第五章 第二十二節「すべて、この私が語ってさしあげましょう」
「ああ、エレイン妃によく似た、美しい黒髪……よくぞご無事でいらっしゃいました」
湖の魔女は、ゆるやかに瞳を細めた。
「エレイン……母様、のこと?」
母の名が出た瞬間、胸の奥で何かがきゅっと縮む。
エルには、母の生前の記憶がちゃんとある。
離宮での二人暮らし。
朝、薄いカーテン越しに差しこむ光。
庭に出るときだけ羽織る上着を、苦笑しながら着せてくれた手。
たまに様子を見に来る侍女のオルレアンが、困ったように笑いながらお茶を運んできたこと。
――そして、最後の日のことも。
轟音。
離宮を揺らす、遠くの咆哮。
窓の向こうで、空が赤く染まっていく。
「殿下、こちらへ!」
オルレアンが叫んで、走ってきた。
次の瞬間、金色の炎が廊下を薙ぎ払う。
燃える匂い。
人が焼ける匂い。
侍女の身体が、炎に呑まれて崩れ落ちる光景を、エルは確かに見た。
「エルキュール!」
すぐ隣にいた母の声。
振り返った顔は、恐怖よりも、ただ息子を気遣う色の方が強かった。
迫る崩落と炎の熱に気づいたときには、もう身体が動いていた。
(母様を――)
突き飛ばす。
腕の中から、温もりが離れる感覚。
同時に、何かが頭上から落ちてくる音。
そのあとの記憶は、白く途切れている。
目を覚ましたときには、既に天文台の中だった。
何がどうなったのか、自分には分からない。
後になって、オリヴィア・スカーレットから聞かされた。
――お前の母親は、最後までお前を庇っていたよ。
――加護にも似た、温かい魔力で、お前を包んでいた。
だから、エルは母の最期を「知らない」のだ。
見ていない。
ただ、あの赤と白の断片と、オリヴィアの言葉だけが、記憶のなかで絡まり続けている。
「母様……」
気づけば、声が零れていた。
オンディーヌは、その呟きを聞きとがめたように、ほんの少しだけ表情を和らげる。
「ええ。エレイン妃は、気高く、優しい方でした」
湖面の光を宿したような瞳が、遠いものを見つめる。
「皇帝陛下、アルベール殿下、ベルナール殿下、クレマン殿下、ドミニク殿下……そして、エルキュール殿下」
ひとつひとつ、名前を数えるように。
「ド=ロワの血は、あの日、すべて絶えてしまった――私は、この二年間、本気でそう信じておりました」
エルは息を詰めた。
血の繋がりを感じたことのない父の名。
自分たちを虐げた王妃の血が流れた兄たちの名。
そして、最後に続いた、自分の名。
オンディーヌは淡々と続ける。
「最初に皇城が焼け落ちたと伺っております。テンペスタ、グラヴィエ……四神官の二人が居てもなお、あの金竜の前では為す術もなかったと」
風が、ふたりのあいだを抜けていく。
「生き残ったのは、このセリューヌ――いいえ、アンシャン・ド=ロワにいた私と――」
そこでいったん言葉を切り、オンディーヌの瞳にかすかな陰が差した。
「……“花の魔術師”だけだと」
その呼び名を口にするときだけ、声音がわずかに冷たくなる。
整っていた唇が、ほんの少しだけ歪んだ。
はっきりとした嫌悪だった。
エルは、その変化を見逃さない。
「花の……魔術師?」
問い返すと、オンディーヌはすぐには答えなかった。
代わりに、静かに息を吐く。
「ええ……エレイン妃が陛下とのあいだに殿下を身籠られたあと、四神官の空席に就いた男です」
「……ちょっと待って」
エルの声が掠れる。
「母様は……四神官だったの?」
知らない皇子の謎を追うはずだった。
湖の魔女の背中をここまで追ってきたというのに――
ここに来て初めて知らされる、亡き母の秘密に、言葉が続かない。
「殿下、お聞きになっていなかったのですね?」
オンディーヌは、わずかに目を細める。
「エレイン妃――いいえ……エレーヌ・シャルロットから、何も」
母もまた、名を隠していた。
「殿下がお望みなら……すべて、この私が語ってさしあげましょう」
湖の魔女が、静かに手を差し伸べる。
エルは、一瞬だけ躊躇った。
そして――その手を、しっかりと掴んでいた。
* * *
「……ダメ。いない」
ジゼルが眉間に皺を寄せて、三度目の路地を覗き込んだ。
市場通り、宿の周辺、支部の近く、人けの少ない横道――
ふたりは手分けこそしないものの、歩ける範囲を片っ端から洗っていた。
黒髪の少年の姿は、どこにもない。
「店の連中に聞いても、この時間帯じゃ分からないってさ」
オズが戻ってくる。
果物屋の青年や、荷車を引く老人、屋台の女主人にまで声をかけた。
が、「黒髪の少年? さあね」「見てないよ」と首を傾げられただけだった。
「アンタの顔も売れてないのね、モジャ」
ジゼルが棘のある声で言う。
「……売れてるわけがないだろ」
軽口で返すこともできず、オズの顔色は曇ったままだった。
(……何やってんだ、エル)
歩きながら、ふと別の声が脳裏をよぎる。
――あの夜、半人の集落で、紅い髪が揺れた。
『今あいつに憑いてる最も厄介なものは……『闇の帝王』――ゲオルグ・グヴァルグラードだ』
拳を握りしめる。
(本当に……闇の帝王は、エルから出ていったのか?)
