第53話 まぜる
「ん”ー! ん”ー! ん”んー!」
うつむいたヤイロさんは唸りながら大きく頭を振った。まるで低い振動音だ。かと思った次の瞬間、激しく身体を揺すり車椅子が騒がしく音を立てる。場が呆気に取られる中、唐突にぐるりと持ち上げられた顔にわたしは一瞬息を忘れた。
張り付いていたのは苦悶の表情。わたし達の見えないところで嬲られているような、あらゆる苦痛と恐怖を煮詰めて塗り固めたーー。
……普通じゃなかった。
「あらあら、ヤイロ。どうしましたか」
穏やかな調子でネメシアさんが車椅子を止めに立つ。彼女がくってりと力なく垂れた手を撫でてもヤイロさんはうわの空で。言葉にならない音を発していた。
「ふむ。今日は話は難しいでしょうか」
「これは発作みたいなものですから、大丈夫ですよ」
思案顔のノーヴへネメシアさんは微笑み掛ける。
「じきに落ち着くので少しお待ちいただけますか。その間にお菓子もどうぞ。今日はヤイロが好きだった物を焼いたんですよ!」
食べにくい……。ちらりと周りをうかがうと、シゼルが平然と頂いていた。
「美味しいですわ。香辛料を効かせましたのね。爽やかな味わいですこと」
「そうなんです! ヤイロは甘味が強過ぎない物が好みなんですよ。彼がこうなる前はよく作ってあげました」
「献身的ね」
流石だなぁ。
シゼルが口にしたのを皮切りに、ウラヌス達もお菓子に手を伸ばした。なんてアンバランスな光景だろう。そう思ったけどネメシアさんに視線で促されて、わたしも一口食べる。
(慣れない味だけど美味しい)
ホロホロと口の中で崩れる軽い食感。ぴりりと効いた香辛料の中から控えめに顔を覗かせる甘さに思わず顔を緩めた。
「美味いな」
ネメシアさんと反対側から聞こえた声に、何気なく横を見る。するとウラヌスの顔がこちらを向いていて。
ーーまた見られてた。彼はいつも知らない内にわたしを見てる。見守っている。
「うん……美味しい」
無性に恥ずかしくて口がまごついた。最後の一口を力を振り絞り飲み込んで、お茶で口内をさっぱりさせる。
もう一度ヤイロさんの具合をうかがうと、話の通り彼は落ち着きを取り戻したようだった。
また虚ろに座っている。何を見ているのか分からない、あるいは何も見ていない眼差しで。
「すまないな……ヤイロ。教えてくれないか。アザー崇拝教について何を知った?」
アザー崇拝教。その言葉に一瞬、ずっと定まらなかったヤイロさんの焦点へ意思のようなものが見られた。けれど彼は答えず、ノーヴはもう一度キーワードを口にする。
「アザー崇拝教」
ぴくりと口が動く。そしてわたし達は驚きの現象を目の当たりにする。あれ程にぼうっとしていたヤイロさんの瞳が、泥人形と同じ色の瞳が急速に知性を取り戻し始めたのだ。
「……る……まぜる……」
意味不明の発言に耳を傾ける。静まり返る室内で空の轟きがいやに響いた。
「まぜ……ズェリーザ……」
再び黙り込んだヤイロさんにノーヴが今の発言について言及する。
「何を混ぜるのだ?」
「いやだ……いやだ……い……あ、あぁあああ〜」
眩い光がパッとわたし達を照らした。慟哭へ雷鳴が混じる。これが彼の心だと言わんばかりに雨音は激しさを増して、わたしの心を騒めかせた。
「やはり問答は酷なようだな」
ウラヌスにノーヴは頷き、気を取り直したようにヤイロさんへ向き直る。
「良し、質問を変えよう。あの泥人形にはどんな意図がある?」
「……め……め……」
「め? ……君は何を待っているというのか」
「まってる……」
「……すみません、今日はあまり調子が良くないみたいです」
申し訳なさそうにネメシアさんが首を傾けた。
こんな状態の彼が、一体どれ程の会話を成せる時があるのだろう。想像がつかなくてわたしは眉をひそめる。
ヤイロさんに片脚以外の外傷の痕らしきものはない。彼の馴染みの二人もそんな話はしないから、多分ないのだと思う。でもそれなら、どうして彼は自己を失いかけているのか。見えないところへ何か……された?
(脳? 神経? もしくは……心とか?)
ノーヴは胸元からあのロケットペンダントを取り出した。黒手袋の上に映える金色が開かれて、女性と赤ちゃんが姿を見せる。小さな枠には幸福の瞬間が捉えられ収まっていた。
「最後だ。これは、君の物か?」
ヤイロさんはーー何も反応しなかった。ノーヴの瞳に静かな諦念が宿って、消える。
「……泥人形の中に入っていた。君の物だと思ったのだが」
「私も知りません。沼地に来た誰かの物が紛れてしまったんでしょうか」
「とりあえず渡しとこっか? オレ達が持ってて仕方ないし」
オージェの提案にネメシアさんは緩く首を振った。
「いいえーー皆さまがお持ちください。旅をしているんですよね? どこかで持ち主の方にお会い出来るかもしれないし」
その可能性は低いと思うけど……。
でも彼女は頑として受け取ろうとはしなかった。
「今日は雨、やみそうにないですし。良かったら泊まって行ってください」
ネメシアさんのありがたいお誘いも、しばらくして雨が上がったことで丁重に断ることとなった。
けれどいまだ曇天。ヤイロさんのように、この地は晴れを迎えずにいる。玄関先まで連れてこられた彼へノーヴは噛み締めるように告げた。
「ありがとう。ヤイロ」
……彼の靄を晴らしてあげられたら。
何かしてあげたいのに、唇を噛むしかないわたしの肩はウラヌスに抱かれ、屋敷へ背を向ける。
「アザー崇拝教がいかに危険な組織か、分かったかい」
「うん…」
「……そんな顔をするな。原因が判れば、彼を正気に戻すことだって可能かもしれない。星は君の味方だ。きっと導きがあるさ」
星の導き……人を救うもの。尊いもの。
(星の記憶を詠い、星の力を扱う星詠み……でも、星の力を扱えるのは星詠みだけじゃない。この世界の全ての人もそうだ。それから、それから……)
アザー。
人を襲う忌むべきもの。だけど、奴らも星の力を扱う。人がそうであるように、当たり前に。
(全ての命は星に育まれた。でも星の力を使えるのは人と…アザーだけ。星に愛された星詠み達すら襲うものが、どうしてその力を持つの?)
目の前の事で精一杯のわたしはまだ、この先、再び地獄を味わうことになるなんて思いもしなかった。一度目は両親を失った時。二度目はーー。
アザーと、アザー崇拝教と関わることでわたしもヤイロさんのようになるかもしれない危険性。それを目の当たりにしながらも進むしかなかった。
星の導きを信じて。世界中の人々のために。ウラヌスのために。
わたしは二度目の地獄を見るのだ。




