第五章 第二十節「私はお前を憐れまないよ」
半人たちの集落には、もう蹄の音ひとつしなかった。
簡素な木造の小屋が輪を描く中央の広場に、春の風だけが吹き抜けていく。
土の上には、ついさっきまでそこにいた者たちの足跡だけが、無数に刻まれていた。
「送迎なんて、随分と好待遇だな」
燃えるような紅髪を揺らしながら、オリヴィア・スカーレットが肩越しに呟く。
「我々の最後の役目も、ようやく終わったからな」
半人の長カムラッドは、両手で杖を支え、目を閉じたまま答えた。
その声には、奇妙な静けさと諦念が混じっている。
「あの仔らにも、一度でいいから森の外を見せてやりたかった」
「“あの仔ら”ね」
オリヴィアは鼻で笑う。
「……あれも、お前の“魔法”だろう? なあ、カムラッド」
問いかけても、半人の長は何も言わなかった。
沈黙だけが、答えの代わりに広場を満たす。
オリヴィアは小さく息を吐くと、赤い瞳を細めた。
「何の因果か知らないけれど、私はお前を憐れまないよ」
紅蓮の魔導師は、淡々と言葉を紡いでいく。
「この世界に残された、ただひとりの半人――月の導き手としての役割を、よくもまあ、立派に務め上げたものだ」
カムラッドは、ようやく薄く目を開けた。
その瞳には、どこか満足にも似た色が宿っている。
「ここは、良い場所だった」
オリヴィアは広場を一度見回し、ゆっくりと弓を構えた。
紅髪がひるがえり、背に負った星弓が、かすかな光をまとって姿を現す。
「何か言い残したことはあるか?」
真っすぐに弓を構える。
「一つだけ。何故あの青年にだけ、あのような“枷”を?」
意外な言葉に、オリヴィアは目を丸くする。
「へえ、意外と気にかけてるんだな? 気に入ったか? そうだな……あれは、まあ“保険”だよ」
カムラッドはその言葉を聞き、頷く。
そして、穏やかな表情で瞳を閉じた。
「……さて、約束の時だ」
弓弦にかけられた指先に、紅い魔力が集束していく。
「星弓から放たれる“唯一”の魔法――『三本の矢』。不死をも貫く紅蓮の閃光」
星弓に刻まれた魔法は、初めからそれひとつだけだった。
「その一本〈プリオル〉を捧げるに、お前は値する」
オリヴィアは、名残惜しそうでもあり、どこか冷徹でもある声音で告げた。
「さようならだ、カムラッド」
紅い矢が、音もなく生まれる。
次の瞬間、それは空気を裂き、集落の中心へと吸い込まれていった。
半人たちの集落が、紅い光に包まれる。
静寂の中で立ちのぼった光の柱が――
森の緑と、木の家々と、そこに刻まれたすべての記憶を、ゆっくりと呑み込んでいった。
* * *
レガリア共和国、北の都アンシャン・ド=ロワ。
金竜の神威の焼け跡の上に再建されたこの都市には、当時にはなかった施設がひとつ、静かに建っていた。
魔法協会の支部である。
『滅国の七日間』で金竜が最後に訪れ、そして姿を消した街。
その幻影を追うために、この街には新たな支部が設けられていた。
その一室で、ひたすらに書き物をしている男がいる。
オズワルド・ミラー。
彼は、中央平原縦断の軌跡を、報告書と共にひとり黙々と記していた。
湖の城に現れた皇子、そして魔女の謎を追う――そう決めたのは、友人の黒髪だ。
その決断に、オズは何の疑問も抱いていない。
ただ、その前にやるべきことがあると考えていた。
準備と整理を、一度きちんと済ませておきたかった。
そのため、彼はこうしてひとり籠り、数々の報告書を書き下ろしている。
羊皮紙の上を走る羽根ペン。
その一文一文に、あの竜使いの魔女の姿が、どうしても重なってしまう。
半人に関する報告に差し掛かったとき、ペン先が完全に止まった。
それは、星の儀という抱えがたい事実を思い出したからか。
それとも、自らと同じ「星」を名乗ったあの赤髪への、形のつかない恐怖のせいか――
そのどちらなのか。
まだ、彼自身にも整理がついていなかった。
* * *
ジゼル・ブラウロットは、自身の精霊魔法で築いた簡易工房に籠っていた。
携行用の結界を展開して作られた小さな空間には、低めの作業台と、工具と、磨き布と油壺だけが並んでいる。
外の喧騒は、まるで別の世界の音のように遠かった。
作業台の上には、姉であり故郷の頭領でもあるヘルガから託された戦斧ブラウロットが横たわっている。
小人であるジゼルの身長より長いその斧は、柄の根元を固定しなければ動かすことすら骨が折れる代物だった。
刃についた血と汚れは、すでに落としてある。
今やっているのは、その先――斧そのものを長持ちさせるための、静かな作業だ。
布に油を含ませ、ジゼルは踏み台に乗って身を乗り出した。
刃の根元から先端へと、ゆっくりと滑らせていく。
欠けがないか、ひずみが出ていないか、小さな指先と真剣な視線で確かめながら、同じ場所を何度も何度もなぞる。
