感情がないと言われている冷酷王子は、私にだけヤンデレらしいです
「ねえ。聞いた? オリヴィエ殿下、またおひとりで魔物の大群を全滅させたそうよ」
「三を数えるうちに終わらせたとか」
「オリヴィエ殿下がいるうちは、我が国は安泰ね」
そんな噂話が王宮のあちこちから聞こえてくる。
なにしろ今日はオリヴィエ殿下率いる対魔討伐軍の勝利を祝う会だ。
かつてこの世界に栄えていたという魔族。滅びてしまったのか遠い地に移住したのか、知性がある種族は現在はいない。ただ魔物や魔獣と呼ばれる凶暴なケダモノは生き残っていて、頻繁に現れては人間の世界を蹂躙する。
我が国を含め、すべての国が魔術師と騎士からなる対魔討伐軍を結成して、殲滅活動をしている。そんな中で、我が国の討伐軍は群を抜く強さだ。オリヴィエ殿下が指揮官についてから、ひとりも戦死者を出していない。
「本当にすごいわ。オリヴィエ殿下は史上最強の魔術師ね」と、となりを歩く親友マリエルが嘆息した。
「おかげで僕は今回も出番なし」と、マリエルの旦那様のレナルドが苦笑する。
彼も対魔討伐軍に何度となく参加している魔術師だ。
「よかったじゃない。愛しい妻を未亡人にしたくはないでしょう?」
「もちろんだとも」
そう答えたレナルドは、歩みを止めてマリエルの首筋にチュッとキスをした。
お熱いことだ。
「独身の令嬢の前でそういうことをするのは、いかがなものかと思うわ」
「ああ、早くあなたたちが結婚してくれないかしら!」と、マリエル。「エクトルは本当にグズだわ」
私は彼女の弟エクトルと婚約中だ。恋愛結婚をしたマリエルたちとは違って親が決めた婚姻だけど、それなりに仲良くやっている。結婚式は来年の予定だ。
「だけど、リディアーヌ。私たちはラブラブだってアピールをしないといけないのよ。許して」
「そうね。あれはひどい噂だったものね」
少し前のこと。レナルドがあちこちのご婦人に手出ししているという、事実無根の噂が社交界を席巻したのだ。
彼は優秀かつ美男だから、きっと妬む輩からの嫌がらせを受けたのだろう。
「それにしてもあの子ったら、婚約者をエスコートしないでどこに行ったのかしら」と、マリエルが姉の顔になって口を尖らせる。
「彼は初めての出陣だったからね。興奮してお友達に語り聞かせているんじゃないのかな。オリヴィエ殿下の武勇を」と苦笑するレナルド。
「まったく。いくつになっても子供っぽいのだから、困ってしまうわ。リディアーヌ、ワガママな子だけど、よろしくね」
「任せて」
そう答えて笑顔を見せる。
……本当は頼りになる年上の男性が好きだけど。エクトルは真逆。ふわふわとしていて年下で、小さい弟のよう。それでも付き合いは長く気心はしれている。悪くない相手だと思っている。
でも本当に、エクトルはどこに行ったのだろう。
祝賀会では従軍したひとたちと招待客たちは、別に会場入りしなければならない決まりだ。双方は式典が終わり、パーティーが始まるまでの間に落ち合うのが普通なのだけど、エクトルは私の元に現れなかった。
それで心配したマリエルとレナルドが、一緒に探してくれることになったのだ。
だけど会場の大広間ではエクトルを見つけることができなかった。代わりに『廊下でみかけた』と聞いたので三人で出てきたのだけど、やっぱりみつからない。もしかしたら広間の中ですれ違ってしまったのかもしれない。
マリエルたちに『いったん戻ろう』と提案しようとしたそのとき、背後で『きゃあっ!』と黄色い歓声があがった。
振り返ると本日の主役、オリヴィエ殿下がいた。
彼はとても女性人気が高い。第二王子という身分で、我が国史上最強と称えられる凄腕の魔術師で、二十三歳の若さで魔術庁長官を務め、筆頭魔術師でもあり、そして稀に見る美貌の持ち主なのだ。つややかな黒髪と漆黒の瞳、対して肌は陶器のような白さ。そして完璧な造形!
なにより世の女性たちを魅了してやまない要素。独身! 婚約者なし!
