線が、ほんの一瞬だけ上を向く。
その隙に、ジゼルは進路を湖の縁――オズの立つ位置の真正面へとずらした。
「さあ! 私ごと叩き斬りなさいよ、王子様ぁッ!」
挑発の声が、夜の湖畔に響き渡る。
星紐で縫いとめられた腕が、ぎちぎちと軋みながら軌道を変えた。
握られた湖の剣が、ジゼルと――その後ろに構えるレメンティアへ、真っ直ぐに狙いを定める。
オズは息を呑む。
(……来い)
震えそうになる膝を、ぐっと踏みとどまる。
盾を正面に構え、深く息を吸い込んだ。
もう一度、オリヴィアの声が脳裏をよぎる。
――戦闘で、お前に何が出来る?
(見てろよ)
オズは低く、誰にも聞こえない声で呟いた。
「レメンティア……!」
迫りくる水の剣。
その圧だけで、肺の空気が押し出されそうになる。
背後では、城の向こうから盛り上がった津波が、今にも石廊ごと呑み込もうとしていた。
「ここで、全部ひっくり返す――いくぞ、贖罪の山羊!」
盾の縁に、黄色い閃光が走った。
* * *
「殿下……あなた様が優秀な魔法使いなのは、先ほど見て分かりました。だから――」
オンディーヌの声と共に、杖先から水流が絶え間なく噴き出した。
廃城の石畳を縦に貫き、床下の空洞まで抉るほどの質量と圧力。
「何もさせません……このまま一度、沈んでいただきます」
水が、蛇のようにうねりながらエルを狙う。
だが、その軌道は明らかに「仕留めるため」ではなかった。
逃げ場を削り、足を止めさせ、ただ時間を稼ぐための攻撃。
(火は当然駄目だ……風でも裂けないだろうし)
石畳に空いた穴を見やる。
水が通り抜けた部分は、綺麗にくり抜かれたようになっていた。
(この水圧……地も、鉄も耐えられないかもしれない)
左手の指輪にそっと触れる。
ふと見つめたデネボラには、真紅の輝きが宿る。
(でも、僕に勇者の血が流れているなら……)
喉の奥で、言葉にならない熱が揺れる。
(勇者だけが、『四元の王』として魔法を完全に使役したのなら……)
――なら、自分にも、その一端くらいは届くはずだ。
「僕だって……!」
エルは左手を突き出した。
獅子の星痕の刻まれた甲の奥で、魔力がぎゅっと練り上げられていく。
熱ではない。
風でも、地でも、鉄でもない。
冷気。
足元から、白い靄が立ちのぼる。
吐く息が白く染まり、肌に触れる空気が一瞬で冬に変わった。
「理には適っていないのかもしれない……」
呟きながら、エルは奥歯を噛みしめる。
「でも、今は過程なんてどうだっていい!」
迫り来る水の奔流が、視界を埋め尽くす。
「――とにかく、凍れ!」
エルを襲いかかった水の奔流が――その一瞬で、すべて凍りついた。
音さえ奪われる。
白い霧をまき散らしながら牙を剥いていた水流が、そのまま形を保った氷の柱へと変わる。
「……できた……?」
自分の放った魔法を、エル自身がいちばん信じられなかった。
伸ばした左手を見つめ、指先がかすかに震える。
「氷……?」
オンディーヌの唇から、かすれた声が零れた。
「何故、殿下は氷の複合魔法を……?」
彼女の瞳が、凍りついた奔流と、エルの左手とを何度も往復する。
「あなた様が使役している元素魔法は、エレーヌの火と風、そして地……」
震える声で、ひとつずつ指を折っていく。
「水が占める余地なんて、どこにも……ましてや水と風の複合である氷など……」
そこで、オンディーヌははっと息を呑んだ。
ガレオンの、勇者の国の、神官たち。
その頂点に立つべき存在――四つの元素をすべて従えた者。
その名を、知らぬはずがない。
「……『四元の王』……だと言うのですか?」
湖の魔女の瞳が、ぎり、と軋むように細められた。
「エルキュール殿下、あなた様は……」
震える指先が、エルを指し示す。
「エレーヌの子であるその御身……こんなにも、ド=ロワの血に穢されているのだと!」
最後の言葉は、ほとんど悲鳴に近かった。