ワシリーサが昇っていったあの空。
自分は、あの場で「終わった」と思い込みたかっただけじゃないのか。
言葉には出せない疑念が、喉元で渦を巻く。
そのとき、ジゼルが立ち止まった。
「ねえ、モジャ」
「……何だ」
短く返すと、ジゼルは顎で前をしゃくった。
「あとは、まだ見てない場所って言ったら――あそこだけでしょ」
オズも、つられて顔を上げる。
通りの隙間から、視界が抜けていた。
家並みの向こう、春の光を跳ね返す巨大な水面。
セリューヌ湖。
その中央に、静かに影を落とす湖上の城――モン・ド=ロワ。
「湖の城……か」
思わず、昔聞いた話が頭をよぎる。
“北の象徴”と呼ばれた城。
今は、偽りの「皇子」と魔女が立つ場所。
「ねえ、あのバカ」
ジゼルが唇を尖らせた。
「まさか一人で勝手に攻め込んだんじゃないでしょうね?」
半分は冗談のように聞こえる。
だが、その目は笑っていなかった。
「行くわよ、モジャ」
外套を翻し、湖の方角へ足を向ける。
オズは一瞬だけ、その背中を見つめて立ち尽くした。
(……あいつ、時々何考えてるのか分かんないところあるしな)
(まだ単独行動で突っ走ってくれてる方がマシ、なのか? それとも――)
「モジャ?」
呼びかけられて、はっと我に返る。
ジゼルの蒼い瞳が、苛立ちと不安を隠そうともせずこちらを見ていた。
「……ああ、すまん。行こう」
オズは小さく息を吐き、ジゼルの隣に並ぶ。
ふたりの視線の先には、陽光を弾く湖と、その上に浮かぶ城の影。
そこに、黒髪の少年の気配があると信じて――
彼らはセリューヌ湖のほとりへと歩を進めた。
* * *
セリューヌ湖のほとりは、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
湖面は、沈みきった陽の名残と、昇りはじめた月の光を受けて、薄い金と青の境目を揺らしている。
街のざわめきは遠く、ここまで来ると、聞こえるのは風と水音ばかりだった。
「……見て、モジャ」
ジゼルが湖を指さす。
昼の行進で見た、石の回廊が一本、静かに伸びていた。
モン・ド=ロワの城門へと、まっすぐ線を引くように。
やがて、夜の月明かりが湖面に反射し、石の回廊を白く照らす。
あのときよりもずっと、禍々しい“必然”の匂いがした。
「……まるで、誘われてるみたいね」
ジゼルが短く舌を打つ。
オズは湖岸まで歩み寄り、廊の縁に流れ込む水を覗き込んだ。
石の隙間から、まだ細かな水滴がしたたっている。
「水が渇いてない……今、浮かび上がったばっかって感じだな」
ついさっき、誰かが道を開けた。
あるいは――これから誰かを通すために。
ジゼルは唇を噛んだ。
「これ見たら……エルが突っ走っても、おかしくはないわね」
あの黒髪の性格を思えば、なおさらだ。
自分の出自を騙る「皇子」、そして湖の魔女。
確かめたいと口にした相手が、ちょうどその先にいるのだとしたら――。
オズは無意識に、手の中の布袋の感触を確かめる。
さっき拾ったそれは、まだ温度を残している気がした。
「……行くか」
低く呟く。
ジゼルも頷き、外套の裾を握り直した。
「当然でしょ。置いてかれたままなんて、性に合わないもの」
二人は、水面から伸びる石の廊を見据えた。
そのときだった。
石の廊の先――湖面に浮かぶ城の方角から、乾いた音が近づいてくる。
カツン、カツン、と規則正しく石を叩く靴音が、水面を渡って響いた。
黒髪が、夜に紛れながらも揺れる。
青い礼装と赤いマントの輪郭が、月光に浮かび上がった。
「あら、王子様自ら出迎えてくれるなんて……何だかお姫様みたいじゃない?」
ジゼルが皮肉を口にする。
「馬鹿言ってる場合か! あの皇子……明らかに様子がおかしい!」
「分かってるわよ!」
マクシミリアンの足取りは、静かでありながら、不自然に乱れがない。
まるで何かに操られているかのように、一定の歩幅で廊を進んでくる。
ジゼルは短く息を吐き、簡易工房から取り出した戦斧を構えた。
次の瞬間――
石の回廊の上から跳ねるように距離を詰めたマクシミリアンの剣が、唸りを上げて振り下ろされる。
戦斧ブラウロットの刃がそれを受け止め、夜の湖畔に甲高い火花の音が弾けた。
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