彼が決まった相手をつくらないことに関しては、様々な噂がある。
一番有名なのは、感情がなく、人間に興味を持てないからというもの。『人間』は他人だけでなく自分も入るのだとか。彼が惹かれるのは魔術だけ。
実際に、オリヴィエ殿下は仕事以外では人と接することはないという。
黄色い歓声を送ってくる令嬢のことも、当然眼中にない。
令嬢のひとりが、勇気を奮い立たせて話しかけた。けれどオリヴィエ殿下は一瞥すると
「邪魔だ」と無表情のまま言い放ち、通りすぎる。
どこからか、
「さすが、冷酷王子」
「でもそれも素敵なのよねえ」
なんて言葉が聞こえてくる。
私はそうは思えない。もしも恋愛相手を選べるのなら、私をちゃんと見て、笑ってくれるひとがいい。マリエルとレナルドがそうで、とても羨ましいのだ。エクトルは優しい人だけど、弟としか思えないし、あまり笑わない。
「ねえ。オリヴィエ殿下は私たちに向かっていない?」
マリエルが声をひそめる。
「まさか。方向が同じだけでしょ」
伯爵令嬢である私にとって、殿下は雲の上の人だ。それはマリエルも一緒のはず。レナルドは殿下と同じ魔術師だけど、階級がかなり違う。直接会話をすることは、ほぼないと聞いている。
気にせず進もうとしたら、氷のような声で、
「レナルド・ドバリー」とレナルドが呼び止められた。
ふたたび振り返ると、無表情の冷酷王子がレナルドを見ていた。さすがに足を止めて、三人でかしこまる。
「ドバリー、なぜ広間を出ている」とオリヴィエ殿下。
「人を探しております。妻の弟で、こちらのロラン伯爵令嬢の婚約者である者を」
「なるほど」と殿下はまったく温度を感じさせない声で答える。「ならば、それは私が引き受けよう」
はい?
なんですって?
私が驚いているうちに話はまとまり、マリエルたちは足早に広間に戻って行った。レナルドの上役が彼らを探しているらしい。
――それはわかったけど、どうしてオリヴィエ殿下が私を引き受けるの? 意味がわからない。
無表情でなにを考えているかわからないオリヴィエ殿下が、
「探しているのはエクトル・ジュアンで間違いないか」と訊いてきた。
そうだと答えると彼はなにやら呪文を唱えた。
ポッ、と小さな光の玉が空中に現れる。そしてふわふわと動き出した。
「あれが本人のもとに導いてくれる」とオリヴィエ殿下。
「……ありがとうございます」
というか、すごい魔法だわ! こんな術は見たことも聞いたこともない。さすが筆頭魔術師!
しかも王子様で魔術庁の長官という高い身分なのに、ヒラの魔術師のことまでご存じなの?
他人に興味はなくても、知らないことはないのかもしれない。
――それにしても。まさかオリヴィエ殿下とふたりきりで王宮の廊下を歩くなんてことが起きるとは。周囲にものすごく見られている。特に女性。あからさまに嫉妬の目で私を睨んでいる。
仕方ない、と思う。彼女たちはきっと、誰が殿下に並んでも納得しないだろう。あげくに今となりにたっているのはたかが伯爵令嬢で、たいして器量良しでもない人間なのだから。
ただ。実は彼と私は、今回が初めての近距離ではない。殿下はご存じないけど。
殿下は我が国史上最強の魔術師様。その身に宿す魔力も計り知れない。
けれど、なんでも過ぎたるものは毒になる。
オリヴィエ殿下は定期的に莫大な量の魔力を放出しないと、自家中毒を起こしてしまうらしい。
放出は、魔物の討伐で済んでいる。
だけど一年ほど前のこと。どうしてなのか、魔物がまったく現れない期間があった。そのときに殿下は、視察先の辺境の地で自家中毒を起こしてしまったのだ。しかもたったひとりで、渓谷にいるときに。
そこに居合わせたのが私だった。私は優秀な弟と違ってほとんど魔力がないのだけど、それがよかったらしい。
オリヴィエ殿下の多すぎる魔力をなぜか吸収し、しかも無効化してしまった。きっとそういう体質なのだろう。
