第五章 第二十五節「もうこれ以上阻まれるわけにはいきませんので」
星紐アルレシャが、エルの身体に絡みついた。
冷たい縄だと思っていたそれは、実際に触れると、ぬるりとした生温かさを帯びていた。
銀とも白ともつかない細い糸の束が、腕から胸へ、喉元へと、するすると這い上がってくる。
「っ……!」
全身がぎゅう、と締めつけられた。
呼吸はまだ出来る。
だが、それは紐が「獲物」の呼吸を“許している”だけだと、薄ら寒い直感が告げていた。
「エルキュール殿下――」
壁にもたれかかっていた湖の魔女が、ゆっくりと顔を上げる。
「いいえ、エレーヌの子……」
その瞳に、もはや迷いはなかった。
焼け崩れた街路で亡骸を抱きしめた女の、行き場を失った祈りだけが残っている。
「私の愛で満たされた器となりなさい」
呪いとも祝福ともつかない言葉が、静かな広間に染み込んでいく。
星紐が軋むような音を立てた気がした。
(……冷たい……)
表面は生温かいのに、内側は氷のように冷たい。
糸の一本一本が、皮膚の下へ食い込み、血管を辿り、肉の中へと潜り込んでくるような錯覚。
左手の甲――獅子の星痕が、ぎらりと疼いた。
(やめろ……!)
抵抗しようと魔力を練るが、指先にまで届く前に、何か透明な膜のようなものに阻まれる。
星紐は、エルの魔力の流れそのものを捻じ曲げ、その空白に乗じて内側へと侵入しようとしていた。
「殿下……大丈夫。怖がることはありません」
オンディーヌの声は、凍った湖面に差す陽の光のように甘い。
「あなた様はただ、身を委ねていればよろしいのです。あとは……全部、私が」
星紐の先端が、心臓の真上まで這い上がった。
その瞬間――
胸の奥で、何かが低く唸った。
「っ……!」
星紐の内側を、逆流するように何かが走る。
ただ冷たかった縄が、一瞬だけ灼けるような熱を帯びた。
「……あ……?」
オンディーヌの瞳が、かすかに揺らぐ。
星紐アルレシャが、びくん、と跳ねた。
まるで、水流を遡ろうとして、逆に流れに弾き飛ばされた魚のように。
次の瞬間、エルの身体を縛っていた縄が――するすると、自分から解けはじめた。
「……え?」
エル自身が、いちばん先に声を漏らした。
星紐そのものが、嘔吐するように拒絶していく。
腕から、喉から、胸から、星紐は自分で自分をほどき、足元へと落ちていった。
ばさり、と音を立てて床に弧を描く。
同時に、左手の指輪が灼けるように熱くなった。
「……っ!」
エルは思わず手を握りしめる。
真紅の宝石――デネボラの魔石が、脈打つように明滅していた。
赤い光の中心に、ひび割れのような黒が走る。
血の色とも煤ともつかない黒紅が、宝石の奥からじわじわと外側へとにじみ出していく。
それはまるで、何か別のものに“汚された”かのような色だった。
『四元の王』――魔王の残滓が星紐を平伏させ、支配を振りほどいたのだ。
獅子の尾に縛られてなお、その威光を示す黒い王の力であったが、オンディーヌはおろか、エルですらそれに気づくことはなかった。
「どうして……?」
オンディーヌの唇が震えた。
指輪から漏れる黒い光と、床に落ちた星紐の、どちらを見つめているのか分からない。
湖の魔女は、呆然としたように数度瞬きをした――やがて、息をつめたように目を細める。
「……ああ。そうでした」
震え混じりの声に、ゆっくりと言葉が紡がれる。
「殿下は……エレーヌの子であると同時に」
湖面の底から湧き上がるような憎悪の色が、その瞳に滲んだ。
「ド=ロワの血……勇者の血も、受け継いでいるのでしたね」
エルは一歩、無意識に後ずさる。
オンディーヌは笑っていた。
けれど、それは喜びの笑みではない。
氷の薄皮の下に煮えたぎる何かを隠した、危うい笑みだった。
「支配の紐ですら、その血には逆らえない……なんと、憎たらしい」
星紐アルレシャが、床の上で微かに震える。
先端の魚の重しがかちりと鳴り、まるで持ち主の怒りに呼応するように。
「私のエレーヌを穢したド=ロワめ……!」
言葉が、鋭い針のように吐き出された。
その瞬間――城が、小さく軋んだ。
高い天井のどこかで、ひび割れが走る音がした。
窓枠がきしみ、湖面を映していた硝子に、かすかな波紋が広がる。
(……地震?)
違う、と直感が告げる。
これは、建物そのものが揺れているのではない。
何か、もっと奥で張りつめていた大きな術式に、綻びが走った音だ。
エルが顔を上げたときだった。
遥か下――湖面に伸びる石廊の方角から、金属が打ち合う、甲高い音が響いてきた。
* * *
「――っらぁ!」
ジゼルの叫びが、夜の湖面に裂けた。
戦斧ブラウロットと、皇子マクシミリアンの剣が、石廊の上で再びぶつかり合う。
火花が白い尾を引いて、暗い水面へと散った。
(押し負ける……!)
