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『 大学ノートの裏表紙』

作者: 小川敦人

『 大学ノートの裏表紙』


レジで店員に「ありがとうございます」と言われ、野村隆介は何故か恥ずかしさを覚えながら大学ノートをビニール袋に入れてもらった。「大学ノート」という名称が妙に引っかかる。高校を卒業してから五十数年、大学にも行ったが、もう随分と昔の話だ。

「なんで『大学』ノートなんだろう?」

帰り道、そんなことを考えながら歩いていると、近所に住む孫と同じ年頃の若者と鉢合わせた。

「野村さん!こんにちは!」

慌ててビニール袋を背中側に隠す隆介。なぜ隠したのか自分でも分からない。まるで、アダルトグッズでも買ったかのような後ろめたさ。

「あ、壮太か。元気かい」

「どうされたんですか?そんな怪しい動きして」

「い、いや、なんでもない」

彼は不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及せず、軽く会釈して別れた。


自宅に戻り、鞄からビニール袋を取り出す。「大学ノート5mm方眼 100枚」と書かれた青いノートが姿を現した。

「大学ノート」——その名前の由来を思い出す。昔、文房具店の店主から聞いた話では、明治時代に導入された西洋式の教育制度において、大学用に特別に設計された高品質のノートだったという。当時の大学生は限られたエリートだけで、彼らの勉強用に作られた罫線入りの丈夫なノートが「大学ノート」と呼ばれるようになったのだ。時代が進み、一般の学生も使うようになったが、名称はそのまま残った。


今や何もかもデジタル化され、メモ帳アプリやクラウドサービスで事足りる時代。隆介も息子に勧められてスマホを使うようになり、写真を撮ったり、LINEで孫とやりとりすることを覚えた。かつての会社では経理部長として働き、退職直前には部下たちにVBAを使った業務改善の指導もしていた。

妻の三津子が亡くなった時、あまりにも多くの手続きに翻弄された。保険や年金の手続き、銀行口座の名義変更、さらには彼女が管理していた様々なパスワードがわからず、デジタル資産にアクセスできないという問題にも直面した。

「自分がいなくなった時、子供たちや孫に同じ苦労はさせたくない」

そう決意し、終活セミナーに参加した隆介は、「大切な情報は紙に残しておくべき」という話を聞いて強く共感した。デジタルデータは消えることもあるし、家族が探せないかもしれない。

「よし、ここに大事なことを書いていこう」

テーブルに座り、ノートを開く。ペンを手に取る感覚が懐かしい。指先がわずかに震える。


「生命保険証券の保管場所...本棚の一番下の引き出し...」

「年金関係の書類...書斎の金庫...暗証番号は長男の誕生日...」

「銀行口座...メインは○○銀行...支店番号...口座番号...」

「各種パスワード一覧...PCのログイン...メールアカウント...」

気がつけば、すでに10ページほど埋めていた。デジタル全盛の世の中で、意外と書き留めておくべきことが多い。文字を書く感覚も悪くない。キーボードを打つのとは違う満足感がある。三津子がよく「あなたの字は"かくかく"しているね」と言っていたことを思い出す。

ふと、ノートを最後のページまでめくってみた。大学ノートの裏表紙。真っ白な紙がそこにあった。

そのとき、何の前触れもなく、脳内に懐かしいメロディーが流れ始めた。


♪大学ノートの裏表紙に早苗ちゃんて書いたの〜♪


「うわ、懐かしい!」

思わず声に出してしまった。41歳当時、流行っていた歌だ。それがまさか 65歳を過ぎた今、同じことをしようとは。

ふと、悪ふざけの衝動に駆られた。

「大学ノートの裏表紙には名前を書くものらしい」

ペンを手に取り、裏表紙に向かった。一瞬躊躇したが、笑いながら書いてしまった。

「〇〇さん」

取引先で60歳代の女性の苗字を描いた。最近、仕事関連で話すことが多く、先日、仕事以外のことで楽しく話した。

書いてから、自分の行動に赤面した。

「何やってんだ、俺...」

65歳を超えた老人が、好きな人の名前をノートに書くなんて。高校生じゃあるまいし。でも、どこか気持ちがほぐれていく感じがした。


次の日、取引先の駐車場で彼女と鉢合わせた。

「おはようございます」

「あ、野村さん、おはようございます」

妙に緊張する。昨夜、名前を書いたことが頭をよぎる。まるで、念が通じたかのように不安になる。

「あの、野村さん」

彼女が言った。

「はい?」

「先日は、ありがとうございました。助かりました」

「あ、また、いつでも言ってください...少しでもお役に立てて嬉しいです」

ちょうどそこで他の職員が出勤してきた。彼女は軽く会釈して先に移動していった。

「...また、か」

言葉の余韻が心地よい。


それから一週間ほど経ったある夜。再び大学ノートを開いていた。相続に関することや、葬儀の希望など、少しずつ書き足していく。長男と長女、そして、孫のために、できるだけ詳しく丁寧に書こうと心掛けていた。