このとき私は変装していたし、名乗れない事情もあった。だから殿下は死にかけていた自分を助けたのが私だとは知らないはずだ。私も生涯胸の内にしまっておくつもりでいる。
二度と殿下と関わることはないだろうと思っていたのだけど、おかしなことになったものだ。
ふわふわと動く光の玉を追って、殿下とともに廊下を進む。
やがてそれは、ひとつの扉の前で止まった。
「もしかして具合が悪くて休んでいるのかしら」
私がつぶやくのと、オリヴィエ殿下が扉を開けるのはほぼ同時だった。
真正面の長椅子に、エクトルがいた。半裸で。女性の上に乗っている――。
なるほど。
エクトルは祝賀会で婚約者に会うことよりも、ほかの女性との色事を優先したわけだ。
急速に手足が冷えていく。
自分のお気楽さが情けなくて、吐きそうだ。私はなにも、わかっていなかったんだ。
慌てふためきながらエクトルが、
「違うんだこれは」とか
「なんで来るんだ」とか叫んでいる。
「『なんで』って……。姿が見えないから探したのよ」
「それぐらいで探すなよ! 僕には自由時間もないのか!」エクトルは開き直ったのか、怒り出した。「これだから行き遅れの年増はいやなんだ!」
確かに私はもう二十歳。でも行き遅れた理由はエクトルだ。彼がもう少し大人になるまで待ってくれと頼んできたからだ。私はお母様が元気なうちに式をあげたかったのに。優しいお母様は将来の義理の息子の意見を聞き入れ、私の挙式を見ることなくこの世を去った。
「もう嫌だ! こんなところに踏み込んでくるデリカシーのない女とは結婚なんてできない! 破棄だ破棄! 婚約破棄!」
怒りがふつふつと湧いてくる。自分に対してなのかエクトルに対してなのか、わからない。ただただ腹立たしい。
「……なにそれ。自分の不義は棚に上げて、私だけを責めるの? いくらマリエルの弟だって、そんな見下げた男、私だってお断りだわ!」
その時私の横を誰かがすり抜けて、部屋に駆け込んだ。その人はエクトルに突進すると、彼の頬を平手打ちした。エクトルの身体が衝撃で吹っ飛ぶ。
彼を叩いたのは父親のジュアン伯爵だった。私にむかって土下座すると、
「愚かな息子で申し訳ない!」と叫んだ。
「リディアーヌ!」と今度はマリエルの叫び声がした。振り返ると血相を変えて走って来る姿が見えた。「バカな子でごめんなさい!」
「……どうしてみんな、状況を知っているの?」
ジュアン伯爵は、もしかしたらそばにいて様子を見ていたのかもしれない。だけどマリエルは広間に戻ったはずよね?
「私が状況を魔法中継をした」
そう言ったのはオリヴィエ殿下だった。まるで隠れるように立っていた、扉の影から出てくる。
「レナルド夫妻が心配するだろうから、彼らと別れたところからずっと」
「……ずっと?」
半裸のエクトルと、長椅子の後ろに身を隠している女性を見る。
「あの姿も?」
「広間中のひとが見ているわ!」とマリエル。
なんてこと。こんなに情けない場面を……
あまりのことに、めまいがして身体がふらつく。
倒れると思った次の瞬間、抱きとめられた。
「大丈夫か」と頭上から声がする。
見上げると、冷酷と言われるオリヴィエ殿下が、心配そうな表情で私の顔をのぞきこんでいた。
――感情なんてないのではなかったの?
もう、なにがなんだかわからない。
混乱しすぎて返答できないでいると、殿下にふわりと抱きかかえられた。
「リディアーヌ嬢はだいぶ参っているようだ。私がお預かりしよう」
おあずかり?
ますます意味がわからない。
これは一体どういう状況なの?
どうして他人に興味がないはずの殿下に、私は抱き上げられているの?
「あの、殿下……?」
恐る恐る声をかけると、オリヴィエ殿下は私を見た。
「心配はいらない。あとは私に任せておけ」
そして、大輪の花がほころぶような、素敵な微笑みを浮かべた。
あまりの美しさに心臓が跳ね上がる。
だけど本当の本当に、なにが起こっているの?