狭い石の道の上で、ジゼルは歯を食いしばる。
相手の剣は重い。
膂力も、技も、「ただの人間」の域を明らかに超えている。
それでも、彼の目は死んでいた。
まばたきも、息遣いも、怒りも恐怖も、何一つ浮かんでいない。
「目の前のは人じゃない!」
背後から飛んできたオズの声が、頭の中で何度も反響する。
死人。
縫い合わされた亡骸。
魂の代わりに、何か黒い塊を詰め込まれた「器」。
――復讐に囚われて、何も見えなくなった顔を、ジゼルは知っている。
血に濡れた炉。
機械魔神の唸り。
あの日、怒りだけを支えに槌を振るっていた小人の姿が、脳裏をよぎる。
(あの時のアイツと、同じ目をしてる)
ジゼルは、ふっと息を吐いた。
「ねえ、王子様」
鍔迫り合いの最中、冗談のように口が動く。
「アンタ、生きてないなら――」
足を半歩、前へ出す。
ブラウロットの柄を握る手に、ぐっと力を込める。
「遠慮する必要、ないわよね!」
火花を散らしながら、斧が剣をはじいた。
一瞬だけ空いた懐に、ジゼルは全身の体重を乗せて斧を振り下ろす。
鈍い手応え。
マクシミリアンの胸から腹にかけて、青い礼装が斜めに裂けた。
布だけではない。
皮膚が、肉が、骨が、薄い紙でも裂くみたいに割れていく。
「……っ」
血はほとんど出なかった。
代わりに、切り口の奥から黒い糸の束が覗く。
「あれは……禁呪か!」
オズが叫ぶ。
それは、ヴィクトリアで見た魔女の呪縛とも似ていて――けれどもっと粗雑で、禍々しかった。
「うおおおおおっ!」
ジゼルが叫ぶと同時に、その黒い糸がぶつぶつと千切れた。
マクシミリアンの身体が、ぐらりと揺れる。
それまで一定だった歩幅が乱れ、片足が石廊の縁を踏み外した。
そのときだった。
湖上の城――モン・ド=ロワ全体が、淡い光に包まれた。
「なっ……!」
オズが思わず目を細める。
城の輪郭が、白い霧に呑まれて揺らいでいる。
昼間見たときの、整った尖塔も、新しい石壁も、薄い膜のように震え――
「霧……?」
ジゼルがぽつりと呟いた。
薄い膜のような光が、ぱきんと砕けた。
新しい石壁が、薄い殻のように剥がれ落ちていく。
下から現れたのは――焼け焦げ、崩れ落ちた本来のモン・ド=ロワだった。
折れた尖塔。
黒く煤けた壁。
湖面すれすれまで抉れた基礎。
昼間、行進で見た整った城は、やはり全部「上から被せた幻」だったのだ。
「……うそ」
ジゼルが息を呑む。
石廊だけは、辛うじて残っていた。
ひび割れは走っているが、湖面へ落ちる気配はない。
視線を上げる。
崩れた外壁の向こう――城の側面から、かろうじて張り出した石の縁の上に、人影が二つ見えた。
濃紺の髪を乱した女と、その前に立つ黒髪の少年。
「エル……!」
オズとジゼルの声が重なり、湖面を渡って飛んだ。
黒髪の少年が、はっとしたように顔を上げる。
その左手の指には、黒紅に濁った光を宿した指輪が嵌っていた。
崩れかけた城を挟んで、三人の視線が、初めて同じ場所で交差した。
「二人とも……何で……」
オズとジゼルの姿を見て、エルが戸惑う。
どうしてここにいるのか。
どうしてここにいてくれるのか。
それを考える余裕は、しかし、目の前の魔女が許してはくれなかった。
「……私の城が」
モン・ド=ロワの広間で、オンディーヌは静かに呟いた。
窓の外では、白い霧が剥がれ落ち、焼け焦げた石壁が露わになっている。
遠く、石廊の上でよろめく青い礼装の影が、湖面越しに小さく揺れた。
「ああ、ド=ロワの人形が、壊れてしまったのですね」
その声音には、嘆きとも安堵ともつかない色が混じっていた。
視線を少し上げる。
崩れた外壁の向こう、石の縁に立つ黒髪の少年と――その下で、彼を見上げる二つの影。
「あれは殿下のお仲間、でしょうか……」
湖の魔女は、かすかに目を細める。
「そうですか。ド=ロワの血以外にも、私のエレーヌの子を奪おうとするものがあるのですね……」
唇に、薄い笑みを浮かべ、湖の魔女が何かを呟く。
城の残骸を挟んだ両脇で、湖面が静かに渦を巻き、二本の水の柱が現れる。
「オンディーヌ! 何をするつもりだ!」
「私とエレーヌの愛を……もうこれ以上阻まれるわけにはいきませんので」
静かな狂気だけが、その瞳の底で揺れていた。
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