「三津子、俺もちゃんと準備しておくよ」

亡き妻に語りかける。彼女を看取った時、あまりにも準備不足で苦労したことを思い出す。

ふと、また裏表紙が気になった。「〇〇さん」の文字を見て、照れくさい気持ちになる。

「本当に、何やってんだろう...」

自己嫌悪と同時に、不思議な高揚感。65歳を超えてから味わう、青春のような感情だった。

そのとき、インターホンが鳴った。

「はい?」

「お父さん、俺だよ」

長男の声だった。週末に訪れると言っていたことを思い出す。慌てて大学ノートを閉じ、本棚にしまった。


「お父さん、最近どう?」

「まあ、ぼちぼちだよ」

長男とリビングでお茶を飲みながら話す。

「母さんが亡くなってから十年か...早いな」

「ああ...」

沈黙が流れる。

「でも、最近はボランティアも始めたし、なんとかやってるよ」

「そうか、それは良かった」

長男が立ち上がり、本棚の方へ歩いていく。

「お父さん、この間言ってた写真アルバム、どこにあるの?」

「あ、それなら下から二段目の...」

言いかけて、隆介は焦った。大学ノートをしまったのは、その近くだ。

「いや、待って。自分で取るから」

急いで立ち上がる隆介。不審に思った長男が先に手を伸ばし、青い大学ノートを取り出してしまった。

「これは?」

「あ、それは...」

「終活ノート...?」

長男がパラパラとページをめくる。隆介はハラハラしながら見守る。もし裏表紙まで見られたら...

「お父さん...こんなことまで準備してくれてたの?」

長男の目に涙が浮かんでいる。保険や銀行口座、パスワードのリスト、さらには葬儀の希望まで記された内容に感動していたようだ。

「母さんの時は本当に大変だったから...お前たちには苦労かけたくなくてね」

「ありがとう、お父さん」

長男はそこで本を閉じ、裏表紙までは見なかった。隆介はほっと胸をなで下ろした。


取引先を訪問するとき彼女に会う。緊張と期待で落ち着かない。

「こんなの、高校生以来だな...」

と呟きながら、大学ノートを手に取る。今や、このノートには保険や年金の情報だけでなく、日々の思いも綴られるようになっていた。三津子への思い、子供や孫への伝言、そして...彼女との些細なやりとりも。

「本当に、いい年して何やってるんだろう...」

でも、どこか楽しい。デジタルデータでは味わえない、紙とペンのアナログ感。終活のつもりが、新しい始まりのノートになっていた。

「大学ノートの裏表紙に『〇〇さん』って書いたの〜♪」

かつて流行った歌のメロディーに乗せて、自分なりの替え歌を口ずさむ。

笑いながら、自分の姿を鏡で確認する。「そろそろ出かけないと」

大学ノートを本棚にしまい、家を出た。春の陽気がまぶしい土曜の午後。

65歳。人生の晩年。

「終活」のつもりが「始活」になるとは。

そして心の中でつぶやく。「〇〇さん、今日もよろしくお願いします」


数ヶ月後、再び大学ノートの裏表紙を開く。「〇〇さん」の隣に、小さく追記があった。

「→〇〇( 野村)さん?」

照れくさいながらも、幸せな気持ちで満たされる。いい年をして、まるで学生のような恋愛。でも、それが心地よかった。

終活を意識して始めたノート書きが、人生の新しいページを開いてくれた皮肉。子供たちのために始めたことが、自分自身の新たな喜びにつながった。

「大学ノート」の「大学」の意味なんて、もうどうでもよくなっていた。

歳を重ねて白髪が増えても、シワが刻まれても、人を好きになる気持ちは変わらない。むしろ、若い頃とは違う深みと優しさが加わり、より豊かな色合いを帯びてくる。人生の終わりに近づくと思っていた時に、こんな風に心が躍るなんて。終活のために買った大学ノートが、新しい人生の扉を開く鍵になるとは。

「歳なんて、ただの数字だ。好きという気持ちには、賞味期限がないんだ」

とひとり呟く。


隆介はペンを取り、ノートの最後のページに向かって書き始めた。

「今日でこのノートも終わりだ。始めは終活のため、子供たちに迷惑をかけないためだった。でも気がつけば、このノートのおかげで新しい気持ちに出会えた。歳を重ねても、人を思う気持ちは枯れない。そんな当たり前のことを、忘れかけていた自分に気づかせてくれた」

ペンを置き、窓の外を見る。三津子が好きだった夕焼け色の空。

「三津子、見ているかい? 俺、ちょっとだけ恋をしたんだ。どうだい、笑っているだろう?」

笑みがこぼれる。寂しさもあるが、心のどこかで温かい充足感が広がっていた。

「ありがとう」

誰に向けての言葉か、自分でもはっきりとはわからない。三津子に、彼女に、このノートに、あるいは自分自身に。

たった一冊の大学ノートが教えてくれた。人生は最後まで、誰かを好きになれる気持ちで満ちている。そして、それは決して恥ずかしいことではないのだと。

「おかげで、少しは若返った気がするよ」

隆介は立ち上がり、ノートを閉じる。新しい大学ノートを買いに行く時間だ。今度は、「終活ノート」ではなく、ただの「日記」として。

明日もまた、新しい一日が始まる。

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