これは夢なのかしら。
◇◇
オリヴィエ殿下は私をお姫様抱っこしたままどんどん王宮の奥に進み、最終的には関係者以外立ち入り禁止の居住エリアに入った。
そしてようやく私が降ろされたのは、とんでもなく豪華な部屋の長椅子の上だった。しかも私たちのほかは誰もいない。
「ここは……?」
「私の私室だ。安心してくつろいでくれ」
感情がないはずの冷酷王子が、またも微笑む。
あまりの尊さに一瞬みとれるけど、待って。そうじゃないでしょ、私?
どうして王子様の私室に連れてこられているの。おかしいでしょ? しかもとろけるような微笑みつきって。
オリヴィエ殿下は自家中毒を起こしているときでさえ、焦りも恐怖も感じていないように見える無表情だったのだ。それなのに――
殿下は優雅にわたしのとなりにすわった。
そう、わたしのとなり!
こんなのは見知らぬ男女の距離じゃない。見知っていても、マナー違反。エクトルとだってこんなに近づいたことはない。
あふれる疑問、異性のそばにいる緊張、なにより麗しすぎる殿下のお顔(いい香りつき)のせいで、頭がうまく働かない。
「リディアーヌ嬢」
甘い声で名前を呼ばれた。誰に? オリヴィエ殿下? まさか!
スッと手を取られる。オリヴィエ殿下に。
「脈が早いな。やはり体調がすぐれないようだ」
いえ、それはあなたのせいです。
殿下がパチンと指を鳴らした。その手にグラスが握られている。中にはたくさんの気泡がたちのぼる淡いピンク色がなみなみと入っている。
「回復薬だ。飲みやすいように特別にクランベリー味にしてみた。好きな果実だな?」
「……どうしてご存じなのですか?」
殿下が照れたように微笑む。そして、
「さ、飲むといい」
と、グラスを私に差し出す。
どうして質問に答えてくれないの?
これ、本当にただの回復薬?
急激に恐怖心が膨れ上がる。
「ああ!」パアッと殿下の表情が明るくなった。「口移しで飲むほうがいいのか! 気づかなくてすまなかった」
「っ! いえいえいえ! 違います!」
殿下が口元に運びかけたグラスを奪い取り、神に祈りながら一気に飲み干す。
――確かにクランベリー味の炭酸飲料で、味はよかった。とりあえず生きているし意識もあるし、心なしか元気が出たような気がするしで、ほっとする。これから体に異変が出なければいいのだけど。
そっと殿下を伺うと、あきらかにしゅんとしていた。まるで雨に打たれた子犬のようだ。
「ありがとうございます」一応、お礼を言って、空のグラスを卓上に置く。「すみません、混乱していて。ええと。私はなぜ殿下の私室にいるのでしょう? それにまだ祝賀会の真っ最中では? 殿下が主賓ですよね?」
オリヴィエ殿下が小首をかしげる。あまりの尊いお姿に、またもみとれてしまう。
が! 流されてはだめ! どう考えたって異常事態の真っ最中なのよ!
「祝賀会よりリディアーヌ嬢のほうが百万倍大切だが?」
ほんと、待って。どうしてそうなるの?
「――だが、あのような恥知らずの場面を見たのだ。ショックを受けて混乱するのは当然か」殿下はそう呟くと、何度目かわからない微笑みを浮かべた。「あの阿呆たちにはきちんと制裁を加えた。早く忘れるといい」
「『くわえた』?」
なぜ過去形?
「彼らが使っていた部屋は、母上のお気に入りで許可したものしか入室を許していない。そこに勝手に忍び込んだのだ。罰せられて当然だろう?」
「……ですね」
「エクトル・ジュアンは解雇、ふたりとも母上の存命中は王宮への立ち入り禁止」
オリヴィエ殿下はまたも微笑む。
「彼は嫡男とのことだが、そのような者に爵位は授けられないな」
つまりエクトルは実質、ジュアン家から絶縁されるということであり、貴族社会からも追放されるということだ。
「それと二度と過ちをおかさないよう、不義を実行しようとするとアラームが鳴って周囲に知らせる魔法をかけておいた」
「……」
なかなかに嫌な魔法だ。でも不義でなければセーフなのかな?
というか殿下はどうして、そんなことを。
いや。ちょっと待って。
「あのお部屋で私は親友と休んだことがあります。許可制だったのですか?」
「昨日からな」
「……」
すごく良い笑顔を浮かべているオリヴィエ殿下。
ええと?
