第五章 第十九節「僕は、確かめたい」
セリューヌ湖のほとり。
街の中心部から一段下がった斜面に、人だかりができていた。
子どもを肩車する者、荷車の上に立つ者――誰もが湖の中央、モン・ド=ロワの城の方角を見つめている。
若い男の姿を見なかった理由は、すぐに分かった。
「街から若者が消えていたのは、皆ここに集められていたからか」
オズが湖畔を固める衛兵たちを見て、呟く。
等間隔に並ぶのは、まだ若い衛兵たちだった。
鎧は寄せ集めのように傷み、古めかしい。
だが、その顔には緊張が走り、初々しさがあった。
その列の中央――モン・ド=ロワから真っすぐ延びる位置だけが、不自然に空いている。
そして城の塔には、先ほど街で見た旗。
勇者の鷲と、銀の波紋の印――
その二つを重ねた大旗が、春の風に大きく翻っていた。
「……何かあるみたいだな」
オズが額に手をかざし、湖の光を遮る。
「全然見えないわよ」
ジゼルが小声で愚痴る。
「……土台にはならねえぞ」
冗談とも本気ともつかない声色。
それは、今のオズが演じられる精いっぱいの「いつもの自分」だった。
「はあ? 誰もそんなこと言ってないじゃない……モジャ、アンタちょっと変よ?」
「……すまん、忘れてくれ」
視線は湖に向けられたまま。
その声には、隠しきれない心労がにじんでいた。
ジゼルも何かを察したのか、「ふん」と鼻を鳴らすだけにとどめ、それ以上の深追いはしなかった。
そんな二人のやり取りを横目に、エルもまた落ち着かない様子で、ただ湖上の城を見つめていた。
光の加減で城壁がきらめくたび、彼の胸の奥で、何かがざわめく。
轟、と短い音が鳴った。
城の方角から、光の花が咲く。
祝砲のような閃光が昼空を割り、群衆のあいだから歓声が上がった。
「始まるぞ!」
誰かが叫ぶ。
湖には、これまで何もなかったはずの水面に、石の回廊が浮かび上がっていく。
まるで湖底からせり上がってきたかのように、一直線にモン・ド=ロワの城門へと伸びていく。
重い音を立てて、城の門が開いた。
先頭の衛兵が大きな旗を掲げ、整然とした隊列が廊を渡り始める。
陽光を受けた鎧がきらめき、衛兵たちはレイピアのような細身の剣を胸の高さで掲げていた。
やがて、ひときわ大きな歓声が起きた。
その声が向けられているのは――
先行する衛兵たちの後ろから現れたひとりの人物だった。
青い礼装に赤いマント、金の王冠を戴き、黒髪を陽に輝かせている。
「マクシミリアン皇子だ!」
「見て! 背が高いのね!」
「ここからでも分かるわ、あの気品……!」
人々が口々に叫び、群衆は押し寄せるように歓声を上げた。
三人は揉まれぬよう、少し離れた場所に身を寄せた。
喧騒の中で、エルの顔だけが曇っている。
「へえ、あれが湖の城の“王子様”ね」
ジゼルが呟く。
「顔立ちまでは見えないけど……確かに、エルみたいな雰囲気だ」
オズが腕を組む。
しかし、エルは口を閉ざしたままだった。
血の気が引いたように、顔色が悪い。
「どうした?」
オズが問う。
「……知らない」
エルはかすれた声で答えた。
「マクシミリアンなんて名前、少なくとも……ド=ロワの血統にはいない。本家でも、分家でも。そんな人、聞いたことがない」
「……じゃあ、あれは?」
ジゼルが息を呑む。
エルは湖上を見つめた。
風が再び旗を翻し、二つの紋章が交互に輝く。
「……誰なんだ、あれは?」
群衆の歓声とは裏腹に、エルの声だけが、沈んだ湖底のように重く落ちた。
オズとジゼルも、その異様な沈黙に気づき、ようやくこの街の“祝祭”が――
何かを覆い隠すためのものだと悟り始めていた。
歓声が一段と高まる中、エルの顔がさらに強ばった。
マクシミリアンの背後――
その後ろを、一人の女性が歩いていた。
ジゼルの蒼とは異なる、夜を閉じ込めたような深い群青。
黒いドレスの裾が石廊をかすめ、左手には長杖を携えている。
群衆に手を振る皇子の背後で、彼女はまるで“影”のように、一定の距離を保ったまま歩いていた。
その視線はずっと、足元の石に落とされたまま。
誰とも目を合わせようとしない。
しかし、その存在だけで、空気が明らかに変わった。
最初にそれを口にしたのは、エルではなかった。
「……あの魔女、何考えてるんだ? 何も隠す気がない」