金属がかすかに軋む音。
油の匂い。
手を動かしているあいだだけは、余計なことを考えずに済む。
やがて、磨き上げられた戦斧の刃に、自分の姿が映り込んだ。
蒼銀の髪。
ふと、思い出す。
蒼い月。
星の儀。
何かとてつもなく厄介なことに巻き込まれている――そこまでの理解は、さすがの彼女にもある。
だが、殊この件に関しては、何をしていいのかまるで分からなかった。
星だの儀だのといった話は、どれだけ考えても斧の間合いには入ってこない。
斧を振るうべき相手が目の前にいるなら迷わないのに、とジゼルは心のどこかで苛立ちにも似た感情を覚えていた。
刃先に映り込む、自分の顔。
蒼い月と呼ばれた髪色も、特別な何かがあるようには見えない。
ただ、見慣れない「自分」がそこにいるだけだ。
ジゼルは小さく舌打ちし、一度首元を乱暴に擦った。
もう一つ、気に食わないことがあった。
あの夜の出来事――謎の黒い外套に一発で落とされたことももちろん悔しかったが、それよりも。
オズは、何かを隠している。
あの夜の出来事を語る気がまるでない。
尋ねようとすると、必ず表情に影を落とす。
(そもそも、あのとき私が落ちてなきゃ――)
ふがいなさにも腹が立つ。
そんな自分が、刃の中でこちらを睨み返していた。
ジゼルは布を持ち直し、映った像をこすり消すように、ゆっくりと刃を拭う。
いくつも積み重なった疑問の答え。
そのどれか一つでも、自分の手の届くところに現れる日が来るのか――今の彼女には、まだ見当もつかなかった。
* * *
エル・オルレアンは、かつてのセリューヌ――今はアンシャン・ド=ロワと呼ばれる街を歩いていた。
手には、端のちぎれた羊皮紙が一枚ある。
そこには、急いで書きつけた文字が並んでいた。
乾燥肉に硬い黒パン、保存のきく薬草を数種、薬瓶、油、火打ち石――
買い終えたものから順に、オズから借りた精霊工芸の布袋にしまい込んでいく。
何度目かの開閉をしながら、エルはその袋を改めて見つめた。
(……本当に便利だな、これ)
もしこれがなければ、両手どころか腕いっぱいに荷を抱えて歩く羽目になっていたはずだ。
ふと、思い出す。
このように街中で買い物をしたのは――たぶん、ヴィクトリア以来だ。
師であるマリアに連れ回され、魔導書と薬瓶と得体の知れない素材を山ほど抱えさせられたこと。
彼女は笑いながら、あれもこれもと棚から引き抜いていった。
文句を言いながらもついて歩いた自分が、今は少しだけ懐かしい。
(そのヴィクトリアまで、あと少しなのに)
エルは足を止め、通りの脇で人の流れをやり過ごしながら空を見上げた。
勇者が、魔族という種族を滅ぼしたということ。
それが、星の儀によって行われたということ。
勇者の血も、星も。
その両方が、自分のなかにある。
どちらも、望んで手に入れたわけじゃない。
だが――
勇者の血の繋がりを、僅かでも喜べる出来事もあった。
ローレシアの皇帝、アナスタシア。
遥か遠く、血を辿った先にかろうじて見つかる程度の繋がりにすぎないが、彼女は自分を「親族」と呼び、道を示してくれた。
魔術師団を持て、と。
自分らしくあるために、と、彼女は言った。
(あの言葉には、ちゃんと向き合わなきゃいけない)
エルは羊皮紙を握る手に、わずかに力を込めた。
そうして、また歩き出す。
湖の城に現れた「皇子」。
勇者の鷲と銀の波紋を掲げ、民の前で「古の勇者の血は還った」と宣言した男。
(そして、この血を騙る者がいるのだとしたら――)
そのときだった。
「わっ――」
正面から来た男と、あっさり肩がぶつかった。
少し注意していれば、いくらでも避けられたはずの距離だった。
「す、すみません!」
「いえ、こちらこそ」
落ち着いた声でそう答えた男は、エルより一回りほど年上に見えた。
旅の商人らしい、くたびれた外套と革の鞄。
腕に抱えた小さな木箱を抱え直し、口元だけで薄く笑ってから、何事もなかったように人波へ紛れていく。
年齢の割に、横顔には不思議な若さが残っていた。
だが、エルはそれを深く気に留めることはなかった。
布袋の中で、買い込んだ瓶や道具がガサ、と短く鳴る。
そちらに意識を取られ、彼は男の後ろ姿をすぐに見失ってしまった。
エルは一瞬きょとんと立ち尽くし、それから小さく首を振る。
(……考えごとしすぎだ)
自分にそう言い聞かせるように、息を吐いた。
(もし本当に、あれが偽物なら)
僕は、目を逸らすわけにはいかない。
胸の奥でそう呟き、エルは再び歩き出した。
羊皮紙の残りの項目に目を走らせながらも、視線の先には、湖上の城――
モン・ド=ロワの影が、ちらついていた。
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