第五章 第二十一節「なんと光栄なことでしょうか」
オズとジゼルとは、宿屋の前で合流する約束をしていた。
「確か、市場通りを抜けて、ここを曲がった先が……」
エルは独りごちて路地の角を曲がる。
次の瞬間、目を疑った。
手に提げていた精霊工芸の布袋が、指先から滑り落ちる。
ガサ、と中身の瓶や道具が鈍い音を立てて石畳に転がった。
人混みの向こうに、こちらに背を向けて歩いていく女の姿があった。
深い海のような群青の髪が、春風に揺れている。
「……オンディーヌ・デュ=ラック?」
思わず名が零れたときには、もう遅かった。
気がつけば、エルは湖の魔女を追って駆け出していた。
足音が石畳を叩き、路傍には、落としたことに気付かないままの布袋だけが取り残されていた。
* * *
宿屋の前。
人通りの多い通りではあったが、その一角だけ、妙に人の流れが途切れていた。
原因は入口の前に立つ蒼銀の髪だ。
「……遅い!」
腕を組んだジゼルが、露骨に苛立ちを顔に出す。
まるで獰猛な魔獣のような視線で周囲を睨みつけるたび、人々は目をそらし、その前を大きく迂回していった。
「すまん、遅くなった!」
駆けつけてきたのはオズだった。
遠くからでも明らかに機嫌の悪い彼女の様子が見えていたせいか、息を弾ませながらも、どうにか体裁を整えて宿屋の前に立つ。
ジゼルは走ってくる金髪を、これでもかというほど鋭い目つきで睨みつける。
「何してたのよ!」
「支部だよ、支部! 報告書とか、色々溜まってたんだよ!」
オズは両手を上げて弁解する。
「そんなに待たせたか……? って、まだ待ち合わせの時間の前じゃないか!」
外套の内側から懐中時計を取り出し、ぱちんと蓋を開く。
「でも、私は待ったわ」
ジゼルは即答した。
「なんて理不尽な……こっちは仕事をちゃんと終わらせてきたっていうのに」
オズが肩をすくめて嘆息する。
ジゼルは「知ったことじゃないわ」とでも言いたげにそっぽを向いたが、すぐにふと周囲を見回した。
「で――エルは?」
「……は?」
今度はオズが目を瞬かせる番だった。
「アンタ、エルと一緒じゃなかったの?」
「いや、買い出しに行ったきりだろ。『先に宿の場所だけ教えておくから』って……」
ふたりのあいだに、短い沈黙が落ちる。
「エルって、モジャと違ってだらしない印象なかったけど……意外だわ」
ジゼルが小さく鼻を鳴らす。
「いや、意外とおっとりしてるだろう、アイツは? まあ、そのうち来るだろ……って、ちょっと待て! 俺だって別にだらしなくないからな!」
オズは憤慨しながら、懐中時計をぱちんと閉じた。
だが、その場に立ち尽くしていると、時間の流れがやけに長く感じられた。
商人の呼び声、馬車の車輪の音、遠くの笑い声。
街はいつも通りの賑わいを見せているのに、宿屋の前だけがぽっかりと空白地帯のようだった。
「……十分」
ジゼルがぽつりと呟く。
「さっきから、それくらいは経ってるわよ」
「確かにちょっと遅いかもな……あいつ、お前みたいに買い食いするわけでもないのに」
オズが気をそらすためにいつものような軽口を言ってみせたが、ジゼルは返事もせず視線を通りの人波へと泳がせていた。
蒼銀の髪が、落ち着かないように揺れる。
「エルが、わざと遅れる理由ってある?」
その言葉には、皮肉よりもわずかな不安の色が混じっていた。
オズは口をつぐむ。
確かに、エルは時間に厳格な性格ではない。
だが、約束をすっぽかすような真似だけは、決してしない類の人間だと、オズは知っていた。
「……街の中だ。迷子ってことはないと思うが」
自分に言い聞かせるように呟き、オズはもう一度通りを見渡した。
黒髪の少年の姿は、どこにも見えなかった。
ジゼルが舌打ちをひとつ。
「迎えに行くわよ、モジャ」
「お、おい、勝手に決めるなって!」
「アンタだって、気になってるんでしょ?」
蒼い瞳がじろりと睨む。
図星を刺され、オズは言葉に詰まった。
「……分かったよ。市場通りから順番に当たっていくぞ」
「最初に見つけた方が勝ちね」
ジゼルがそう言い捨てると、外套の裾を翻し、人波の方へと歩き出した。
オズも小さく息を吐き、彼女の後を追う。
その頃には、エルが宿屋の前に戻ってくる気配は、どこにもなくなっていた。
* * *
「待ってくれ……!」
声を出したかどうか、自分でも覚えていなかった。
群青の髪の女は、振り返らない。
ただ、雑踏の中を一定の歩幅で進んでいく。
(見失うな)
エルは人波をかき分ける。
肩が何度も誰かとぶつかり、そのたびに短い罵声や「気をつけろ!」という声が飛んだが、耳に入ってこなかった。
視界の端で、群青の髪が角を曲がる。
「っ……!」
石畳を蹴ってそのあとを追う。
曲がった先は、さっきまでの賑やかな通りよりわずかに人影が少ない横道だった。
湖から吹き込む風が、通り抜けていく。
群青の髪が、そのたびにゆるやかに揺れた。
(間違いない……オンディーヌだ)
滅国の前――まだガレオンが“皇国”と呼ばれていた頃。
宮殿で何度か遠目に見た横顔と、変わらない。
冷たい水面のような群青の髪と瞳。
皇族に仕える“四神官”のひとり、“湖の魔女”。
死んだと思っていた女。
生きていて。
そして、あの偽りの“皇子”の背後に立っていた。
胸の奥が、焼け跡に触れたように軋む。
「オンディーヌ!」
今度は確かに、声に出して名を呼んだ。
横道に反響したその名に、前を行く女の肩が、わずかに揺れた気がした。
だが、足は止まらない。
通りの先が、少しずつ開けていく。
石造りの建物が途切れ、視界の隙間から、セリューヌ湖の水面がちらりと覗いた。
(湖の方へ――)
まだ追いつける距離だ。
だが、エルは魔法を使うことを躊躇した。
人目がある。
街の中で、勇者の血と星の両方を晒すような真似は、できる限り避けるべきだ。
ただ、足を前に出す。
息が少しずつ荒くなっていく。
女の歩く速度は、不自然なほど一定だった。
逃げているというより――
(……誘っている?)