「あの阿呆はリディアーヌ嬢の病身の母上の望みをきかず、己のワガママをつき通して結婚を遅らせたあげくに不義。これくらい当然の罰だろう?」
「どうしてそんなことをご存じなのですか!?」
このことを知っているのはお互いの家族だけのはずだ。
「命の恩人のことで、知らないことがあるはずがないではないか」
「……っ!」
息をのみ、両手で口を押さえた。
一年前のことは知られていないと思っていたのに!
オリヴィエ殿下をみつけた渓谷には、そこにしか生えていない薬草を取りに行った。お母様の病に効く可能性のある薬を作るのに、どうしても必要だったのだ。
だけど渓谷は国有地で、立ち入るためには許可をもらう必要がある。魔獣が頻出する危険地帯だからだ。申請には時間とお金がかかる。護衛を雇うことも必須条件だ。
お金と護衛はともかくとして、お母様には時間が残されていなかった。
だから私は、弟のノエルと共に無許可で渓谷に入るしかなかった。そして用心のため、私たちはノエルの魔法で変装をした。
ノエルは私と違って、膨大な魔力と優れた技術を持っている。来年魔術庁に就職する予定だし、将来は最高ランクの魔術師になるだろうと期待されている。
そんな完璧なノエルが魔法で魔獣と役人を見張る係で、魔力なしの私が薬草をつむ係。
分担して行動している最中に、死にかけているオリヴィエ殿下をみつけた。彼から溢れだしていた魔力はノエルを苦しめたから、私だけが殿下の助命に当たった。
そして最強の魔術師である彼に捕まる前に、逃げ帰ったのだけど――
「君の弟ぎみの魔術は相当なものだな」と殿下。「この私が解析して君に辿り着くのに半年もかかってしまった」
「はんとし」
となると、だいぶ前からあれが私だと殿下はわかっていたわけだ。
「すぐにでもリディアーヌ嬢を妻に迎えたかったのだが、魔獣の出現があまりに頻発してな。エクトル・ジュアンを陥れる罠を作る暇もなかった――あ」と殿下が口を閉じる。それから笑顔。「罠は私が作ったが、不義をしたのは彼の意思だ」
「あの、情報量が多すぎて、なにがなんだか」
頭が痛くなってきた気がする。おまけに背筋が寒いような気もする。
「ええと。エクトルは私の親友の弟です」
「ドバリー夫人とは違ってろくでなしの弟だな」
「私には無許可で渓谷に入った罪があります」
「無許可ではない。入谷料と薬草採取料を支払っただろう?」
確かに役所に送りはした。だけど匿名でだ。
「私が書類をかいざ――整えておいたからなんの問題もない」
今、改竄と言おうとしたわよね?
「それに母君の病状を鑑みるに、緊急だったのは火を見るよりも明らかだ。父上も納得している」
「陛下もご存じなのですか!」
「私の結婚を心待ちにしている」オリヴィエ殿下は微笑むと私の手を取り、甲にキスを落とした。「状況を早く整えたくて、私は百を越す魔獣の大群も一瞬で殺処分できるようになった。我が国の安全はリディアーヌ嬢のおかげだ」
「……」
もう、どこからツッコんでいいのか、わからない。
というか、聞き捨てならない言葉があったような。『結婚』とかいうやつ……。
ドキドキと胸が激しく鳴っている。
これは恋?
それとも恐怖?
たぶん――
「念のために教えるが、今日のレナルド・ドバリーは私の指示で動いている」と、オリヴィエ殿下。「彼やノエル・ロランの魔術庁での活躍をとても楽しみにしている」
つまりふたりの生殺与奪の権は殿下が握っている、と。
「……私はきっと親友に絶交されてしまいます。どうしてこんな小細工を」
「あの阿呆は母君のことで君を悲しませたではないか。リディアーヌ嬢が受けたのと同等の苦しみを味わうべきだ」
ええと……。オリヴィエ殿下は私を慮ってこんなことをしたというの?