激昂が、湖そのものを震わせる。
オンディーヌの周りの空気が熱を帯び――次の瞬間、凍りついていた奔流に、ぴしりと亀裂が走った。
ぱきん、と小さな音が連鎖していく。
氷の塊が崩れ、形を失った水の塊が一斉に石畳へと叩きつけられた。
「洗い流さなければ……」
湖の魔女が、かすれた声で呟く。
「その穢れた血を……!」
足元から、新たな水が噴き上がる。
それはもはや“水流”ではなかった。
意思を持った湖そのものだ。
「清めなければ……エレーヌの血の通ったその御身を……!」
オンディーヌの杖が、さらに深い蒼へと染まる。
頭上では、城の背後から盛り上がった巨大な水の壁――
津波が、今まさに廃城を、石廊を、そのすべてを呑み込まんとして迫っていた。
* * *
水の大剣が、甲高い音とともに弾き返された。
レメンティアの表面を奔った黄色い閃光が、押し寄せる水の質量ごと軌道をねじ曲げる。
星紐で縫いとめられた巨体が、ぐらりと仰け反った。
巨大なマクシミリアンが、湖上の石廊ごと後方へ倒れ込む。
砕けた石と水飛沫が夜空へ散り、鈍い衝撃音が湖底まで響いた。
「やるじゃない!」
ジゼルは、崩れかけた足場を蹴って飛び上がった。
小人である彼女の身体など、巨躯と比べれば砂粒ほどの大きさしかない。
それでも、その瞳ははっきりと見据えていた。
――巨人の背後。
割れて崩れた廃城。
その最奥で、黒髪の少年と湖の魔女が向かい合う光景を。
「氷の魔法……!」
戦斧を構えたまま、ジゼルの目が見開かれる。
エルへと殺到していたはずの水流が、白い霧をまとったまま凍りついていた。
牙を剥いた奔流が、その形を保ったまま氷の柱と化している。
(いや――大丈夫)
胸の奥で、さっき見た光景がよみがえる。
かつて黒く染まったエル――その記憶を上書きするように包んだ、あの白い光。
(黒に呑まれてはいない……今の氷は、エルの魔法だ)
安堵の息をつく間もなく、視界の端が暗く染まる。
城の背後――天を覆うほどの巨大な水の壁が、今まさに廃城ごと飲み込まんと迫っていた。
「エル!」
ジゼルは肺いっぱいに空気を吸い込み、喉が裂けそうな声で叫んだ。
「詫びる気はあるわよね! だったら……その津波もどうにかしなさいッ!」
叫びながら、彼女は倒れかけたマクシミリアンの上へと躍りかかる。
「――鉱歌!」
低い響きが夜気を震わせ、戦斧ブラウロットの刃に銀の筋が走った。
欠けも歪みもないはずの刃が、それでもなお“鍛え直された”ように密度を増し、重みが宿る。
振りかぶった戦斧に、精霊魔法の力が宿る。
「うらぁああああっ!」
振り下ろされた一撃は、星紐に縛られた巨体そのものを斬り刻むことはできなかった。
だが、斧の衝撃は、そのまま巨躯の体勢を完全に崩す。
マクシミリアンの身体が、湖の方角へ大きく仰け反った。
「うおおおおおっ!」
その叫びと同時に、エルもまた両手を前に突き出していた。
津波へと向けて、先ほどよりもさらに強く、ありったけの魔力を叩きつける。
空気が、一瞬で変わる。
肌を刺すほどの冷気が廃城を包み、吐息も、雫も、全てが白く凍りついていく。
迫り来る水の壁の表面に、白いひびが走った。
「全部……全部、凍れっ!」
エルの叫びに応じるように、津波全体へと冷気が走る。
轟音が、ぴたりと止んだ。
廃城を飲み込もうとしていた大津波が、その形を保ったまま、丸ごと氷に変わる。
崩れかけた塔も、割れた城壁も、そのすべてが巨大な氷壁の影に呑み込まれて静止した。
その瞬間――
ジゼルに押し倒されたマクシミリアンの巨体が、凍りついた津波へと背中から突き刺さった。
星紐に縛られた四肢が、巨大な氷の棘に打ち据えられ、湖上でその動きを止める。
夜のセリューヌに、軋むような氷の音だけが、いつまでも長く響いていた。
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