第五章 第二十三節「ならば、せめて」
エルがその手を握った瞬間――
足元の石畳が、じわりと柔らかくなった気がした。
沈む。
視界の端から色が剥がれ落ちていく。
石と風と湖の匂いが、薄い水膜の向こうに遠ざかっていく。
(沈んで……)
どこまでも深く落ちていくような感覚。
けれど、息苦しさはなかった。
むしろ、胸の奥のざらつきだけが鋭く浮き上がってくる。
やがて、ふっと重さが消える。
エルは反射的に瞬きをした。
「……ここは」
見覚えのある石壁。
高い天井から垂れ下がる、古びたシャンデリア。
窓の外には、暗い湖面と、遠くの街灯り。
「モン・ド=ロワの中……ですね」
隣で、オンディーヌが静かに言った。
「城を出入りするたびに、あの石の回廊をいちいちせり上がらせるわけにも参りませんので。殿下のような、特別なお客様には――こちらの方が、手っ取り早いかと」
「特別……」
言い返す言葉が見つからず、エルは視線を泳がせる。
胸の鼓動だけが、妙にうるさく聞こえた。
オンディーヌはそんな様子を横目に見やり、少し首を傾げる。
「ところで、殿下」
「……はい」
「エレーヌ――いえ、エレイン妃のことを、どこまでご存じで?」
真正面から投げかけられた問いに、エルは一瞬口を開きかけて、閉じた。
「……ほとんど、何も」
しぼり出すように答える。
「離宮で一緒に暮らしていたことと……僕を、最後まで守ろうとしてくれたことくらいです。魔法が使えることすら、僕は知らなかった」
オンディーヌは、短く目を伏せた。
「そう……でしたか」
湖面のような瞳が、再びエルを見つめる。
その奥に、決意にも似た静かな光が宿った。
「それでは――」
彼女は、すっと一歩だけ距離を詰めた。
「お望みの通り……私の知るすべてを語ってさしあげましょう」
その言葉が落ちた瞬間、広間の空気がわずかに揺らぐ。
床の石が波紋のように歪む。
壁に掛かった古いタペストリーがほどけ、別の景色に縫い直されていく。
* * *
「ガレオン皇立魔術学院――かつて、私とエレーヌが学んだ場所です」
石造りの校舎と中庭の噴水が、一瞬で広がる。
群青の髪をきっちり結い上げた少女が、本を抱えて歩いていた。
若き日のオンディーヌだ。
「私はデュ=ラック家に生まれました。周囲の望みは一つ、“誰よりも秀でた神官になること”」
誰もが一目置き、距離を置く。
そんな中で――もう一人、別の影が現れる。
「そして、そこに現れたのが名もなき魔女、エレーヌ・シャルロット」
ベージュの外套に、よく言えば質素、悪くいえば地味な制服姿。
だが、揺れる黒い長髪と栗色の瞳が妙に強い光を帯びている。
「同じ祈りと魔術を学ぶ者でありながら――」
場面が流れる。
講義室で並んで黒板に式を書き、演習場で同じ詠唱を唱え、どちらの魔法も同じように標的を撃ち抜く。
「私より自由で、私より強くて。初めて、“頂点”にいる自分の足場を揺らした人でした」
いつの間にか、視界の中のふたりは並んで歩くようになっている。
書庫で本を取り合い、昼休みにパンを分け合い、雨の日には片方の肩だけ濡らして笑い合う。
「同窓であり、好敵手であり、友で……ありました」
オンディーヌの声に、わずかな柔らかさと空白が混じる。
そして、時間は一気に進む。
卒業式。
塔の上から街を見下ろす二人。
「卒業後、私たちは別の道を選びました。私は“家の期待”どおり神官へ。エレーヌはガレオン軍の魔術師部隊へ」
軍装に身を包んだエレーヌの姿が瞬きのように流れる。
炎の壁、癒やしの光、戦場から戻る兵士たちの噂話。
「火の元素魔法と治癒魔法の異なる魔術体系を使いこなす彼女は、すぐに『炎の聖女』と呼ばれるようになりました。その名はガレオンだけでなく、諸国にまで届いたのです」
やがて、場面は神殿へと切り替わる。
「ちょうどその頃、四神官の一席が空きました」
オンディーヌの前で、重い扉が開く。
入ってきたのは、見慣れた横顔――神官服に身を包んだエレーヌだった。
『お久しぶり、オンディーヌ』
「四神官として迎えられたのは、私ではなく“炎の聖女”でした」
羨望とも悔しさともつかない感情が、若いオンディーヌの胸を過ぎる。
だが、二人はすぐに昔の距離に戻る。
「神殿では同僚として、友として……あの頃と同じように並んで祈りを捧げました。それでも、立っている場所は少しずつ違っていったのです」
帝都の皇城の回廊が映る。
白い礼服のエレーヌが、玉座の脇に控えている。
「エレーヌは“国の象徴”として中央に置かれました。皇帝陛下の居城、その祈りと儀礼のすべてを任される役目として」
そこから先は、早回しのようだ。
季節が巡り、旗の色が変わる。
その一方で、神殿に顔を出すエレーヌの姿は、目に見えて減っていく。