オズの声が低くなる。
「周りの連中、誰も気づいてないの? これだけ離れてるのに、息苦しい……不快だわ」
ジゼルが顔をしかめる。
圧――それはまるで、水底に沈められたような感覚だった。
胸の奥で、呼吸の泡が弾ける。
そして、エルが掠れた声で名を呼んだ。
「……オンディーヌ・デュ=ラック」
彼の喉がひとつ震える。
溺れた者が空気を求めてもがくように、やっとのことで続けた。
「ガレオン皇族に仕えた“四神官”の一人……“湖の魔女”オンディーヌ。……生きて、いたんだ」
「じゃあ、あの王子様は――本物なの……?」
ジゼルの声が揺れる。
そのときだった。
女の顔が上がった。
群青の瞳が、湖の光を映して淡く光る。
遠く隔たっているはずなのに、その視線が、まっすぐこちらを射抜いた気がした。
風が止まり、群衆の歓声が遠のく。
音が、色が、水の中に沈んでいくようだった。
――エルは確かに感じた。
その女が、自分を見たと。
そして、確かに、笑っていたと。
湖の城からちょうど半ば――
水面の上に、円形の舞台が築かれていた。
石の回廊の延長線上に張り出したその壇上に、マクシミリアンと群青の魔女が立っている。
「……演説が始まるみたいだな」
オズが小声で呟く。
湖畔に等間隔で並ぶ衛兵たちが、腰に提げた巻き貝のような器具を掲げた。
次の瞬間、それが共鳴するように低く震え、マクシミリアンの声が湖全体に響き渡った。
「――民よ。再び古の勇者の血は、この地に還ってきた」
声は、空気を伝うよりも早く水面を揺らし、波紋のように街じゅうへ広がっていく。
だが、エルの頭は理解を拒んでいた。
言葉は確かに聞こえているのに、意味だけが頭に入ってこなかった。
頭の奥がずっと重い。
水面に顔を押しつけられているような圧迫感。
聞こえるのは音だけ――意味を結ばない残響ばかり。
顔を上げてマクシミリアンを見ようとする。
けれど距離があり、揺らめく陽光と水の反射が、その顔を覆い隠していた。
それ以上に、背後の“群青の魔女”の存在が、エルの視線を縫い止めていた。
見上げることすら、怖かった。
見た瞬間に――
何かを奪われる気がした。
声だけが、はっきりと耳に届く。
その声は、確かに知っている響きだった。
どの皇族にも似ているようで、どの皇族にも似ていない。
どこか人工的に整えられた、人らしさの薄い声。
――まるで誰かが、“皇子の声”というものを真似て造ったような。
エルは拳を握りしめた。
掌に、まだ癒えぬ焼け跡のような痛みが走る。
湖の風がその痛みを撫でるたび、背後の魔女の気配が濃くなる。
「……やめてくれ」
誰にともなく、呟いた。
だが、湖上ではまだ演説が続いていた。
その声が風に乗り、街じゅうを包み込んでいく。
まるで、祝祭ではなく――呪いの布告のように。
群衆の歓声が再び沸き起こった。
次の瞬間、城の上空に花火があがる。
昼の光の中で咲く眩い火花――演説はどうやら終わったらしい。
ざわめきが波のように広がる中、オズが静かに口を開いた。
「……“ガレオンを奪還する”。そう言ってたな」
先ほどまでの軽口は消え、声には硬い響きがあった。
「随分と不穏な話じゃないか」
「長居しすぎると、厄介なことに巻き込まれそうね」
ジゼルも真顔で応じる。
オズが腕を組み、エルの方へ向き直った。
「どうする、エル。今の俺たちの目的地はヴィクトリアだ」
一度視線を落とし、そして再度エルを真っすぐに見つめる。
「ここはあくまで通過地点。このままこの地を去るって選択も、できる」
「アンタの国だったんでしょ?」
ジゼルが静かに言葉を継ぐ。
「なら、アンタが決めなさい。私もオズも、それに従うわ」
湖から吹く風が三人の外套を揺らした。
歓声がまだ遠くで続いている。
しばらく沈黙していたエルが、ようやく口を開く。
「……僕は、確かめたい」
その瞳は、遠くモン・ド=ロワの城を見据えていた。
「――あの“皇子”と、“湖の魔女”が、何をしようとしているのかを」
陽光が湖面を照らす。
だが、その光の底には、言いようのない暗い影が、静かに沈んでいた。
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