確かにお母様に私の花嫁姿を見せられなかったのは、悲しかった。エクトルを恨みもした。でもさすがにこれは、やりすぎなのではないかしら。
でも今日の不義は彼の意思らしいし、かなり暴言も吐かれた。
「それと彼と共にいた女。あれはレナルドを誘惑したものの断られ、その腹いせに酷い噂を流した張本人だ」
「まあ!」
「一石二鳥だろ?」と微笑む殿下。「リディアーヌ嬢の親友も許してくれるさ」
それはどうかしら。
夫と弟は別なのでは?
「ダメだわ。混乱しすぎて……」
オリヴィエ殿下がまたも私の手にキスをした。
「落ち着くまで、ここでゆっくりするといい。ご家族には連絡してある。むしろ今からここに住んでくれると嬉しい」
「すむ……」
「必要なものはなんでも揃えるから、言ってくれ」
結婚どころか婚約もしていない異性の部屋に住むことを、殿下はおかしいと思っていないらしい。王族の常識がおかしいのか、殿下の常識がおかしいのか。きっと後者だ。
今までのお話から、たぶん、殿下は私に好意を抱いている。なのにそれを一言も伝えずに、結婚だとか同居だとかの話をしている。とても嬉しそうに。
感情がないというのは、間違いだったらしい。
それはよかったね、とは思う。けれど、このまま流されるわけにはいかない!
「殿下」
「オリヴィエと呼んでほしい、リディアーヌ嬢」
殿下が私の手に口づけながら、熱のこもった目でみつめてくる。凄惨なまでに美しくて、魂が抜けてしまいそう。
でもダメ、負けたら絶対大変なことになる!
「申し訳ありませんが、こちらには住みません」
殿下が絶望したかのような表情になる。
「どうしてだ」
『赤の他人だから』と答えたいけど、なんとなくこの言葉はマズイような予感がする。
『未婚の男女だから』? いや、これも詰みそうだ。今すぐ結婚とか言い出しそう。
『まだお互いをよく知らないから』? 確実に、これから知り合えばいいと答えられるな。
もう、なにが正解かわからない。仕方なく、
「突然そんなことを言われても困ります」と正直に答える。
すると殿下は、
「そうか」と言ってしょぼんとした。
また、雨に濡れた子犬みたいになっている。とたんに良心がうずく。
「すまない。女性とどう接すればいいのか、わからないのだ。私は性急すぎただろうか」
「……少し」
本当は『そのとおりよ!』と言いたいけれど、殿下があまりにしょんぼりしているから、責めづらい。
「ずっとリディアーヌ嬢と話したくてたまらなかったのだ。ようやく君を手に入れられて、うかれてしまった」
待って。『手に入れた』と勝手に決めつけないで。
でもしゅんとしている殿下は可愛らしくて、『よしよし』としたくなってしまう。
イケメンの破壊力たるや、恐るべし……。
「あっ!」突然殿下が声を上げた。「しまった、大切なことを忘れていた!」
オリヴィエ殿下は私の手を離すと、また指を鳴らした。その手に虹色に輝く巨大なダイヤモンドが現れる。
「リディアーヌ嬢、これを君に」
違った。巨大なダイヤモンドがついた指輪だった。
オリヴィエ殿下はそれを私の指にはめようとする。
「待って!」
手を引くと、殿下は、
「また段取りを失敗した」と美しく苦笑した。
「リディアーヌ嬢」と殿下が私をみつめる。「私はずっと生きることが嫌だった」
え?
「無限に湧き上がる魔力は、私を蝕む。自分を生かすために魔物の命を蹂躙しなければならない。生産性のある魔法では、どうしても魔力の消費が足りないのだ」
感情がないはずのオリヴィエ殿下の表情は、苦しそうなものだった。
「殺戮に次ぐ殺戮。民を守るために必要なこととはいえ、破壊しかない日々は地獄のように感じられた。だからあのとき――」
殿下が私の手をそっとなでる。
「自家中毒を起こす前兆に気づいたから、あえてひとりで、誰もいないはずの渓谷に入ったのだ」
それは、地獄の日々を終わらせるために?