「御身の具合が思わしくないと聞き及び、登城の回数も、報告の文も減っていきました」
やがて、オンディーヌは堰を切ったように離宮へ向かう。
扉が開く。
そこにいたエレーヌは、髪を短く切り、白い室内着の上から大きく膨らんだ腹を抱えていた。
『驚かせてしまったわね』
「父親は――と問えば、彼女はただ黙って頷きました。皇帝陛下。ガレオンの頂点に立つ男の名を、言葉にするまでもなく」
エルの胸が、遠い記憶とともに軋む。
「この子が生まれたら、私は“妃”になるのだそうよ――エレイン妃。それが陛下の与える名だと、彼女は笑っていました」
その笑みには、喜びとも諦めともつかない影が差している。
「私は彼女の手を取って“逃げましょう”と言いたかった。けれど、エレーヌは先に言いました。“言えば止めに来るでしょう?”と」
ふたりの手が重なり、それきり場面は淡くほどける。
「そして――殿下。あなたがお生まれになったのです」
エルは、喉の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
「エレーヌは、陛下の寵愛を――確かに受けておられました」
オンディーヌの声が、わずかに沈む。
「あの離宮は、エレーヌのために新たに建てられたものです。彼女が、静かに魔術の研究を続けられるように、と」
エルは、あの離宮を思い起こした。
自身を閉じ込める檻のように感じていた、あの離宮を。
「けれど、そのことを疎ましく思う方も、当然いらっしゃいました」
湖の魔女は、そこで初めて、はっきりと名を口にする。
「――アンジェリカ皇妃です」
その名には、毒にも似た硬さがあった。
「正妃の座にある方からすれば、地方出の魔術師風情が陛下の御心を奪い、離宮まで与えられたのです。面白いはずが、ありません」
風が、ふたりのあいだを吹き抜ける。
「そこから先は……殿下も、ご存じの通りかと」
オンディーヌは静かに続けた。
「エレーヌは皇城から遠ざけられ、離宮から出ることを許されなかった。エルキュール殿下もまた、“隠された子”として育てられ――それでもなお、軍の手ほどきだけは、密かに受けておられたと」
エルの喉が、かすかに鳴る。
離宮の庭での訓練。
時おり訪れていた教官の厳しい声。
それを遠くから見守っていた母の姿。
「やがて――あの日が来たのです」
オンディーヌは、わずかに声を低くした。
「金竜が顕現しました。帝都ロワイヤルの空に。燃え上がる帝都の光は、この湖の城からも見えました」
湖の魔女は、遠い記憶をなぞるように瞼を伏せる。
「私は、この城を飛び出しました。あの人が、ひとりあの街にいるはずがないと分かっていても……それでも、走らずにはいられませんでした」
炎に包まれた街路。
崩れ落ちる尖塔。
赤い空の下で。
「――そして、見つけました」
オンディーヌの指先が、かすかに震えた。
「彼女は、死してなお美しかった」
唇の端に、苦笑とも嗚咽ともつかない歪みが浮かぶ。
「私は、その亡骸を、狂おしいほどに抱きしめました。焼け焦げた石の上で、何度も何度も名を呼びながら」
しばし、言葉が途切れる。
「思ったのです。――彼女に、このような最期は相応しくなかった、と」
湖面から吹き込む風が、冷たく二人の間を撫でる。
「彼女を、このような目に遭わせたド=ロワの皇族は、間違っていたのだと。だからこそ、天罰が下ったのだとさえ、あのときの私は本気で信じていました」
その視線が、一瞬だけエルから逸れる。
「金竜は、私のいないあいだに、セリューヌの街も焼きました。けれど、しばらくして、神威は去っていった」
残されたのは、燃え跡と、静まり返った亡骸だけ。
「私は、神威が示されたこの亡国で、他の亡骸を探しました」
皇帝。
皇妃。
四人の皇子たち。
「陛下も、皇妃も、四人の殿下も――皆、見つけることができました」
そこで、オンディーヌは初めて、真正面からエルを見た。
「……ただ一人を除いて」
湖の魔女の声が、かすかに震える。
「エルキュール殿下。あなただけは、どこを探しても、見つけることができなかったのです」
「……私が、エレーヌのためにできることは何か」
オンディーヌは、自嘲するように微笑んだ。
「天罰の下ったこのガレオンを――彼女の遺児である殿下が、いつか治められるように整えておくことだと、そう思ったのです」
それが、自分に許された唯一の「復讐」だと信じていた。
「それこそが、彼女のための報いになると」
オンディーヌは視線を湖に落とす。
「私は、被害の比較的少なかったこの地へ戻り、再建を見守りました。いつか殿下が戻られる日を、ただ、それだけを支えに」
だが。
「……殿下は、現れなかった」
静かな言葉が、ゆっくりと沈んでいく。