そんな考えが脳裏をかすめた瞬間、群青の背中が角を曲がる。
今度は、さっきよりも細い路地だ。
「くそ……!」
自分でもらしくない言葉が漏れる。
それでも足を緩めることはできなかった。
路地に飛び込む。
湿った石の匂い。
すぐ先に、抜け道の光が見える。
エルは勢いのまま、路地を抜け――
踏み出した先で、思わず足を止めた。
そこは、小さな広場だった。
建物と建物の間にぽっかり開いた空間で、中央には古い井戸がひとつ。
その向こう、湖面と空とが斜めに切り取られ、陽光が白く反射している。
そして――
群青の髪の女が、井戸の縁に片手を置いて、こちらに背を向けたまま立っていた。
追いついてしまえば、逃げ道はないはずなのに。
なぜか、エルの足だけが地面に縫いとめられたように動かない。
風が吹く。
湖から運ばれた冷たい空気が、狭い広場に満ちた。
「……そんなに、息を切らせて」
女の声がした。
振り向かなくても分かる、落ち着いた声音。
昔、遠くで聞いた声と、変わらない響き。
「私のことを追いかけて下さるなんて……なんと光栄なことでしょうか」
ゆっくりと女が振り向く。
群青の髪が風に揺れる。
深い青の瞳に見つめられる。
絡め取られ、そのまま沈められるような感覚。
溺れないように、もがくように声を振り絞る。
「オンディーヌ・デュ=ラック……本当に……」
名を呼ばれた湖の魔女が、薄く笑みを浮かべる。
その笑みが何を意味するのかは分からない。
「まさかこの地で再びお会いできるとは思いませんでした。エルキュール殿下」
その呼び名が、焼け落ちたはずの過去を、容赦なく現在へと引きずり出した。
* * *
「エルー!」
ジゼルの声が、通りにかき消されながら飛んでいく。
市場通りは、さっき宿の前で見た以上の賑わいだった。
荷車が行き交い、客引きの声が重なり合う。
それでも、黒髪の少年の姿はどこにも見えない。
「いないな……」
オズが人波の向こうを見渡しながら息を吐く。
「だから言ったじゃない。最初に見つけた方が勝ちって」
ジゼルはぶつぶつ言いながらも、視線を絶えず動かしていた。
そのとき――
「ちょ、危ないぞ、お嬢ちゃん!」
すぐ横で、商人らしき男が足を止めた。
ジゼルは思わず立ち止まり、男の視線を追う。
路地へと折れる角のところに、布袋がひとつ、ぽつんと落ちていた。
「……これ」
ジゼルが足早に近づく。
見覚えのありすぎる、くたびれた精霊工芸の布袋だった。
中には、乾燥肉、黒パン、薬草、薬瓶、火打ち石――
オズがメモに書かせた品々が、きちんと詰め込まれている。
「ああ、俺の精霊工芸だ。エルに貸してたやつだ」
オズが低く言う。
ジゼルは頷き、ぎゅっと布袋の口を握りしめた。
「……アンタの言う“おっとり”って、荷物を落としていなくなること?」
「いや、違う」
即答だった。
エル・オルレアンには、多少抜けているところはあるかもしれない。
だが、こんな大事な荷物を道端に放り出したまま、どこかへ行くような奴じゃない――とも、オズは知っていた。
「――何かに、気を取られたか」
オズが呟く。
「もしくは、連れ去られたか、ね」
ジゼルが言葉を継ぐ。
ふたりは顔を見合わせ、同時に路地の奥へと視線を向けた。
その先に、黒髪の少年の姿は見えない。
だが、もう「のんびり待っていれば戻ってくる」などとは、当然思っていなかった。
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