胸がずくんと痛む。
「気づいたら、死を待つ私の手を握りしめている者がいた。懸命に『しっかりして』『意識を保って』と励ましている。最初は余計なことをするなと思ったものだ」
あのときのことを思い出す。
死体のように横たわっていたオリヴィエ殿下。
私の呼びかけに殿下は目を開いたけれど、不安も焦燥も恐怖も、なにも感じていないようだった。
あれは感じていなかったのではなく、生きることを諦めていたからだったのだ。
「その者は毒となった私の魔力を吸い込み、苦しそうだった。なのにいくら私から離れるように命じても、聞き入れない。泣きながら『誰にも死んでもらいたくないの』と言って、必死に私の手を握りしめていた。お節介にもほどがある」
「……ごめんなさい。急な病に倒れた母と重ねてしまったの」
オリヴィエ殿下の細く美しい指が、涙をぬぐうかのように私の頬をなぞった。
「お節介ではあるけれど、美しいひとだと思った。この人を守るためならば、私は殺戮の神になっても構わないと思った」
殿下が真摯な眼差しで私を見つめる。
「あのときから、君が私のすべてだ。愛している。結婚してほしい」
『はい』と思わず答えそうになってしまった。
意外にも殿下は繊細らしい。支えてあげたい気はする。
だけど、あまりに急だし、小細工されているし、今流されるのは絶対にまずいと思う。
なんて返答するかを迷っていると、その隙にオリヴィエ殿下は私の指に巨大なダイヤモンドの指輪をはめた。
「よく似合う」とまたも極上の微笑みを浮かべる殿下。
うっかりとろけてしまいそうになる。
「リディアーヌ嬢に相応しい宝石がほしくて、ドラゴンを一頭退治したんだ」
「ええ!? これ、ダイヤモンドでは……!?」
「いいや、ドラゴンの胎内で形成される魔石、ドラゴンストーンだ」
「っ!?」
古来から、たったひとつで国を滅ぼす力もあると伝えられているあのドラゴンストーン!?
「魔石を取り出すためには、ドラゴンを消滅させるわけにはいかなくてね。手加減が難しくて退治にはてこずったよ」
ひえええ……。
こんな恐ろしいもの、ほしくない。でもそう言い出せない。
「返事を聞かせてほしいな」と我が国史上最強の魔術師様が、甘い声を出す。
「リディアーヌ嬢だけが私の生きる目的なんだ」
ええと……。
もしかして、だけど。魔物退治が辛いオリヴィエ殿下は生きる目的がなくなったら、また死のうとするのだろうか?
彼の命が私にかかっている?
それから国民の安全も?
オリヴィエ殿下が、不安そうな眼差しになり、
「そばにいてくれるよね?」と訊く。
その顔はずるいな。『大丈夫、私に任せて』と答えて、よしよししたくなってしまう。
だいぶアブナイひとのようなのに。
「……ええと。前向きに検討します」
殿下が不思議そうに首をかしげる。
それから卓上の空のグラスを見て、
「おかしいな」と呟いた。
待って。やっぱりその回復薬、おかしなものが入っていたの!?
「やっぱりリディアーヌ嬢は私の魔力を無効化してしまう体質なのか?」と、殿下はぶつぶつ。「まあ、いいか。リディアーヌ嬢」
オリヴィエ殿下は満面の笑みを私に向けた。
「私を生かしたのは君だ。責任を持って、私に愛されてくれ」
えええええ。そんな暴論な。
だけど――。
感情がないと噂される冷酷王子の全力の笑顔は、子犬のように可愛らしくて尊くて。
こんなすてきな表情を私に向けてくれるのならば、愛されるのもいいかもしれない――なんて思ってしまったのだった。
《おしまい》
リディアーヌ・ロラン(20)・・・伯爵令嬢。オリヴィエの魔力を無効化する体質。笑顔が素敵で、年上の頼れる男性が好み。
オリヴィエ・サヴァール(23)・・・王子。史上最強の魔術師かつ魔術庁長官かつ筆頭魔術師。ヤンデレ。リディアーヌのためならなんでもする。
マリエル・ドバリー(20)・・・リディアーヌの親友。夫とはラブラブ。弟がリディアーヌ母の存命中に結婚しなかったことを、申し訳なく思っている。
レナルド・ドバリー(20)・・・マリエルの夫。伯爵家嫡男。妻命。筆頭魔術師の言うことは絶対……!
エクトル・ジュアン(19)・・・マリエルの弟。リディアーヌの婚約者。ワガママな甘ったれ。オリヴィエに嵌められ、実家から絶縁・貴族社会から追放されるところだったけど、リディアーヌの嘆願で回避できた。でも身の危険を感じて国外に移住。