「そうしているあいだに、ガレオンはレガリアと名を変え、国の形も、法も、旗印すらも、別のものへと変わっていきました」
その変化を、湖の城から見下ろしながら、オンディーヌは耐えていた。
「――私は、許せなかったのです」
初めて、声に棘が混じった。
「エレーヌという存在そのものが、踏みにじられていくような気がして。彼女のために燃えたはずの炎が、いつの間にか都合のいい“神話”に書き換えられていくのを」
だから、と湖の魔女は言った。
「だから、私は造ったのです」
オンディーヌの細く白い腕に、赤い線が走る。
皮膚の下から浮き上がるように広がるそれは、明らかに自然の紋様ではなかった。
禁呪の印。
「それは……! オンディーヌ、あなたは……何を――!」
エルが声を震わせながら叫ぶ。
「殿下。あなたが知りたいのは――マクシミリアンのことですね?」
問いかけながらも、答えは決まっているというように、オンディーヌはかすかに笑う。
「あれは、あの忌まわしき皇子たちの亡骸で造った『人形』です」
言葉が、冷たい刃物のように広間の空気を裂いた。
「――殿下がお戻りにならないのなら」
オンディーヌは、ゆっくりと視線をエルへ戻した。
「この国という“亡骸”は、いずれ再び災禍をもたらすでしょう。その象徴が、マクシミリアンなのです」
その名を口にするとき、湖の魔女の声音はひどく冷たかった。
「私が、アンジェリカ皇妃の“児たち”の亡骸を縫い合わせ、身体を整え、偽りの魂を吹き込んだ――伽藍洞の化け物」
「そ……んな……」
淡々と語られるその内容に、エルの背筋がびくりと震える。
喉の奥で、小さな音が鳴った。
オンディーヌは、そんな彼の反応さえも、やさしく撫でるような目で見つめる。
「それなのに……何故、いまになって戻って来られたのですか、殿下」
細い指が、ぎゅっと胸元の布をつまむ。
「私には、殿下を傷つけることなど出来ません。殿下に、どうしようもないほど……私の愛した“彼女”の面影を見てしまうから」
エレーヌ、と名を続ける代わりに、オンディーヌは微笑んだ。
それは、祈りとも狂気ともつかない、危うい微笑だった。
「殿下、私に命じて頂けませんか――この偽りの国を、もう一度だけ災禍に沈めるように」
「そんなこと……させない……!」
オンディーヌの言った通り、この国に何の思いもない。
だが、だからといって、この国に再び悲劇が訪れることも望んではいない。
「……殿下はお優しいのですね」
オンディーヌは、エルを見つめ、柔らかく微笑む。
「ならば、せめて――」
一歩、エルとの距離が詰まる。
「殿下には、私と共に……ここで見届けていただきましょう」
「……それは?」
オンディーヌの手に握られた“縄”に、視線が吸い寄せられる。
それはただの縄ではなかった。
銀とも白ともつかない細い糸が幾重にも撚り合わされ、かすかに脈打つように震えている。
「まさか……星……?」
胸の奥で、獅子の星痕がちくりと疼いた。
オンディーヌの持つそれに、自分と同じ“星”の気配を感じる。
「オンディーヌ! あなたも……星の覚醒者だったなんて……!」
思わず漏れたエルの言葉に、湖の魔女はぱちりと瞬きをした。
「ステラリア……? 何のことでしょう?」
「え……?」
拍子抜けするほど素直な問い返しに、エルの思考が一瞬空白になる。
(星じゃ、ない……? じゃあ、あの“星の気配”は――)
ローレシア皇帝アナスタシアの声が、脳裏に蘇る。
『星は強大な力。元々はその力を適切に管理するため、各地に分散させられていた。そして我がローレシアもその管理を担ってきたのよ』
(……そうだ。“各地”に散った星。ローレシアと同じように、ガレオンにあってもおかしくはない!)
左手の甲、獅子の星痕がなおも疼きを強めた。
(なら、あの星は――オンディーヌが覚醒者を自覚していないだけ……?)
「星紐アルレシャ――またの名を『支配の紐』」
湖の魔女が、愉しげとも恍惚ともつかない声で告げる。
「ガレオン皇国に古くから伝わる神代の魔導具――かつて勇者様が魔王から奪い取った聖遺物です」
エルはごくりと喉を鳴らした。
「これに縛られたが最後、術者の言葉に従う“傀儡”と成り果てるそうでございます……」
オンディーヌは、愛おしげにその紐を指で撫でる。
「ですが、どうかご安心を、殿下。殿下の意志がなくとも――」
そっと、星紐の先端がエルの方へと伸びる。
「この私が、愛をもって殿下を……エレーヌの子であるあなた様を、お支えいたします」
湖面を渡る風が、ふたりの間を冷たく吹き抜けた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
次回更新は12/31(水)20時頃の予定です!
引き続き宜しくお願いします!




